第31章「届かない手」
第31章「届かない手」
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あれから、五日が経った。
三人での修行は、毎日続いている。
サヤは相変わらず俺に容赦がない。何度叩きのめされたか分からない。でも、その厳しさの中に——前とは違う何かがある気がした。
「——遅い」
サヤの槍が、俺の脇腹を掠める。
「っ——」
「考えてから動くな。体が先だ」
「分かって——」
「分かってないから言ってんだ」
容赦ない。
本当に、容赦ない。
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「はい、休憩」
ティナが、水筒を差し出してきた。
「ありがと……」
俺は、その場に座り込んだ。全身が痛い。
「サヤ、ちょっとやりすぎじゃない?」
「これくらいで音を上げるようじゃ話にならない」
「でも、ハル、顔色悪いよ」
「……大丈夫」
大丈夫じゃない。
でも、弱音は吐けない。
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「——おい、ハル!」
声がして、振り返った。
父さんが、走ってくる。
珍しい。父さんが慌てている姿なんて、あまり見ない。
「どうしたの、ガルドさん」
ティナが、立ち上がった。
「避難民の中から、熱を出した奴が何人か出た」
「熱?」
「ただの風邪じゃねえ。高熱で、意識が朦朧としてる奴もいる」
父さんの顔が、険しかった。
「村の婆さんに診てもらったが、手に負えねえって言われた」
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俺たちは、避難民が集まっている納屋に向かった。
中に入ると、むわっとした空気が鼻を突いた。
熱気と、汗の匂い。
そして——苦しそうな呻き声。
「……っ」
藁の上に、何人かが横たわっていた。
顔が真っ赤で、荒い息をしている。
「いつからこうなったんですか」
ティナが、近くにいた女性に聞いた。
「昨日の夜から……最初は一人だったのに、今朝になったら三人に増えて……」
女性の声が、震えていた。
「うつる病気なのかもしれない……怖くて、近づけなくて……」
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俺は、横たわっている一人に近づいた。
中年の男だ。額に手を当てると——熱い。火のように。
「……水……」
掠れた声が、漏れた。
「水、持ってきます」
俺は、水筒の水を男の口元に運んだ。
少しだけ飲んで、また目を閉じる。
「……ありがとう……」
その礼を聞いて、胸が軋んだ。
こんなことしかできない。水を運ぶことしか。
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「なあ、ハル」
父さんが、俺の肩を叩いた。
「お前、回復魔法は使えるか」
「……使えない」
俺の魔法は、攻撃系が中心だ。
火、風、土、水——どれも、壊すことはできても、治すことはできない。
「そうか……」
父さんの声が、沈んだ。
「村には、まともな治癒師がいねえ。薬草と、婆さんの知恵だけじゃ……」
父さんは、そこで黙り込んだ。
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「——この人」
サヤの声がした。
振り返ると、サヤが一人の男の傍にしゃがんでいた。
「ヴェルム村の人だ。名前は……確か、トーマス」
「知り合いか」
「……村の鍛冶屋だった。父さんの槍も、この人が直してくれた」
サヤの声が、硬かった。いつもの素っ気なさとは違う——何かを堪えているような硬さ。
トーマスと呼ばれた男は、苦しそうに息をしていた。
顔色が、他の人より悪い。土気色、という言葉が浮かんだ。
「……サヤ、か……」
「喋るな。体力を使うな」
「……村は、どうなった……」
「……みんな無事だ。お前も、すぐ良くなる」
サヤの声が、かすかに震えていた。嘘だと分かっているような震え方だった。
「……そうか……よかった……」
男の目が、ゆっくりと閉じた。
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納屋を出ると、太陽が眩しかった。
中の空気があまりにも重くて、外の空気が別世界のように感じる。
「……どうする」
サヤが、俺に聞いた。
「どうするって……」
「お前、助けたいんだろ」
「……ああ」
「なら、どうする」
俺は、答えられなかった。
助けたい。
でも、俺には回復魔法が使えない。
薬草の知識もない。
病気のことなんて、何も分からない。
「……俺には、何もできない」
言葉が喉で引っかかった。悔しかった。情けなかった。でも同時に——諦めたくないという感情が、腹の底で燻っていた。
どうすればいい。何ができる。答えが出ない。答えが出ないのに、考えるのを止められない。
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「神殿に、使いを出すしかねえな」
父さんが、腕を組んで言った。
「神殿?」
「東に半日ほど行ったところに、小さな神殿がある。そこに治癒師がいるはずだ」
「じゃあ、すぐに——」
「問題は、来てくれるかどうかだ」
父さんの声が、苦い。
「あそこの神殿は、金にうるさい。村の連中が頼んでも、まともに取り合ってくれねえことがある」
「そんな……」
「だが、他に手がねえ。村長と相談して、使いを出す」
父さんが、踵を返した。
「お前らは、できる範囲で手伝ってくれ。水を運ぶとか、汗を拭くとか——それだけでも、違う」
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俺たちは、その日一日、看病を手伝った。
水を汲み、額を冷やし、汗を拭き、汚れた布を替える。
魔法で何かできないかと考えたが——結局、何も思いつかなかった。
「……くそ」
井戸で水を汲みながら、俺は呟いた。
(俺は、何のために強くなろうとしてるんだ)
守りたいものがある。
大事な人がいる。
でも——目の前で苦しんでいる人を、助けられない。
魔獣は倒せても、病気は倒せない。
拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛い。でも、この痛みじゃ何も変わらない。
「……ハル」
ティナが、傍に来た。
「……大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
正直に、そう言った。
「俺、何もできない」
「……」
「魔法が使えても、こういう時には役に立たない」
「……そんなことない」
ティナが、俺の隣に座った。
「水を運んでるでしょ。額を冷やしてるでしょ。それだけでも、助けになってる」
「でも——」
「治せなくても、傍にいることはできるよ」
ティナの声が、静かだった。
「あたしだって、何もできない。でも、諦めたくないから、ここにいる」
その言葉が、胸の奥に染みた。
——傍にいること。
それだけで、意味があるのか。
分からない。でも——ティナがそう言うなら、信じたいと思った。
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夕方。
使いが、村を出発した。
神殿まで半日。返事をもらって戻ってくるまで、早くても明日の夕方。
それまで、持ちこたえてくれるか——。
「……トーマスの容態が、悪化した」
サヤが、納屋から出てきて言った。
「熱が下がらない。このままだと——」
サヤは、そこで口を閉じた。
その先は、言わなくても分かった。
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夜。
俺は、納屋の隅で膝を抱えていた。
交代で看病することになって、今は俺の番だ。
ティナとサヤは、少し休んでいる。
「……」
ランプの灯りが、揺れている。
病人たちの呼吸が、重く聞こえる。
特にトーマスの息は、さっきより荒くなっている気がした。
(頼む……持ちこたえてくれ……)
祈ることしか、できなかった。
無力だった。どこまでも無力だった。
でも——ここを離れる気にはなれなかった。
傍にいることしかできないなら、せめて——朝まで、ここにいよう。
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どれくらい経っただろう。
うとうとしかけた時、納屋の戸が開いた。
「——ハル」
母さんだった。
「交代よ。少し休みなさい」
「でも——」
「あなたが倒れたら、意味がないでしょう」
母さんが、俺の頭を撫でた。
「大丈夫。私が見てるから」
「……うん」
俺は、立ち上がった。
足が、ふらついた。
「……ほら、やっぱり疲れてる。早く寝なさい」
「……ありがとう、母さん」
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家に戻る途中、空を見上げた。
星が、綺麗だった。
こんな夜でも、星は変わらず輝いている。
(神殿の治癒師、来てくれるかな……)
父さんの話だと、金にうるさいらしい。
でも、人の命がかかってるんだ。
来てくれないわけが——
「……」
分からない。
この世界のことは、まだよく分からない。
前世だって、金のために人を見捨てる奴はいた。
この世界だって、同じかもしれない。
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部屋に戻ると、サヤがいた。
壁に背を預けて、座っている。
「……寝てないのか」
「……眠れない」
サヤの声が、いつもより低かった。
「トーマスは、いい人だった」
「……」
「鍛冶の腕は確かで、村の誰の武器でも直してくれた。金がなくても、後払いでいいって」
「……」
「父さんが怪我した時も、見舞いに来てくれた。無口な奴だけど、優しかった」
サヤが、膝を抱えた。
その指が、自分の腕を強く掴んでいる。爪が食い込むくらい強く。
「……死なせたくない」
声が詰まっていた。怒りなのか悲しみなのか、きっと本人にも分からないんだろう。
「俺も——助けたい」
俺は、サヤの隣に座った。
「でも、俺には何もできない。回復魔法も使えない。薬の知識もない」
「……」
「それが、悔しい」
サヤが、俺を見た。
「……お前、泣きそうな顔してる」
「……泣いてない」
「嘘つけ」
サヤが、小さく笑った。
笑ったけど——その目も、濡れていた。
俺たちは、しばらく何も言えなかった。
言葉にしたら、何かが溢れ出しそうで。
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翌日。
昼過ぎに、使いが戻ってきた。
「神殿から、治癒師が来てくれるそうです!」
村長の声に、周りから安堵の声が上がった。
「本当か!」
「ええ。ただ……」
村長の顔が、曇った。
「到着は、明日の朝になるそうです」
「明日……」
「それと、治療費として、金貨五枚を要求されています」
「金貨五枚……!」
父さんの顔色が変わった。
それは、村の一年分の税金に近い額だ。
「……払うしかねえ」
父さんが、歯を食いしばって言った。
「村の貯えを崩す。あとは、みんなで少しずつ出し合う」
「ガルドさん……」
「人の命には代えられねえだろ」
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問題は、明日の朝まで持つかどうかだった。
トーマスの容態は、さらに悪化していた。
熱は下がらず、意識も朦朧としている。
「……こいつは、危ねえかもしれねえ」
村の婆さんが、首を振った。
「今夜が山だ」
その言葉に、サヤの顔から血の気が引いた。
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俺は、トーマスの傍に座った。
何かできることはないか。
何か——何か——
「……」
《火灯》。
魔法で、小さな灯りを作った。
温かい光が、トーマスの顔を照らす。
「……これくらいしか、できない」
声が、震えた。
情けない。こんなことしかできない自分が。
でも——だからこそ、ここにいる。
「朝まで、ここにいる」
トーマスの手を、握った。
冷たかった。
熱があるのに、手は冷たい。
「……頼む」
祈るように、呟いた。
「朝まで、持ちこたえてくれ——」
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夜が、長かった。
サヤも、ティナも、交代で傍にいた。
誰も眠らなかった。
眠れなかった。
ランプの油を足す。水を替える。額を冷やす。
できることは、それだけだった。
でも——誰も、離れなかった。
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そして——朝が来た。
東の空が、白み始めた頃。
トーマスの呼吸は、まだ続いていた。浅く、苦しそうだけど——まだ、生きている。
「……持った」
サヤが、掠れた声で言った。
「まだだ。治癒師が来るまで——」
そう言いかけた時。
納屋の戸が、開いた。
「——治癒師さんが、到着しました!」
村人の声が響いた。
俺は、顔を上げた。
逆光の中に、人影が見えた。
白と黒の法衣。
短い紫色の髪。
「……遅くなって、ごめんなさい」
息を切らしながら、その人は言った。
「使いの方の話を聞いて、待っていられなくて——神殿の許可を待っていたら、間に合わないと思ったから」
一歩、また一歩と、納屋の中に入ってくる。
「——夜通し、一人で来ました」
光が当たって、顔がはっきり見えた。
淡いラベンダー色の髪が、朝の光に透けている。
紫がかった瞳は、穏やかで——どこか、安心させる色をしていた。
年は、俺より少し上くらいだろうか。
白い法衣は質素だった。胸元が、呼吸のたびにゆるやかに上下する。
——いや、今はそんなことを見てる場合じゃない。
疲れているはずなのに、その表情には焦りがない。
まるで——「大丈夫」と、存在そのもので語りかけてくるような。
その瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。
張り詰めていた糸が、ふっと解けていくような。
助かる。
この人なら——きっと。
「私、神殿の治癒師見習いのミリア・ラベンダです」
柔らかい声だった。聞いているだけで、胸の奥の重しが少しだけ軽くなるような。
その人は、真っ直ぐに病人たちを見た。
「——助けに来ました」
その言葉を聞いた瞬間、視界がぼやけた。
涙だった。
いつの間にか、涙が出ていた。
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【第31章 終】




