第30章「三人の答え」
第30章「三人の答え」
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朝が来た。
一睡もできなかった。
窓から差し込む光が、やけに眩しい。瞼の裏に、サヤの顔がこびりついている。
あの冷たい目。
「……邪魔したな」
その声が、まだ耳から離れない。
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居間に降りると、母さんが朝食の準備をしていた。
「あら、ハル。早いわね」
「……うん」
「顔色悪いわよ? ちゃんと寝た?」
「……まあ」
嘘だ。
布団の中で、ずっと考えていた。どうすればいいのか。何を言えばいいのか。
答えなんか、出なかった。
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「おはよう」
声がして、振り返った。
サヤだった。
いつも通りの顔。いつも通りの口調。
でも——俺と目を合わせない。視線が、俺の頭上を通り過ぎていく。
「……おはよう」
「……」
サヤは、俺の隣を素通りして、食卓についた。
その背中が——昨日より遠く見えた。
母さんが、不思議そうな顔をしている。
「あら、二人とも元気ないわね。喧嘩でもした?」
「……してない」
サヤが、短く答えた。
嘘じゃない。喧嘩なんて、していない。
もっと——厄介なことだ。
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朝食は、重苦しい空気の中で終わった。
味噌汁の味なんか、分からなかった。
サヤは、食べ終わるとすぐに席を立った。
「……修行してくる」
「あ、俺も——」
「一人でいい」
冷たい声だった。
拒絶されている。分かっていたけど、実際に言葉にされると——胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
俺は、それ以上何も言えなかった。
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しばらくして、ティナがやってきた。
「ハル、おはよ——」
俺の顔を見て、言葉が止まった。
「……何かあった?」
「……サヤが」
「……そっか」
ティナの表情が、引き締まった。
昨夜のことを思い出しているのだろう。あの足音。サヤの声。閉まる戸。
「……あたし、話してくる」
「待て——」
「待たない」
ティナが、俺を見た。
その目に、迷いはなかった。いつもの、真っ直ぐな目だ。
「昨日、言ったでしょ。逃げないって」
「でも——」
「ハルは、後から来て」
ティナが、庭の方へ歩いていった。
サヤが修行している方向だ。
俺は——ティナの背中を見送ることしかできなかった。
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少しだけ時間を置いてから、庭に向かった。
心臓がうるさい。嫌な汗が、背中を伝う。
木々の向こうから、声が聞こえる。
「——話がある」
ティナの声だ。
「……何だ」
サヤの声。素っ気ない。刃物みたいに冷たい。
「昨日のこと」
「……」
「見たんでしょ」
「……ああ」
沈黙が落ちた。
風が、木々を揺らす音だけが聞こえる。
俺は、木の陰で足を止めた。
聞くべきじゃないかもしれない。でも——聞かなきゃいけない気がした。
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「……謝らない」
ティナの声だった。
「……は?」
「あたし、謝らない」
「……何言って——」
「だって、悪いことしたと思ってないから」
ティナの声は、震えていなかった。真っ直ぐだった。
「あたしは、ハルが好き。それは、嘘じゃない」
「……」
「だから、触ってもらった。キスもした」
「……聞きたくねえ」
「聞いて」
ティナの声が、強くなった。
「サヤも、ハルのこと好きでしょ」
「——っ」
空気が、張り詰めた。
「違う?」
長い沈黙。
「……関係ねえだろ」
「関係ある」
「なんで——」
「だって、あたしたち、同じ人を好きになったんだから」
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俺の心臓が、跳ねた。
ティナが、こんなにはっきり言うとは思わなかった。
「……だから、何だ」
サヤの声は、低かった。押し殺したような、でもどこか震えている声。
「お前が先にやったもん勝ちってか」
「そうじゃない」
「じゃあ、何だ」
「——一緒に、聞いてほしいの」
「……何を」
「ハルの答え」
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俺は、木の陰から出た。
もう、隠れている場合じゃない。
二人が、こちらを見る。
ティナは、覚悟した目で。真っ直ぐに俺を見ている。
サヤは——複雑な表情だった。怒っている。でも、それだけじゃない。困惑と、何か別のものが混ざっている。
「……聞いてたのか」
「……ごめん」
「謝んな」
サヤが、腕を組んだ。その指先が、小さく震えていた。
「……で? 何か言うことあんのか」
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俺は、息を吸った。
吐いた。
逃げちゃいけない。ここで逃げたら、二人を傷つける。
「……俺は」
声が掠れた。喉が、カラカラに乾いている。
でも、言わなきゃいけない。
「俺は、ティナが好きだ」
ティナの瞳が、揺れた。
「——でも」
サヤを、見た。
その目を、真っ直ぐに。
「サヤのことも、好きだ」
「……」
サヤの表情が、凍りついた。
「どっちかなんて、選べない」
「——は?」
サヤの目が、鋭くなった。怒りが、戻ってきた。
「何言ってんだ、お前」
「本気だ」
「本気で言ってんのか? 二人とも好きだから、選べないって?」
「ああ」
「——ふざけんな」
サヤが、俺に詰め寄った。
顔が近い。怒りで頬が紅潮している。
「そんなの、都合よすぎるだろ」
「分かってる」
「分かってねえ!」
サヤの声が、荒くなった。
「お前、私のこと——」
言いかけて、止まった。
唇を噛んでいる。何かを飲み込むように。
「……何でもない」
「サヤ——」
「黙れ」
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重い沈黙が落ちた。
サヤは、俺を睨んでいる。
怒っている。でも——その奥に、別の感情が見えた。
傷ついている。混乱している。
自分でもどうしていいか分からないって顔だ。
「……俺は」
もう一度、言葉を探した。
「逃げたくない」
「……」
「お前にも、ティナにも、嘘をつきたくない」
「……」
「だから、正直に言う」
俺は、サヤの目を真っ直ぐに見た。
逸らすな。逃げるな。
「俺は、お前のことが好きだ。ティナと同じくらい、本気で」
「……」
「信じてもらえないかもしれない。都合のいいことを言ってるだけかもしれない」
「……」
「でも——これが、俺の本心だ」
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サヤは、黙っていた。
睨んでいた目が、少しだけ揺らいでいる。
怒りと、困惑と、それから——名前のつけられない何かが混ざった目。
「……勝手なこと言いやがって」
「ああ」
「自分が、何言ってるか分かってんのか」
「分かってる」
「分かってねえ」
サヤが、俺の胸を押した。
強くはなかった。でも、震えていた。
「お前みたいな奴に——」
声が、詰まった。
「お前みたいな奴に、好きって言われて——」
「……」
「困るんだよ……」
最後の方は、ほとんど聞こえなかった。
でも、確かに聞こえた。
その声は——怒りじゃなかった。
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「……サヤ」
ティナが、サヤの傍に寄った。
「何だよ」
「……あたしも、最初は嫌だった」
「……」
「ハルが、サヤのために北に行くって聞いた時」
ティナが、小さく笑った。苦笑いだ。
「すごく、嫌だった。悔しかった。毎日、泣きそうになってた」
「……」
「でも——」
ティナが、俺を見た。
「ハルは、ちゃんと帰ってきた。あたしのところにも」
「……」
「二週間、ずっと待ってた。その間、ずっと考えてた」
ティナの声が、小さくなった。
「ハルを独り占めできたら、嬉しい。でも——」
一度、言葉を切った。
「サヤを追い出して手に入れたハルなんか、あたしは嫌だ」
「……何が言いたい」
「あたしは、独り占めしない」
ティナの言葉に、サヤが目を見開いた。
「——は?」
「だって、ハルはそういう奴だから」
ティナが、苦笑した。目の端が、少しだけ赤い。
「一人だけを選べないような、馬鹿だから」
「……」
「だから——サヤも、一緒に馬鹿に付き合わない?」
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サヤは、呆然としていた。
「……意味分かんねえ」
「分かんなくていいよ」
「お前、頭おかしいんじゃねえの」
「かもね」
ティナが、笑った。
でも——その笑顔の奥に、何かを堪えているような影があった。
「でも、ハルを好きになった時点で、あたしたち両方おかしいんだよ」
「……」
「だから——ね?」
ティナが、サヤに手を差し出した。
「喧嘩じゃなくて、一緒に悩もうよ」
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サヤは、ティナの手を見つめていた。
長い沈黙。
俺の心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
「……ふざけんな」
サヤが、顔を背けた。
「そんな簡単に、納得できるわけねえだろ」
「うん」
「私は——まだ、お前のこと認めてない」
「うん」
「こいつのことも——」
サヤが、俺を睨んだ。
でも——さっきとは違う目だった。怒りだけじゃない、もっと複雑な何かが混ざっている。
「許してない」
「……ああ」
「でも——」
サヤの声が、小さくなった。
「……助けてもらった恩は、ある」
「……」
「だから——今すぐ出ていくとか、そういうのは、しない」
「……ありがとう」
「礼を言うな」
サヤが、舌打ちした。でも、その頬がほんのりと赤い。
「……これからの態度で見せろ。口だけじゃなくて」
「分かった」
「本当に分かってんのかよ」
「分かってる。——証明する」
サヤが、俺を見た。
まだ怒っている。まだ納得していない。
でも——完全に拒絶されたわけじゃない。
それが、どれだけ嬉しいことか。
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「……ったく」
サヤが、髪をかき上げた。
「馬鹿二人に付き合わされて、私まで馬鹿になりそうだ」
「……ごめん」
「謝るな。謝られると、余計にムカつく」
「……」
「——次、同じことがあったら」
サヤが、俺を睨んだ。
「その時は、本当に出ていくからな」
「……分かった」
「分かってねえ顔してんぞ」
「分かってる。——今度は、ちゃんとサヤにも声をかける」
「——は?」
サヤの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「な、何言って——」
「だって、そういうことだろ?」
「違ェ! そういう意味じゃ——」
「えー、サヤもハルとしたいの?」
ティナが、にやにやしながら言った。
「黙れ!」
サヤが、ティナを睨んだ。
「お前も、調子に乗んな!」
「ごめんごめん」
ティナが、笑いながら謝った。全然反省していない顔だった。
でも——その顔には、さっきまでの緊張が消えていた。
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空気が、少しだけ軽くなった。
まだ、解決したわけじゃない。
サヤは、まだ怒っている。まだ納得していない。
でも——。
(これが、俺の選んだ道だ)
二人とも好きだ。二人とも大事だ。
だから——二人とも、幸せにする。
それが、俺の答えだ。
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「……ところで」
サヤが、咳払いをした。
顔がまだ赤いまま、槍を取り上げる。
「修行、続けるぞ」
「え?」
「朝の分、まだ終わってねえ。——お前らも、やれ」
「……うん」
「はーい」
俺とティナが、返事をする。
サヤが、槍を構えた。
その切っ先が、俺に向けられている。
「——来い。手加減しねえぞ」
その目は、まだ怒りが残っている。
でも——どこか、吹っ切れたようにも見えた。
「……望むところだ」
俺は、短剣を抜いた。
ティナも、剣を構える。
「——行くぞ」
サヤが、地を蹴った。
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その日の修行は、いつもより激しかった。
サヤは、容赦なく俺を叩きのめした。
最初の一撃で、短剣を弾き飛ばされた。
「遅い」
「——っ」
槍の柄が、脇腹を打つ。
息が詰まる。転がる。砂を噛む。
「立て」
「……っ、分かってる」
立ち上がる。短剣を拾う。
また、構える。
サヤの槍が、風を切った。
避けようとした。避けきれなかった。
肩を打たれる。痛い。熱い。
「まだ遅い」
「くそ——」
「口だけじゃなくて、体で示せって言っただろ」
「……ああ」
また立ち上がる。
膝が震えている。息が荒い。
でも——止まらない。止まったら、サヤに認めてもらえない。
「——っ!」
踏み込む。短剣を振る。
弾かれる。転がる。立ち上がる。
また踏み込む。
「……まだやるか」
「当然だ」
サヤが、小さく笑った気がした。
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夕方。
俺たちは、三人並んで座っていた。
全員、汗だくで、息を切らしている。
体中が痛い。明日は青あざだらけだろう。
「……疲れた」
俺が言うと、ティナが笑った。
「ハル、ボコボコだったもんね」
「お前もだろ」
「あたしはまだマシだったもん」
「……二人とも、まだまだだな」
サヤが、空を見上げた。
「——私一人に、負けてるようじゃ話にならねえ」
「……精進します」
「当然だ」
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夕日が、空を染めていく。
三人の影が、長く伸びている。
「……なあ」
サヤが、言った。
「何?」
「——次は、負けねえからな」
「……何の話?」
「……分かってんだろ」
サヤが、俺を横目で見た。
頬が、夕日のせいだけじゃなく、赤い。
「……ああ」
俺は、頷いた。
「楽しみにしてる」
「——っ、馬鹿」
サヤが、顔を背けた。
耳まで真っ赤だった。
ティナが、くすくす笑っている。
「サヤ、可愛い」
「うるせえ!」
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まだ、何も解決していない。
サヤは、まだ完全には納得していない。
ティナとの関係も、これからどうなるか分からない。
でも——。
(前に進める)
三人で、一緒に。
それが、今の俺にできる精一杯の答えだった。
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【第30章 終】




