第28章「待つ人」──ティナ視点
第28章「待つ人」──ティナ視点
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ハルが、いなくなった。
夜明け前に、一人で。
北へ。
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あたしがそれを知ったのは、朝だった。
リーナさんが、うちに来た。
「ティナちゃん、ハルを見なかった?」
顔色が、悪かった。
「……いえ。昨日の夕方に会ったきりで——」
「そう……」
リーナさんの目が、赤かった。
泣いていたんだと思う。
「……行っちゃったみたいなの。北に」
その言葉を聞いた瞬間——あたしの中で何かが崩れた。
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馬鹿。
馬鹿、馬鹿、馬鹿。
『行っておいで』
そう言った。
背中を、押した。
でも——。
(本当は、行かないでって言いたかった)
言えなかった。言ったら、あたしが足枷になる。
ハルの目を見た。覚悟を決めた目だった。
だから——背中を押した。
押したのに。
押したくせに。
今になって、こんなに胸が痛いのは、なんでなの。
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最初の三日間は、何も手につかなかった。
修行をしても、集中できない。
魔法を練っても、すぐに乱れる。
夜、眠れない。
目を閉じると、ハルの顔が浮かぶ。
あの日の背中が、浮かぶ。
もう二度と見られないかもしれない——そう思った瞬間、息ができなくなった。
「……馬鹿」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
ハルのことを言ってるのか、自分のことを言ってるのか、分からなかった。
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四日目の朝。
父さんが、あたしの部屋に来た。
「ティナ、いつまでそうしてるつもりだ」
「……」
「飯も碌に食わねえで。心配してんだぞ」
「……心配なんか、してない」
嘘だった。自分でも分かってた。でも、認めたら——泣いてしまいそうだった。
「嘘つけ」
父さんが、あたしの隣に座った。
ベッドが軋む音がした。
「あいつのこと、待ってんだろ」
「……」
「なら、待ってる間に何ができるか考えろ」
「……何が、できるの」
声が、掠れた。
「強くなれ」
父さんが、あたしの頭に手を置いた。
大きくて、硬くて、温かい手。
「あいつが帰ってきた時、胸を張れるようにな」
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その言葉で——あたしの中で、何かが動いた。
待つだけじゃ、ダメだ。
待ってるだけの自分なんか、嫌だ。
(あたしも、強くなる)
ハルが帰ってきた時、隣に立てるように。
足手まといじゃなくて、一緒に戦えるように。
その日から、修行を再開した。
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朝は走り込み。
村の外周を三周。最初は息が切れた。でも、止まらない。
昼は剣の素振り。
ハルと一緒にやっていたメニューを、一人で。百回、二百回。
「……せい……っ」
木剣を振る。
腕が痺れる。
手のひらに血豆ができた。潰れた。また、できた。
夕方は魔法の練習。
火球を作る。維持する。もっと大きく。もっと速く。
失敗して、爆発して、眉毛を焦がした。
でも、止まらない。
止まったら、考えてしまうから。
ハルのこと。
北の危険。
もう会えないかもしれないという——考えたくない可能性。
だから、体を動かした。
考える隙を与えないくらい、体を虐めた。
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一週間が経った。
村に、旅人が来た。
「北の方は大変らしいぞ」
宿屋で、そんな話を聞いた。
あたしは給仕の途中だったけど、手が止まった。
「魔獣が増えて、村がいくつか襲われたって」
「ヴェルム村って知ってるか? あそこも囲まれてるらしい」
心臓が——跳ねたんじゃない。
止まった。
一瞬、本当に止まった気がした。
「——それ、詳しく教えてください」
気づいたら、あたしは旅人に詰め寄っていた。
持っていたジョッキが床に落ちた。
割れる音がした。でも、どうでもよかった。
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情報は、断片的だった。
ヴェルム村は、まだ持ちこたえている。
傭兵団が援軍に向かった。
でも、いつまで持つか分からない。
「……」
あたしは宿屋の裏で、壁に額をつけた。
胸が潰れそうだった。
息ができない。
怖い。怖い。怖い。
でも——。
(信じる。あたしは、ハルを信じる)
あいつは強い。
あたしより、ずっと。
大丈夫。帰ってくる。絶対に。
(だって、約束したもん)
『帰ってきたら、ちゃんと聞くから』
あたしはそう言った。
ハルは——笑った。
あの笑顔を、もう一度見たい。
祈ることしか、できなかった。
でも、祈りながら——拳を握った。
弱い自分を、殴りたかった。
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十日目。
夕方、丘の上に登った。
北の空を見る。
何も見えない。
当たり前だ。ここからヴェルム村なんて、見えるわけがない。
でも——見ずにはいられなかった。
「……帰ってきてよ」
声が出た。
自分でも驚いた。声を出すつもりなんて、なかったのに。
「約束、したでしょ。帰ってきたら、ちゃんと聞くって——」
風が、髪を揺らした。
返事は、ない。
当たり前だ。ここにハルはいない。
北の、遠い場所で——戦ってる。
(待ってる。あたし、ちゃんと待ってるから)
拳を握った。
涙が、出そうだった。
でも、泣かない。泣いたら、負けた気がする。
何に負けるのか分からない。でも——泣きたくなかった。
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その夜、夢を見た。
ハルが、笑っていた。
「ただいま、ティナ」
「……おかえり」
あたしは、泣いていた。
夢の中なのに、涙が止まらなかった。
嬉しくて。安心して。
でも——怖くて。
これが夢だって分かってるから。
目が覚めたら、いなくなるって分かってるから。
目が覚めた時、枕が濡れていた。
泣かないって決めてたのに。
——馬鹿。あたし、馬鹿だ。
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二週間が経った。
あたしは、まだ待っていた。
修行を続けて。
毎日、北の空を見て。
リーナさんのところに顔を出して。
「……ティナちゃん、今日も来てくれたの」
「はい。何かお手伝いできることがあれば」
リーナさんの顔には、疲れが見えた。
でも——あたしが来ると、少しだけ笑ってくれる。
「ありがとう。……ユナの相手、してくれる?」
「もちろん」
ユナちゃんは、まだ小さい。
兄がいないことを、よく分かっていない。
「お兄ちゃん、いつ帰ってくるの?」
その問いに——胸が、ぎゅっとなった。
「……もうすぐだよ」
「ほんと?」
「うん。きっと、もうすぐ」
嘘じゃない。
嘘じゃないと、信じたい。
ユナちゃんの頭を撫でながら——あたしは、自分に言い聞かせた。
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ある日、ガルドさんと話した。
「……お前、毎日修行してるらしいな」
「はい」
「一人で、か」
「……はい」
ガルドさんが、あたしを見た。
ハルと同じ目の色。
その視線に——胸がざわついた。
「……あいつが帰ってきたら、驚くだろうな」
「……驚かせたいです」
自分でも意外な答えだった。
でも、本心だった。
ハルが帰ってきた時、強くなったあたしを見てほしい。
「すごいな」って言ってほしい。
「頑張ったな」って——笑ってほしい。
「そうか」
ガルドさんが、小さく笑った。
その笑い方も、ハルに似ていた。
「……あいつは、運がいい」
「……?」
「こんなに想ってくれる奴がいるんだからな」
あたしは——何も言えなかった。
顔が、熱くなった。
耳まで真っ赤になってるのが、自分でも分かった。
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待つのは、辛い。
何もできない。
ただ、信じるしかない。
でも——。
(あたしは、待つって決めたんだ)
あの夜、背中を押した。
「行っておいで」と言った。
その言葉に、嘘はない。
行ってほしくなかった。傍にいてほしかった。
でも——ハルには、行かなきゃいけない理由があった。
大切な人を助けに行くんだって、あの目で言ってた。
だから——待つ。
帰ってくるまで、待つ。
あたしにできることは、それだけだから。
——違う。
待つだけじゃない。
強くなる。
帰ってきたハルの、隣に立てるくらい。
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修行の合間に、花畑に行った。
ハルと初めて会った場所。
「ずっと友達」の約束をした場所。
花は、まだ咲いていた。
あたしは、そこに座って——空を見上げた。
「……ねえ、ハル」
誰もいないのに、話しかける。
馬鹿みたいだって分かってる。
でも——そうしたかった。
「あたしね、強くなったよ」
「剣も、魔法も、前より上手になった」
「血豆、何回も潰したの。めっちゃ痛かった」
笑った。泣きそうになりながら。
「だから——」
喉が、詰まった。
「だから、帰ってきて」
「帰ってきたら、見せてあげる」
「あたしが、どれだけ頑張ったか」
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風が、吹いた。
花びらが、舞い上がる。
その中で、あたしは目を閉じた。
涙が、一筋だけ頬を伝った。
泣かないって決めてたのに。
でも——これは悲しい涙じゃない。
信じてる涙だ。
(大丈夫)
(ハルは、帰ってくる)
(だって、約束したから)
(あいつは——そういうやつだから)
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そして——。
二週間と少しが経った、ある日の昼前。
あたしはいつものように丘の上にいた。
北の空を見ていた。
その時——丘の向こうに、何かが見えた。
人影。
たくさんの人。荷車。
避難民だろうか。
北から——?
その中に——。
黒い髪。
見覚えのある、後ろ姿。
小さい。遠い。でも——分かる。
あの歩き方。あの背中。
「——」
声が出なかった。
嘘だと思った。夢だと思った。
何度も見た夢。何度も目が覚めた夢。
でも——目が覚めない。
人影が、どんどん近づいてくる。
間違いない。
間違い、ない。
「ハ——」
名前を呼ぼうとした。
でも、声より先に——体が動いていた。
あたしは、駆け出していた。
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【第28章 終】




