第21章「一人きりの道」
第21章「一人きりの道」
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夜が明けた。
俺は街道の脇で目を覚ました。
木の根元に背を預けて眠っていたらしい。体中が痛い。背中が軋む。腰が固まっている。
「……寒い」
吐く息が白い。
初めての野宿だった。
毛布は一枚だけ。地面の冷たさが、骨まで染みた。夜中に何度も目が覚めて、そのたびに短剣を握りしめていた。
——怖かった。
でも、ここにいる。まだ、生きている。
それだけで、少しだけ安心した。
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身を起こして、体を伸ばす。
荷物を確認した。
水筒、干し肉、パン、短剣、母さんのお守り。
水筒を振ると、まだ半分以上ある。
食料は——三日分くらいか。
(北まで、どれくらいかかる……)
分からない。
ダリオさんの話では、ヴェルム村まで徒歩で五日以上。
馬があれば三日だが、俺には馬がない。
五日。
本当にたどり着けるのか。
不安が、胸の底でぐずぐずと燻っている。
でも——
「……行くしかない」
呟いた。声に出したら、少しだけ足が軽くなった気がした。
歩き出した。
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街道は、思っていたより静かだった。
商人の馬車も、旅人の姿もない。
(魔獣が増えてるって話だったな……)
みんな、移動を控えているのかもしれない。
ということは——俺みたいに一人で歩いてる奴は、相当馬鹿だ。
分かっている。分かっていて、歩いている。
周囲を警戒しながら、北へ向かった。
足が重い。
昨夜はほとんど眠れなかった。
木の葉が揺れる音。風が枝を鳴らす音。そのたびに心臓が跳ねて、短剣を構えていた。
(情けない)
十歳の子供が一人で旅をするなんて、無謀だと分かっている。
でも——
(サヤが待ってる)
その想いだけが、足を前に進ませていた。
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昼過ぎ。
街道沿いの小川で水を汲んだ。
顔を洗い、干し肉を齧る。
硬い。味も薄い。噛むたびに顎が疲れる。
でも、贅沢は言えない。
(母さんの料理が食べたい……)
ふと、そんなことを思った。
昨日の朝まで、当たり前のように食卓に並んでいた温かい食事。
焼きたてのパン。湯気の立つスープ。笑っている家族の顔。
今は、それがどれだけ幸せだったか分かる。
手が、止まった。
干し肉を握ったまま、しばらく動けなかった。
(……帰りたい)
一瞬、そんな気持ちがよぎった。
帰りたい。家に帰って、母さんの料理を食べて、ユナの笑顔を見て、ティナと修行して——
でも。
帰れない。
まだ、帰れない。
「……帰ったら、ちゃんと言おう」
声に出した。
ありがとう、って。
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午後。
空気が変わった。
風の中に、何か——嫌な匂いが混じっている。
鉄錆みたいな。生臭い。
血の匂いだ。
俺は足を止め、周囲を見回した。
心臓が、嫌な予感で騒いでいる。
街道の先、木々の間に——何かが転がっている。
(見るな)
本能が警告していた。
(見たら、後悔する)
でも、足が勝手に動いていた。
近づいてみると、馬車の残骸だった。
荷物が散乱している。車輪が折れて、幌が引き裂かれている。
そして——
「……っ」
人が倒れていた。
商人らしき男。胸元が赤く染まっている。
動いていない。
足が、勝手に止まった。
(人だ)
当たり前のことなのに、頭が理解を拒んでいる。
(人が、死んでる)
胃の奥から、何かがせり上がってきた。
熱い。苦い。こみ上げてくる。
口元を押さえて、その場にしゃがみ込む。
吐きそうだ。
血の匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。
——逃げたい。
ここから離れたい。見なかったことにしたい。
でも——
(確認しなきゃ)
もう一人の自分が、そう言っていた。
もしかしたら、まだ生きているかもしれない。
この人にも、家族がいたかもしれない。帰りを待っている人がいたかもしれない。
だったら——せめて。
俺は這うようにして近づき、恐る恐る首筋に触れた。
冷たい。
石みたいに、冷たい。
「……死んでる」
声に出した瞬間、現実になった。
目の前にいるのは、昨日まで生きていた人間だ。
朝起きて、荷物を積んで、馬車を走らせて——それが、こうなっている。
手が、震えていた。
恐怖なのか、悲しみなのか、分からない。
ただ——何かが、胸の奥でぐちゃぐちゃになっていた。
「……魔獣か」
周囲に、獣の足跡が残っていた。
狼型。たぶん、三匹以上。
(まだ近くにいるかもしれない)
背筋が凍った。
短剣を抜いて、周囲を警戒する。
音がする。
茂みの向こうで、何かが動いた。
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「——来る」
体が勝手に動いた。
考えるより先に、足が後ろに跳んでいた。
茂みから飛び出してきたのは、狼型の魔獣。
体長は俺の背丈ほど。黒い毛皮が逆立っている。赤い目が、俺を捉えている。
獣の匂いが鼻を突いた。血と泥と、腐肉の匂い。
——こいつが、あの人を殺したのか。
怒りが、恐怖を一瞬だけ上回った。
「《火球》!」
咄嗟に魔法を放った。
炎の塊が魔獣の顔面に命中する。
悲鳴を上げて、獣が怯んだ。焦げた毛皮の匂いが広がる。
だが——死んでいない。
焼けた毛皮から煙を上げながら、こちらに突進してくる。
速い。
「くそっ——!」
横に飛んだ。
爪が空を切る。風圧を感じた。掠めていたら——考えたくない。
転がりながら立ち上がり、距離を取る。
(一発じゃ倒せない……!)
心臓が早鐘を打つ。
手が震える。
足が竦みそうになる。
——逃げたい。
今すぐ背中を向けて、走り出したい。
でも——
(逃げるな)
自分に言い聞かせた。
(ここで逃げたら、サヤのところに辿り着けない)
(逃げたら——また、後悔する)
魔獣が、低く唸った。
血走った目が、俺を睨んでいる。口の端から涎が垂れている。次の瞬間には跳びかかってくる——そう分かった。
怖い。
怖いのに——体が動いた。
短剣を構える。左手に魔力を集中させる。
魔獣が、地面を蹴った。
「《炎槍》!」
槍状の炎が、魔獣の胸を貫いた。
悲鳴。
熱い飛沫が、頬にかかった。
獣の体が、俺の横をすり抜けて地面に転がる。
どさり、と重い音。
動かなくなった。
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「……はっ、はっ、はっ……」
息が荒い。
膝が笑っている。
俺は、その場に座り込んだ。
手がまだ小刻みに揺れている。短剣を握ったまま、指が開かない。
さっきまで、死ぬかもしれないと思っていた。
本当に、死ぬかもしれなかった。
あの爪が、もう少しでも早かったら——俺は、あの商人と同じになっていた。
(……死にたくない)
その気持ちが、今さらになって溢れてきた。
死にたくない。死にたくない。まだ、何もできていない。
サヤに会えていない。ティナに「ありがとう」も言えていない。母さんのお守りを返せていない。
(でも——)
生きている。
俺は、まだ生きている。
勝った。
一人で、魔獣を倒した。
「……やれる」
声に出した。
かすれた声だったけど、確かにそう思えた。
「俺でも、やれる」
怖かった。今も怖い。
でも——やれた。
それが、小さな自信になった。
腰を上げた。
足がまだガクガクしていたけど、歩ける。
前に進める。
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魔獣の死骸から離れ、街道を進んだ。
日が傾き始めている。
今夜の野営地を探さないと。
しばらく歩くと、街道沿いに小さな祠が見えた。
旅人のための休憩所らしい。屋根があって、壁も一面だけある。
野宿よりはマシだ。
俺は祠の中に入り、荷物を下ろした。
水を飲み、残りの干し肉を数えた。
あと二日分。
(足りるか……?)
不安が募る。
でも、引き返すつもりはない。
引き返したら——何のために、ここまで来たんだ。
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夜。
祠の中で、毛布にくるまっていた。
焚き火を起こしたかったが、煙で魔獣を呼び寄せるかもしれない。
暗闇の中、俺は母さんのお守りを握りしめていた。
古い布の感触。微かに、家の匂いがする気がした。
(ティナ)
今頃、何をしてるだろう。
俺がいなくなったこと、怒ってないだろうか。
いや——怒ってはいないはずだ。
あいつが、送り出してくれたんだから。
「帰ってきてから、聞くから」
あの言葉を思い出す。
震える声。濡れた目。それでも、笑おうとしていた顔。
胸の奥が、きゅっと締まった。
(……待っててくれ)
必ず帰る。
サヤを助けて、必ず。
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目を閉じた。
今夜も、あまり眠れないだろう。
虫の声が聞こえる。風が木の葉を揺らしている。
怖い。一人は怖い。
でも——一人じゃない気がした。
ティナが背中を押してくれた。母さんがお守りをくれた。
その気持ちを、俺は持っている。
「……待ってろ」
小さく呟いて、意識を手放した。
北へ。
サヤのところへ。
明日も、歩く。
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【第21章 終】




