第19章「背中を押す手」
第19章「背中を押す手」
────────────────────────────────
三日が過ぎた。
父さんに約束してから、俺は普通に暮らしていた。
朝はティナと修行して、昼は家の手伝いをして、夜は布団に入る。
普通だ。
何も変わらない。
でも——頭の中は、ずっとサヤのことでいっぱいだった。
────────────────────────────────
「ハル」
修行中、ティナが俺を呼んだ。
「なに」
「今日、三回も外したよ」
「……そうか」
「そうかって……」
ティナが、眉を寄せた。
「最近ずっとおかしい。上の空っていうか」
「……」
「まだ、サヤのこと——」
ティナが、そこで言葉を切った。
俺を見る目が、少しだけ揺れている。
聞きたくないのかもしれない。でも、聞かずにはいられない——そんな顔だった。
「……ああ」
「……そっか」
ティナが、俺の隣に座った。
木陰で、二人並んで腰を下ろす。
頭上では枝葉が風に揺れ、木漏れ日が地面にまだら模様を作っていた。どこかで小鳥が鳴いている。
肩が、触れた。
ティナの体温が伝わってくる。汗で湿った肌が近い。練習着越しに、柔らかな感触が腕に当たっている。
——今は、そういうことを意識している場合じゃないのに。
「ねえ、ハル」
「なに」
「本当のこと、言ってよ」
ティナの目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
ヘーゼルの瞳が、朝日を受けて琥珀色に光っている。
「助けに行きたいんでしょ?」
────────────────────────────────
その言葉に、何も返せなかった。
「……分かるよ」
ティナが、膝を抱えた。
「ハルの顔、ずっと苦しそうだもん」
「……」
「おじさんに止められたんでしょ。だから我慢してる」
「……ああ」
「でも、本当は行きたい」
「……」
風が吹いた。ティナの金髪が揺れる。
俺は、空を見上げた。
北の方角。
サヤがいる方向。
「行きたい」
ようやく、声に出した。
「サヤが心配だ。今すぐ飛んでいきたい」
「……」
「でも、父さんに約束した。家族を守れって言われた」
指先が、震えていた。気づいたら、手のひらに爪が食い込んでいる。
「俺がいなくなったら、母さんとユナは——」
「あたしがいるよ」
────────────────────────────────
ティナの言葉に、俺は視線を戻した。
「え?」
「あたしも、強くなったでしょ?」
ティナが、にっと笑った。
でも——その声が、かすかに震えていた。
笑顔の奥に、何かを押し殺しているのが分かる。無理をしている。それでも、笑おうとしている。
「ハルがいない間、あたしが守る」
「ティナ……」
「おばさんも、ユナちゃんも。あたしが傍にいる」
「でも、お前だって——」
「あたしは、ここにいる」
ティナが、俺の手を取った。
小さな手。でも、冷たかった。
——震えている。
木漏れ日が、繋いだ手の上に落ちていた。
「だから、ハルは——行っておいで」
────────────────────────────────
息が、詰まった。
「……いいのか」
「いいよ」
ティナが、口元を緩めた。
笑っている。
でも——目の縁が、赤く滲んでいる。瞬きのたびに、何かを堪えているのが分かった。
「だって、ハルが苦しんでるの、見てられないもん」
「……」
「それに——」
ティナが、視線を落とした。
繋いだ手を、じっと見つめている。
葉擦れの音だけが、しばらく続いた。
「あたしね、分かってるの」
「何が」
「ハルにとって、サヤは——特別なんでしょ」
言葉が、出なかった。
否定できなかった。
「あたしも、大事って言ってくれた。それは、嬉しい」
ティナの指が、俺の手を強く握った。
爪が、掌に食い込むくらい。
「でも、サヤのことも大事なんでしょ。だったら——助けに行かなきゃ」
「ティナ……」
「後悔、してほしくないの」
ティナが、顔を上げた。
涙は、流れていなかった。
でも——目が、濡れていた。
必死で堪えている。堪えているのに、瞳だけが潤んで、光を反射している。
「だから、行っておいで。サヤを助けて——」
声が、途切れた。
唇を噛んでいる。
「——ちゃんと、帰ってきて」
その声が、震えていた。
(行ってほしい。でも、行かないでほしい)
ティナの中で、その二つがせめぎ合っているのが——痛いほど伝わってきた。
────────────────────────────────
俺は、立ち上がった。
「ティナ」
「なに?」
「俺は——」
言葉を探した。
今、何を言えばいいのか。
「俺は、お前のことも——」
「分かってる」
ティナが、遮った。
「分かってるから、今は言わないで」
「……」
「帰ってきてから、聞くから」
ティナも、腰を上げた。
目元を袖で拭う。一瞬だけ。何事もなかったかのように、また笑った。
俺の背中を、ぽん、と叩く。
その手が、まだ震えていた。
「行きなよ。サヤが、待ってる」
────────────────────────────────
その夜。
俺は、準備を始めた。
食料。水筒。父さんに内緒で借りた短剣。
荷物は最小限にした。軽くないと、長距離は歩けない。
(北まで、どれくらいかかる……?)
分からない。
でも、行くしかない。
ティナが、背中を押してくれた。
震える手で。泣きそうな顔で。
それでも、「行け」と言ってくれた。
——俺は、その気持ちに応えなきゃいけない。
────────────────────────────────
深夜。
家族が寝静まった頃、俺は部屋を出た。
廊下を歩く。足音を殺して。
板張りの床が、かすかに軋む。心臓が、やけに大きく鳴っている。
居間を通り過ぎようとした時——
「……ハル」
声が聞こえた。
息が、止まった。
振り返ると、母さんが立っていた。
暗がりの中、白い寝巻き姿。ランプの光が、その顔を照らしている。
「母さん……」
「どこに行くの」
その目が、俺を見ている。
穏やかだった。怒っていない。
でも——全部、分かっているような目だった。
気づいたら、俺の足は動いていた。
逃げ出したいのに、逃げられない。母さんの前で、嘘をつくことができなかった。
「……北に。友達を助けに」
「そう」
母さんが、近づいてきた。
裸足の足音が、静かに響く。
俺の前で、立ち止まった。
「……止めないの?」
「止めたら、止まる?」
「……止まらない」
「でしょうね」
母さんの手が、俺の頬に触れた。
温かい。少しだけ、荒れている。毎日、家事をしている手だ。
「あなた、父さんに似てきたわ」
その声が、震えていた。
穏やかに笑っているのに——声だけが、揺れていた。
────────────────────────────────
母さんが、懐から何かを取り出した。
小さな袋。古びた布に、何かが入っている。
「お守りよ。私が冒険者だった頃、持っていたもの」
「母さん……」
「何度も、死にかけたわ。でも、これを持っていると——帰れる気がしたの」
母さんの手が、俺の手を取った。
お守りを、握らせてくれた。
「帰ってきなさい。必ず」
その目が、潤んでいた。
でも——涙は、流さなかった。
母さんは、泣かなかった。
俺の前で、ただ——笑っていた。
「……ありがとう」
声が、掠れた。
喉の奥が、詰まっている。
「行ってくる」
「ええ。気をつけて」
母さんが、扉を開けてくれた。
夜風が、吹き込んできた。
冷たい。夏なのに、深夜の風は肌寒い。
振り返ろうとした。
でも——振り返ったら、動けなくなる気がした。
だから、俺は。
前だけを見て、外へ踏み出した。
────────────────────────────────
村の外れ。
北へ向かう道の入り口で、足を止めた。
月明かりが、白く道を照らしている。虫の声が、夜の静けさの中で響いていた。
振り返った。
村の灯りが見える。
ほとんどの家は暗い。でも、一つだけ——うちの窓に、小さな光が灯っていた。
母さんが、起きている。
見送っている。
家族がいる。ティナがいる。
守るべきものが、あそこにある。
でも——
(サヤ)
北には、サヤがいる。
危険の中で、戦っているかもしれない。
傷ついているかもしれない。
一人で、耐えているかもしれない。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
行きたい気持ちと、残りたい気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
どっちを選んでも、何かを失う気がする。
でも——
俺は、前を向いた。
「行ってくる」
誰にともなく、呟いた。
ティナが、背中を押してくれた。
母さんが、送り出してくれた。
だから——
俺は、歩き出した。
月明かりの下、北へ向かって。
土を踏む音が、静かに響いている。
一歩、また一歩。
村の灯りが、少しずつ小さくなっていく。
振り返らなかった。
振り返ったら、止まってしまうから。
────────────────────────────────
【第19章 終】




