第18章「北からの風」
第18章「北からの風」
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あれから三日が経った。
父さんの言葉が、ずっと頭に残っている。
『お前が、母さんとユナを守れ』
重い。でも、逃げるつもりはない。
だから、修行は続けている。
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「ハル、集中!」
ティナの声が飛んできた。
「分かってる」
《炎槍》を放つ。今日で三日連続、十回中九回成功。
「すごい。もう外さないね」
「まだ足りない」
「また、それ」
ティナが、呆れたように笑った。
「ハルって、本当に自分に厳しいよね」
「そうか?」
「そうだよ。もうちょっと自分を褒めてあげなよ」
ティナが、俺の隣に来た。
汗で濡れた金髪が、首筋に張り付いている。練習着の襟元が少しはだけて、白い鎖骨が覗いていた。上気した肌が、夏の日差しを受けて艶めいている。
「……」
「どうしたの?」
「いや、何でも」
視線を逸らす。
十歳の体でも、目のやり場には困る。
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修行を終えて、村に戻った。
「ねえ、ハル。今日、うちに寄ってかない?」
「宿屋に?」
「うん。父さんが、ハルに会いたいって」
ダリオさんが?
珍しい。
「分かった。行くよ」
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鋼鉄キメラ亭。
村で唯一の宿屋兼酒場だ。
中に入ると、昼間だというのに客が多かった。
「おお、ハル。来てくれたか」
カウンターの奥から、ダリオさんが手を振った。
がっしりした体格。父さんの元冒険者仲間で、今は宿屋の主人だ。
「話があるって聞いて」
「ああ。ちょっと待ってろ。ティナ、客の相手しといてくれ」
「はーい」
ティナが、カウンターの中に入っていった。
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ダリオさんに連れられて、奥の部屋に入った。
「座れ」
椅子に腰を下ろす。
ダリオさんが、向かいに座った。
「北の話は、聞いたか」
「ああ。国境で、きな臭い動きがあるって」
「そうだ。で——もう少し詳しい話が入った」
ダリオさんの目が、真剣になった。
「北の国境沿いの村が、いくつか襲われてるらしい」
——息が、止まった。
指先が冷たくなる。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「襲われてる……?」
「魔獣だ。数が多い。村の自警団だけじゃ、対処しきれないって話だ」
「それって——」
「ああ。ヴェルム村も、その辺りだな」
サヤの村だ。
頭の中が、真っ白になった。
いや——真っ白になったのは一瞬で、すぐに色んなものが押し寄せてきた。サヤの顔。槍を構える姿。あの灰色の瞳。
(あいつが、戦ってるかもしれない)
膝の上で、拳を握り締めていた。気づいたら、爪が掌に食い込んでいる。
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「大丈夫か、ハル」
ダリオさんの声が、遠くに聞こえた。
「……ああ」
「知り合いでもいるのか?」
「……いる。友達が」
「そうか」
ダリオさんが、ため息をついた。
「ただ、今すぐどうこうできる話じゃない。距離もあるし、子どもが一人で行ける場所じゃない」
分かってる。
分かってるけど——分かりたくなかった。
「ダリオさん。もっと詳しい情報、入ってこないか?」
「商人や旅人から聞くしかないな。今夜、何人か泊まる予定だ。そいつらに聞いてみるか?」
「……頼む」
声が、掠れていた。
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夕方になっても、俺は宿屋にいた。
「ハル、ご飯食べる?」
ティナが、皿を持ってきてくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ティナが、俺の向かいに座った。
「サヤのこと、心配してるんでしょ」
「……分かるか」
「顔に出てる」
ティナが、少しだけ笑った。
でも——その笑顔の奥に、何かがあった。瞳が、ほんの一瞬だけ翳る。唇の端が、微かに震える。すぐに消えた。消したのだと思った。
「ティナ」
「なに?」
「俺——」
「言わなくていいよ」
ティナが、俺の言葉を遮った。
「サヤのこと、心配なんでしょ。それは、悪いことじゃない」
「……」
「あたしだって、友達が危険だったら心配する。それを責めるほど、あたしは狭量じゃないよ」
ティナが、俺の手に自分の手を重ねた。
小さな手だった。でも、温かい。
「だから、そんな顔しないで」
その言葉が、胸に染みた。
——同時に、刺さった。
ティナは笑っている。優しくしてくれている。でも、この子だって辛いはずだ。俺が別の女のことを心配しているのを、目の前で見せられているんだから。
それなのに、何も言わない。
「……ごめん」
「だから、謝らないでって言ってるでしょ」
ティナの声が、少しだけ強くなった。
「あたしは、あたしで決めてるの。待つって。だから——ハルはハルで、やりたいことやって」
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夜。
宿屋に、旅人たちが到着した。
商人が二人。傭兵が三人。そして——女が一人。
褐色の肌に、蜂蜜色の髪。旅芸人か何かだろうか。露出の多い服を着ていて、傭兵たちの視線を集めていた。
「北から来たんだ」
傭兵の一人が、酒を飲みながら言った。
「ひでえもんだぜ。魔獣が増えすぎて、街道を歩くのも命がけだ」
「ヴェルム村は? あの辺りはどうなってる?」
俺が聞くと、傭兵が眉を上げた。
「ヴェルム? ああ、傭兵村か。あそこはまだ持ちこたえてるらしい。腕っぷしの強い奴が多いからな」
「まだ、って……」
「このままじゃ、いつまで持つか分からんって話だ」
胃の奥が、冷たくなった。
傭兵は酒を煽りながら、隣の女の腰に手を回した。女は嫌がる様子もなく、むしろ身を寄せている。旅の道連れか、それとも——
俺は目を逸らした。そんなことを気にしている場合じゃない。
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深夜。
俺は、宿屋の隅で膝を抱えていた。
帰るつもりだったのに、足が動かなかった。情報が入るかもしれない。そう自分に言い訳をして、ずるずるとここにいる。
サヤのことが、頭から離れない。
(会いに行きたい)
でも、行けない。
子どもが一人で行ける距離じゃない。
それに、父さんには「家族を守れ」と言われた。
ここを離れるわけにはいかない。
でも——サヤが、危ないかもしれない。
ぐるぐると、同じ思考が回り続ける。答えが出ない。出るはずがない。どっちを選んでも、何かを失う気がする。
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物音で、顔を上げた。
二階から、声が聞こえる。
女の声だった。甘い。熱を帯びている。
——さっきの女だ。傭兵と一緒に部屋を取っていたのは知っている。
壁越しに、かすかな物音が漏れてくる。
聞くべきじゃない。でも、耳を塞ぐこともできなかった。
ベッドが軋む音。規則的で、少しずつ速くなっていく。
女の声が、それに合わせて高くなっていく。
やがて——静かになった。
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俺は、壁に背中をつけたまま、天井を見上げていた。
体が熱い。
十歳の体でも、こういうのを聞くと——反応する。
だが同時に、罪悪感みたいなものが胸の奥にあった。サヤのことを心配しながら、こんなものに反応している自分。ティナの優しさに甘えながら、頭のどこかで別のことを考えている自分。
——最低だ。
でも、体は正直だった。どうしようもなく、熱を持っている。
……って、今はそれどころじゃない。
頭を振って、雑念を追い出そうとした。
(サヤ)
あいつのことが、頭から離れない。
あの村が、魔獣に襲われてるかもしれない。
あいつが、戦ってるかもしれない。
俺は——何もできない。
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「ハル?」
声が聞こえた。
振り返ると、ティナが立っていた。
寝巻き姿。髪を下ろしている。いつもと違う姿に、一瞬だけ目を奪われた。
「まだ起きてたの?」
「……ああ」
「顔色、悪いよ」
ティナが、俺の隣に座った。
肩が触れそうな距離。温かい。
「サヤのこと、考えてたんでしょ」
「……ああ」
「行きたいんでしょ。会いに」
その言葉に、俺は黙るしかなかった。
図星だ。否定できない。否定したくなかった。
「……ごめん」
「謝らないでって、さっきも言ったよね」
ティナの声に、棘はなかった。でも、どこか疲れたような響きがあった。
ティナが、俺の手を握った。
「あたしは、ここにいる。でも、サヤは遠くにいる。心配になるのは、当たり前だよ」
「でも——」
「でも、今は行けない。それも分かってる」
ティナの目が、俺を見つめていた。
暗がりの中でも、ヘーゼルの瞳が微かに光っている。
「だから——今は、ここで強くなろう」
「……」
「強くなって、いつか——自分の足で、会いに行けるようになろう」
ティナが、にっと笑った。
「あたしも、一緒に強くなる。約束」
その言葉が、胸に染みた。
——同時に、また刺さった。
この子は、こうやって俺を支えてくれる。俺が別の女のことを心配しているのに、文句一つ言わない。笑ってくれる。
ずるい。
この子に甘えている自分が、ずるい。
「……ティナ」
「ん?」
「ありがとう。本当に」
ティナの手が、少しだけ強く握り返してきた。
その手が、微かに震えていた。
「……うん」
それだけ言って、ティナは俯いた。
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翌朝。
俺は、家に帰った。
父さんが、居間で待っていた。
「遅かったな」
「ダリオさんのところで、情報を集めてた」
「北のことか」
「……うん」
父さんの目が、鋭くなった。
「馬鹿なこと考えてんじゃないだろうな」
——見抜かれていた。
息が、詰まった。
「……」
「行く気か。北に」
「……サヤが、危ないかもしれないんだ」
「知り合いが一人いるだけだろう」
「友達だ」
言葉が、勝手に出ていた。
「友達のために死ぬ気か」
父さんの声が、低くなった。
「お前は十歳だ。魔獣が増えてる街道を、一人で歩けると思ってるのか」
「でも——」
「でもじゃない」
父さんが、立ち上がった。
俺を見下ろす目が、冷たい。——いや、違う。冷たいんじゃない。必死なんだ。
「俺はお前に言ったはずだ。母さんとユナを守れ、と」
「……」
「その責任を放り出して、死にに行くつもりか」
言葉が、出なかった。
父さんの言うことは、正しい。
正しいけど——
「サヤが死んだら、俺は——」
「知らん奴が死ぬのと、お前が死ぬのと、どっちが俺たちにとって重いか分かるか」
「……」
「分かるだろう」
父さんが、俺の肩を掴んだ。
大きな手だった。震えていた。
「行くな。絶対にだ」
「……」
「約束しろ、ハル」
その目が、怖かった。
怒っているんじゃない。
怖がっている——俺を失うことを。
(父さんも、必死なんだ)
分かっている。分かっているから、余計に苦しい。
「……分かった」
声が、掠れた。
「行かない」
「……そうだ。それでいい」
父さんが、俺を離した。
背を向けて、窓の方へ歩いていく。
その背中が、少しだけ小さく見えた。
「すまないな。だが、これもお前のためなんだ。分かってくれ……」
「……うん」
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部屋に戻って、窓の外を見た。
北の空。
サヤがいる方角。
(約束した)
父さんに、行かないと約束した。
でも——
(サヤ)
あいつが、戦ってるかもしれない。
傷ついてるかもしれない。
死にかけてるかもしれない。
胸の奥が、焦燥感で一杯だった。
行きたい。でも、行けない。行くべきじゃない。でも、行きたい。
どこにもぶつけられない感情が、渦を巻いている。
拳を握った。
爪が掌に食い込む。痛い。でも、この痛みがないと、どうにかなりそうだった。
答えが、出ない。
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【第18章 終】




