第17章「遠雷」
第17章「遠雷」
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サヤが去ってから、一週間が過ぎた。
毎朝、ティナとの修行は続いている。
「ハル、もう一回!」
「分かってる」
《炎槍》を放つ。的にした木の幹に、炎が突き刺さった。
あの日から、成功率は上がっている。十回に七回。悪くない。
「すごい。もうそんなに安定してる」
「まだ足りない」
サヤの顔が、浮かんだ。
あいつは、もっと上にいる。
追いつくには——もっと、もっと。
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昼過ぎ、家に帰った。
「おかえり、ハル」
母さんが、台所から顔を出した。
「ユナは?」
「お昼寝中。静かにね」
「分かった」
居間に入ると、父さんがいた。
窓際に座って、外を見ている。
「……父さん」
「ん? ああ、帰ったか」
父さんが、こちらを向いた。
笑っている。でも、目の下に隈がある。
「最近、寝てないの?」
「なんだ、心配か? 大丈夫だ。ちょっと見回りが忙しくてな」
見回り。
その言葉が、喉に引っかかった。
(嘘だ)
分かっている。父さんの「見回り」が、何を意味しているか。
あの夜、聞いてしまったから。
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夕食の席。
父さんと母さんと、俺と、ユナ。
いつもの四人。いつもの食卓。
でも、何かが違う。
「ねえ、父さん」
ユナが、スプーンを振りながら言った。
「ん? なんだ? ユナ」
「最近、夜いないの、なんで?」
空気が、凍った。
母さんの手が、一瞬だけ止まった。
「……あ、ああ、見回りだよ。村を守るために、夜も歩いてるんだ」
「ふーん」
ユナは、納得したように頷いた。五歳には、それで十分らしい。
でも、俺は——
母さんを見た。
母さんは、穏やかに笑っていた。
でも、その目が笑っていないことに、俺は気づいていた。
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夜。
布団に入っても、眠れなかった。
あの夜のことが、頭から離れない。
『責任は取りなさい。全部』
母さんは、そう言った。
父さんは、頷いた。
でも——「責任を取る」って、具体的に何をしているんだろう。
マーサさんという人のことは、俺は知らない。顔も見たことがない。
ただ、父さんが夜に出かけていることは知っている。
(まだ、会ってるのか……?)
胸の奥が、ざわついた。
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深夜。
物音で、目が覚めた。
足音だ。廊下を歩く音。
そっと起き上がって、部屋の戸を細く開けた。
父さんの背中が見えた。
玄関に向かっている。
「……」
俺は、呼吸を止めた。心臓が、やけに大きく鳴っている。
父さんが、外に出ていく。
扉が静かに閉まった。
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気づいたら、俺も外に出ていた。
追いかけようと思ったわけじゃない。体が勝手に動いていた。
月明かりの中、父さんの背中が見える。
村の中心部ではなく、外れの方へ向かっている。
(あっちには、何がある……?)
廃屋がいくつかあるはずだ。使われていない小屋。
父さんの足取りは、迷いがない。
何度も通った道なんだと、分かった。
手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。知りたくない。でも、目が離せない。自分でも、何がしたいのか分からなかった。
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廃屋の前で、父さんが立ち止まった。
周囲を見回している。俺は、木の陰に身を隠した。
鼓動が、うるさいほど響いている。バレたら、どうする。何を言えばいい。
父さんが、扉を開けた。
中から、灯りが漏れた。
誰かが、待っている。
扉が閉まる直前——女の人の声が聞こえた。
「……来てくれたんだ」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
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俺は、逃げるように家に戻った。
布団に潜り込んで、目を閉じた。
閉じても、さっきの光景が消えない。
(父さんは、まだ会ってる)
母さんが許したから?
責任を取るために?
それとも——ただ、やめられないだけなのか。
怒りなのか、悲しみなのか、それとも軽蔑なのか。でも、どこか共感してしまう俺もいる。
父さんのことが嫌いになりたいのに、なれない。
母さんが可哀想だと思うのに、口を開く勇気がない。
何もできない自分が、一番情けなかった。
でも——
(俺は、ああはならない。絶対にコソコソ会うなんてことはしない。)
拳を握った。
隠れて会うんじゃない。
嘘をつくんじゃない。
俺は、堂々と——
二人を、幸せにする。
そのために、強くなる。
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翌朝。
いつも通り、修行場所に向かった。
ティナが、いつも通り待っていた。
「おはよ、ハル」
「……ああ」
「どうしたの? 顔色悪いよ」
「寝不足だ」
「また? 最近多くない?」
ティナが、眉を下げた。
心配してくれている。その顔を見ると、胸の奥の重さが、少しだけ和らいだ。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
「考え事?」
「うん。……将来のこと」
「将来?」
ティナが、首を傾げた。
金髪が、朝日を受けて輝いている。薄い練習着が汗で肌に張り付いて、体の線がうっすら透けている。鎖骨から胸元にかけて、布地が肌に密着して——。
——目を逸らす。今は、そういう場合じゃない。
「俺、強くなりたいんだ」
「知ってるよ」
「誰にも文句を言わせないくらい。大事な人を、ちゃんと守れるくらい」
ティナの頬が、かすかに赤くなった。
「……大事な人、って」
「ティナ、お前のことだ」
「っ……」
ティナが、顔を背けた。
耳まで赤い。
「朝から、そういうこと言うの禁止……」
「事実だろ」
「事実でも!」
ティナが、俺の腕を叩いた。
全然痛くない。でも、さっきまでの重い気持ちが、少しだけ軽くなった。
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修行を終えて、村に戻る途中だった。
広場に、人だかりができていた。
「何かあったのか?」
「分からない。行ってみよう」
ティナと一緒に、人垣をかき分けた。
中心に、見慣れない男がいた。
旅装束。背中に剣。顔には、疲労の色。
「——だから、東の街道はもう使えない」
男が、村人たちに向かって言っていた。
「魔獣が増えすぎてる。商隊が三つ、襲われた。生き残りは俺だけだ」
ざわめきが広がった。
「東の街道って……」
「王都への主要路だぞ」
「魔獣が、そんなに……?」
男が、続けた。
「それだけじゃない。北の国境で、きな臭い動きがあるって話だ。軍が動いてるらしい」
北の国境。
サヤの村がある方角だ。
——胸が、鷲掴みにされたみたいだった。
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家に帰ると、父さんがいた。
居間で、ダリオさんと話している。
「——だから、自警団の強化を」
「分かってる。だが、人手が足りない」
「足りないなんて言ってる場合か。このままじゃ——」
俺が入ってきたことに気づいて、二人は口をつぐんだ。
「ハル。帰ったか」
「……ああ」
「外で遊んでこい。大人の話だ」
「俺、もうそんなに子どもじゃない」
父さんの目が、少し見開かれた。
「何が起きてるのか、教えてくれ」
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父さんは、しばらく黙っていた。
それから、ため息をついた。
「……座れ」
俺は、父さんの向かいに座った。
「魔獣が増えてる。お前も聞いただろう」
「ああ」
「原因は分からない。だが、二年前から少しずつ増え始めて……今年に入って、急激に悪化した」
「戦争の噂も、本当なのか」
「噂だけだ。まだ、何も起きてない」
父さんが、俺を見た。
「だが——備えは必要だ」
「備え?」
「お前、魔法の才能がある。剣術も、悪くない」
父さんの目が、真剣だった。
昨夜見た「嘘をつく父さん」とは、違う顔だった。
「いざという時——お前が、母さんとユナを守れ」
その言葉が、重く、深く、胸に落ちてきた。
呼吸が浅くなる。嬉しいのか、怖いのか、よくわからなかった。
「俺が……?」
「俺は自警団の仕事がある。村を守らなきゃならない。だから、家族のことは——お前に頼む」
父さんが、俺の肩に手を置いた。
大きな手だった。ずるいと思った。こんな時だけ、父親らしいことを言うなんて。
でも——その手の重さが、嫌じゃなかった。
「頼んだぞ、ハル」
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その夜。
布団の中で、天井を見つめていた。
父さんの言葉が、頭の中で繰り返されている。
『お前が、母さんとユナを守れ』
重い。
でも——逃げたくない。
ティナを守りたい。
サヤにも、追いつきたい。
そして——家族も、守りたい。
全部。
全部、手に入れたい。
欲張りだと思う。
でも、前世では何も手に入れられなかった。
だから今度こそ——
「……全部、守る」
小さく呟いて、目を閉じた。
遠くで、雷の音が聞こえた気がした。
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【第17章 終】




