第16章「嘘と、本当」
第16章「嘘と、本当」
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森の小道を走った。
木漏れ日が足元に斑模様を作っている。息が上がる。さっきの手合わせで魔力を使いすぎた。頭がまだ少しぼんやりしている。
でも、足は止まらなかった。
「サヤ!」
声を上げた。
前方で、黒いポニーテールが揺れた。
サヤが、足を止めた。
「……なんだよ」
振り返らないまま、サヤが言った。
「追いかけてくんな」
「待ってくれ」
俺は、サヤの数歩後ろで立ち止まった。
息を整える。心臓が跳ねている。走ったせいだけじゃない。
「話が、したくて」
「話?」
サヤが、ようやく振り返った。
灰色の瞳が、俺を見ている。
「何の話だよ」
「……分からない」
正直に言った。
サヤの眉が、ぴくりと動いた。
「分からねえのに追いかけてきたのか」
「ああ」
「……馬鹿だな」
「よく言われる」
サヤが、小さく鼻を鳴らした。
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しばらく、沈黙が落ちた。
森の中は静かだった。鳥の声。風が木の葉を揺らす音。それだけ。
「……座るか」
サヤが、道端の切り株を顎で示した。
「親父、まだ戻ってこねえし」
「いいのか」
「別に。暇だし」
サヤが、切り株に腰を下ろした。
俺は、少し離れた場所の岩に座った。
「遠いな」
「え?」
「もっと近く座れよ。話すんだろ」
「あ、ああ」
俺は、サヤの隣——切り株の端に腰を下ろした。
近い。
肩が触れそうな距離。
サヤの横顔が、すぐそこにある。
黒髪が日差しを受けて艶やかに光っている。うなじに、汗が一筋。
——目が、勝手にそこへ吸い寄せられた。慌てて視線を逸らす。
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「さっきの」
サヤが、前を向いたまま言った。
「あの魔法。《炎槍》だっけ」
「ああ」
「いつから練習してた」
「二年くらい前から」
サヤが、こちらを見た。
「二年?」
「最初は全然できなかった。火と風を同時に操るのが難しくて」
「……」
「何度も失敗した。魔力枯渇で倒れたこともある」
「馬鹿だな」
「二回目だぞ、それ」
「馬鹿だから二回言った」
サヤの口元が、かすかに緩んだ。
笑った——わけじゃない。でも、さっきまでの硬さが少しだけ解けた気がした。
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「私も」
サヤが、膝の上で手を組んだ。
「槍、始めたの六つの時だ」
「六つ?」
「ヴェルム村じゃ普通だ。みんな早くから武器を持つ」
「そうなのか」
「生き残るためだからな」
サヤの声が、少しだけ低くなった。
「うちの村、傭兵と元傭兵ばっかりだ。戦場で稼いで、怪我して、引退して——そういう奴らが集まってる」
「……」
「だから、弱い奴は舐められる。生き残れない」
サヤが、自分の手を見た。
槍だこができている。何年も握り続けてきた証だ。
「私は——弱いまま死にたくなかった」
その言葉に、重みがあった。
俺の知らない、サヤの人生。
俺が平和な村で魔法を練習している間、この子は生き残るために槍を振っていた。
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「母さんが死んだのは、五つの時だ」
サヤが、ぽつりと言った。
「病気だった。金がなくて、まともな薬も買えなかった」
「……」
「だから、強くなろうと思った。金を稼げるくらい。誰にも頼らなくていいくらい」
サヤの声は、淡々としていた。
でも、その淡々さの下に——何かを押し殺しているような響きがあった。喉の奥を、何かが締め付けている。そんな声。
「……ごめん」
「なんで謝んだよ」
「いや、なんとなく」
「変な奴」
サヤが、俺を見た。
その目が、さっきまでとは違っていた。
警戒が解けている。ほんの少しだけ。
「お前さ」
「ん?」
「なんで私に構うんだ」
「え?」
「最初に会った時、自分で言うのもなんだけど、かなりぶっきらぼうだっただろ? なのに、『また会いたい』とか言ってきた。今日だって、追いかけてきた。なんで」
サヤの目が、真っ直ぐ俺を見ている。
逃げられない。
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俺は、言葉を探した。
なんで。
なんでだろう。
「……うまく言えない」
「また言えないか」
「でも」
俺は、サヤの目を見た。
「お前のことが、気になる」
サヤの瞳が、揺れた。
「気になるって——」
「上手く言えない。でも、お前と話してると、なんかこう……ごめん、うまく言えない。」
「……」
「もっと知りたいって思う。お前が何を考えてるのか。何を見てきたのか」
言葉が、勝手に出てきた。
考えて言ってるんじゃない。ただ、心の中にあるものが、そのまま口から溢れている。
「だから、追いかけてきた」
「……」
サヤが、黙った。
顔が、少しだけ赤くなっている。
耳の先まで。
「……お前」
「なに」
「そういうこと、平気で言うな」
「え?」
「恥ずかしいだろうが」
サヤが、顔を背けた。
ポニーテールが揺れる。背けた横顔が、まだ赤い。
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「……私も」
サヤの声が、小さくなった。
「なんか、変なんだ。最近」
「変?」
「お前のこと、考える。村に帰ってからも。寝る前とか」
「……」
「気に入らねえ。自分で自分が分かんねえ」
サヤが、膝を抱えた。
小さくなった背中が、いつもより——脆く見えた。
「だから今日、来たんだ」
「え?」
「親父の用事に、無理やりついてきた。お前に会えるかもって——」
サヤが、そこで言葉を切った。
はっとしたように、顔を上げる。
「い、今の忘れろ」
「忘れない」
「忘れろって言ってんだ!」
サヤが、俺の肩を殴った。
痛い。でも、口元が勝手に緩んだ。
「何笑ってんだ!」
「いや——」
言葉が詰まった。嬉しいのに、怖い。こんな気持ちを知ってしまったら、もう戻れない気がする。
「……嬉しいんだ。お前が会いに来てくれたの」
サヤの顔が、さらに赤くなった。
耳どころか、首まで。
「……死ね」
「ひどいな」
「うるせえ」
サヤが、立ち上がった。
背を向けて、数歩離れる。
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「……ハル」
サヤが、背を向けたまま言った。
名前を呼ばれた。
初めてだった。
——心臓が跳ねた。呼ばれただけなのに、こんなに胸が騒ぐなんて。
「私は——」
サヤの声が、震えていた。
「お前のこと、よく分かんねえ。自分のことも、よく分かんねえ」
「……」
「でも」
サヤが、少しだけ振り返った。
横顔だけが見える。
「また——手合わせしてやってもいい」
その言葉が、まるで。
「気が向いたら、また来る」
精一杯の、答えのように聞こえた。
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「サヤ!」
遠くから、男の声が聞こえた。
サヤの父親だ。
「親父だ。行かなきゃ」
「ああ」
サヤが、歩き出した。
数歩進んで、また止まった。
「……あの女」
「え?」
「ティナ。お前、あいつのこと——」
「大事な人だ」
俺は、正直に答えた。
サヤの背中が、強張った。
「……そうか」
「でも、お前のことも」
「言うな」
サヤが、遮った。
「今は——言うな」
声が震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、それとも——聞くのが怖いだけなのか。
「……分かった」
サヤが、走り出した。
その背中が、木々の間に消えていく。
最後に。
一瞬だけ、振り返った気がした。
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一人になった。
森の中に、俺だけが残された。
鼓動が、まだ落ち着かない。
サヤの言葉が、頭の中で繰り返される。
『お前のこと、考える』
『お前に会えるかもって』
そして。
『今は——言うな』
今は、だ。
今は聞きたくない、という意味だ。
いつか——聞いてくれる時が来るかもしれない。
その「いつか」を思うと、嬉しさと不安がぐちゃぐちゃに混ざった。約束された未来なんかじゃない。でも、可能性があるというだけで、胸の奥が熱くなる。
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ティナのことを、思い出した。
『追いかけなくていいの?』
送り出してくれた時の、あの顔。
笑っていた。でも、寂しそうだった。
『ずるいな、あたし』
聞こえないふりをした、あの言葉。
俺は——二人のことが好きだ。
どっちかを選べない。選びたくない。
——最低だ。そう思う。二人を傷つけることになるかもしれない。それでも、この気持ちに嘘はつけなかった。
だから。
「強くなる」
口に出して、言った。
誰にも文句を言わせないくらい。
二人を、ちゃんと幸せにできるくらい。
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修行場所に戻った。
ティナが、まだそこにいた。
座り込んで、空を見上げている。
金髪が風に揺れていた。汗で肌が上気している。
「……ティナ」
俺が声をかけると、ティナが振り返った。
「あ、おかえり」
笑っている。
いつもの笑顔だ。でも——目の奥に、さっきはなかった影がある。待っている間に、何かを考えていたのだろう。
「サヤとは、話せた?」
「……ああ」
「そっか。よかった」
ティナが、立ち上がった。
スカートについた草を払う。
「帰ろっか。お昼過ぎちゃった」
「ティナ」
「ん?」
俺は、ティナの前に立った。
「ありがとう。送り出してくれて」
「……別に。あたしが勝手にやっただけだし」
「でも、嬉しかった」
ティナの視線が、一瞬だけ泳いだ。唇が、かすかに震える。
「……ハルって、たまにずるいよね」
「え?」
「そうやって、真っ直ぐなこと言うの。ずるい」
ティナが、俺の手を取った。
「帰ろ。お腹空いた」
その手が、少しだけ強く握られていた。震えを隠すみたいに。
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帰り道。
二人で並んで歩いた。
「ねえ、ハル」
「なに」
「あたしね」
ティナが、前を向いたまま言った。
「待つって決めたの。ハルが、ちゃんと言葉にしてくれるまで」
「……」
「でも、待ってるだけじゃないから」
ティナが、俺を見た。
いつもの明るい目。でも、その奥に——決意と、認めたくない寂しさと、それでも前を向こうとする強さが、全部混ざっていた。
「あたしも強くなる。サヤに負けないくらい。ハルの隣に立てるくらい」
「ティナ……」
「だから、覚悟しててね」
ティナが、にっと笑った。
「あたし、絶対諦めないから」
その言葉に、胸の奥が締めつけられた。嬉しいのか、苦しいのか、自分でも分からない。ただ、この子を傷つけたくないという気持ちと、それでも二人を選びたいという欲望が、同時に渦巻いていた。
二人とも。
二人とも、俺なんかを見てくれている。
だから——俺も、逃げない。
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村が見えてきた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。朝、修行場所で」
「遅れたら怒るからね」
「分かってる」
ティナが、手を振って走っていった。
その背中を見送りながら、俺は思った。
サヤ。ティナ。
二人とも、好きだ。
まだ、その気持ちに名前をつけられない。恋なのか、執着なのか、それとももっと別の何かなのか。
でも——いつか、ちゃんと言葉にする。
二人に、正面から向き合える男になってから。
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【第16章 終】




