第13章「汗と、鼓動」
第13章「汗と、鼓動」
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「遅い!」
修行場所に着くと、ティナが腕を組んで待っていた。
息が切れている。走ってきたのに、ティナの方が早かった。
「ごめん、ちょっと……寝坊した」
嘘だ。一睡もしてない。
でも、本当のことは言えない。
「もう。約束したでしょ、毎朝って」
「分かってる。明日からはちゃんと——」
「明日じゃなくて今日の話!」
ティナが頬を膨らませる。
でも、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「まあいいや。来てくれたし。さ、始めよ」
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朝靄の中、二人で準備運動を始める。
「ねえ、ハル」
「ん?」
「昨日、何かあった?」
体が固まった。
「……なんで」
「顔色、悪いから。目の下、隈できてるし」
ティナが、じっと俺の顔を覗き込む。
ヘーゼルの瞳が、朝日を受けて琥珀色に光っている。距離がない。睫毛まで見える。
「大丈夫。ちょっと眠れなかっただけ」
「本当に?」
「本当」
「……ならいいけど」
ティナが、少しだけ眉を下げた。
「無理しないでね。ハルが倒れたら、あたしが困るんだから」
その言葉に、昨夜の決意が蘇った。
(この子を、幸せにする)
喉の奥が詰まる。嬉しいのか、苦しいのか、分からない。ただ、何か熱いものが込み上げてきて——
「……ありがとう」
「え、何が?」
「いや、なんでもない。さ、始めよう」
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修行が始まった。
まずは魔力の循環訓練。目を閉じて、体の中を流れる魔力を感じる。
「ハル、見て。どう?」
目を開けると、ティナが両手を前に出していた。
小さな火球が、手のひらの上で回転している。
「上手くなったな」
「でしょ? 毎日練習してるんだから」
ティナが、得意げに胸を張った。
その拍子に、薄い練習着の胸元が揺れた。
十歳。でも、少しずつ膨らみ始めている。
(……いや、見るな)
目を別の方向に向ける。
「どうしたの?」
「何でもない。次、連続発射やってみろ」
「うん」
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修行は順調に進んだ。
ティナの成長速度は、正直驚くほどだった。
二週間前は火球を一発撃つのがやっとだったのに、今は三発連続で撃てる。しかも、狙いも正確になっている。
「サヤに、追いつきたいから」
休憩中、ティナがぽつりと言った。
「あの子、すごく強かった。あたしなんか、全然敵わなかった」
「……ああ」
「でも、諦めたくない。追いつきたい。追い越したい」
ティナの目が、真剣だった。
「なんで、そこまで」
「言ったでしょ。守りたい人がいるから」
ティナが、俺を見た。
まっすぐな視線。誤魔化しのない、純粋な目。
「あたしは、ハルを守れるくらい強くなりたいの」
——息が、止まった。
何か言葉を返さなきゃいけない。でも、何も出てこない。嬉しいはずなのに、同時にどこかが痛い。昨夜の葛藤が、ちらりと頭を掠めた。
(俺は——この子だけじゃなく、サヤのことも——)
答えられないまま、俺は黙って頷いた。
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「よし、次は実戦形式だ」
「実戦形式?」
「俺が動く的になる。俺を狙って撃て」
「え、でも、当たったら——」
「当たらねえよ。お前の腕じゃ」
わざと挑発した。
ティナの目に、闘志が灯る。
「……言ったな。後悔しても知らないから」
「望むところだ」
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修行場の端と端に立つ。
「いくよ!」
ティナが火球を放った。
俺は横に跳んで避ける。火球が背後の木に当たり、焦げた匂いが広がった。
「遅い! もっと速く!」
「分かってる!」
二発目。三発目。
俺は走りながら避け続ける。
ティナの動きが変わった。
狙いを読まれないように、フェイントを入れ始めている。
(成長してる)
四発目が、俺の頬を掠めた。
熱い。危なかった。
「今の、惜しかったな!」
「次は当てる!」
ティナが走り出した。
俺も走る。追いかけっこのような形になった。
木々の間を縫うように走る。ティナが後ろから火球を撃ってくる。
「逃げないで!」
「逃げてねえよ、避けてんだ!」
振り返りながら走った。
その瞬間——
「あっ」
足元の根っこに躓いた。
体が傾く。止まれない。
「ハルっ!」
ティナの声が聞こえた。
視界が回転する。地面が迫ってくる。
——ドサッ。
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気づいた時、俺は仰向けに倒れていた。
そして、その上に——
「い、たた……」
ティナが、覆いかぶさっていた。
俺を庇おうとして、一緒に倒れたらしい。
「大丈夫か、ティナ」
「う、うん……ハルこそ」
顔を上げたティナと、目が合った。
近い。
鼻と鼻が触れそうなほど、近い。
ヘーゼルの瞳が、俺だけを映している。汗で額に張り付いた金髪。上気した頬。荒い息。
そして——
胸が、俺の胸に押し付けられている。
薄い練習着越しに、柔らかい感触が伝わってくる。
「っ……!」
ティナの顔が、真っ赤になった。
「ご、ごめっ……!」
慌てて起き上がろうとして、ティナの手が滑った。
「きゃっ」
再び倒れ込んでくる。
今度は、もっと密着した形で。
ティナの顔が、俺の首筋に埋まっている。
吐息が、肌に当たる。くすぐったい。汗の匂い——女の子の匂いが、鼻腔を満たす。
「……ティナ」
「ま、待って、動けな……っ」
ティナが、もがいている。
でも、もがくたびに体が擦れて、余計に——
(まずい)
十歳の体でも、反応するものは反応する。
「落ち着け。ゆっくり起きろ」
「う、うん……」
ティナが、ゆっくりと体を起こした。
俺の上に跨る形で、座り込んでいる。
練習着の胸元が、汗で肌に張り付いている。うっすらと、下着の線が見えた。
「あ……」
ティナが、自分の胸元に気づいた。
慌てて両腕で隠す。
「み、見てないでしょうね!」
「見てない」
嘘だ。見た。
「嘘! 目、泳いでる!」
「泳いでねえよ」
「泳いでる! このスケベ!」
ティナが、俺の胸をぽかぽかと叩いた。
全然痛くない。でも、顔が熱い。
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しばらくして、ようやく二人とも落ち着いた。
木陰に座って、水を飲む。
「……さっきのは、事故だから」
ティナが、顔を背けたまま言った。
耳が赤い。
「分かってる」
「忘れてよね」
「忘れる」
嘘だ。忘れられるわけがない。
あの柔らかさ。あの温かさ。汗の匂い。
七十二年間、女性に触れたことがなかった。前世の俺には、想像することしかできなかった。画面の向こう、紙の向こうの存在でしかなかった。
——それが、今。
生きている女の子の体温を、初めて知った。
言葉にできない感情が、胸の底でぐちゃぐちゃに渦巻いている。なんなんだろう、これ……。ただ、「生きててよかった」、そして「おっぱいは最高」——それだけは、確かだった。
「……ハル」
「なに」
「あたしのこと、どう思ってる?」
息が止まった。
「どうって……」
「友達? 幼なじみ? それとも……」
ティナが、ちらりとこちらを見た。
その目に、不安と期待が混ざっている。
俺は、言葉を選んだ。
「……大事な人」
「え?」
「お前は、俺にとって大事な人だ。それは、間違いない」
ティナの目が、大きくなった。
「で、でも、それって——」
「それ以上は、まだ言えない」
ティナの言葉を遮った。
「俺は、まだ弱い。何も成し遂げてない。だから、今は——」
言いながら、喉の奥が詰まった。
本当のことを言えない自分が、情けなかった。
お前だけじゃない。サヤのことも好きだ。二人とも幸せにしたい。でも——そんなこと、今は言えない。
「……」
「でも、いつか」
俺は、ティナの目を見た。
「いつか、ちゃんと言葉にする。その時まで、待っててくれるか」
ティナが、しばらく黙っていた。
何を考えているのか、分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか。その沈黙が、永遠のように長く感じられた。
それから、ふっと笑った。
「……ずるい」
「え?」
「そういう言い方、ずるいよ。待つしかないじゃん」
ティナが、立ち上がった。
スカートについた土を払う。
「いいよ、待ってあげる。でも、あんまり長いと怒るからね」
「……ああ」
「あと」
ティナが、振り返った。
その目が——笑っているのに、どこか寂しげで。
「サヤにも、同じこと言うつもり?」
心臓が、跳ねた。
見透かされている。全部、分かっている。
でも、答えられなかった。何を言っても、嘘になる気がした。
ティナは、それ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑って、「続き、やろっか」と言った。
その笑顔が、胸に刺さった。
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修行を再開した。
さっきまでとは、空気が違う。
でも、悪い空気じゃなかった。
何かが、少しだけ前に進んだ気がする。同時に、何かが壊れそうな予感もあった。
(ティナ)
この子を、幸せにしたい。
その想いが、昨夜よりもずっと具体的になっていた。
でも——サヤのことも、頭から消えない。
二人とも好きだ。どちらかを選べと言われたら、選べない。
父さんと、同じだ。
(違う。俺は——、いや、同じか……)
そんなことばかり考えていた。
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【第13章 終】
※全体的に少し心理描写を増やす感じでリライトを行いました




