【番外編】第11章「身ごもった月」──ガルド視点
第11章「身ごもった月」──ガルド視点
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あの夜から、二週間が過ぎていた。
リーナの目が、時々俺を追っている。気のせいだと思いたかった。でも、妻の勘は鋭い。俺は知っている。
「父さん、今日も見回り?」
夕食の席で、ハルが聞いてきた。
「ああ。魔獣の目撃が増えてるからな」
嘘だ。
見回りは口実だ。本当は——
「気をつけてね、あなた」
リーナが、穏やかに笑った。
その笑顔が、胸に刺さる。
「……ああ」
俺は目を逸らして、席を立った。
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村外れの廃屋。
扉を開けると、マーサが待っていた。
いつもと違った。
窓辺に立っているわけでも、寝台に腰かけているわけでもない。扉が開いた瞬間、マーサが駆け寄ってきた。
「ガルド」
抱きつかれた。
強い。いつもより、ずっと強い力で。
「おい、どうし——」
言葉を遮るように、唇を塞がれた。
「んっ……ん……」
深い。舌が絡みついてくる。息ができないほど、貪るように。
「マーサ、待て、何が——」
「黙って」
マーサの瞳が、蝋燭の灯りの中で震えていた。
潤んでいる。でも、泣いてはいない。何か、決意したような——覚悟を決めた獣のような光があった。
「今夜は、何も聞かないで」
「……」
「お願い。今夜だけは」
——何かが、おかしい。
頭ではそう思う。でも、体が離れなかった。この女を突き放すことが、どうしてもできなかった。
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マーサが、俺の服を脱がせ始めた。
いつもは俺から手を出す。でも今夜は違う。マーサの方から、焦るように紐を解いていく。
「今夜は、あたしにさせて」
「おい——」
「いいから」
寝台に押し倒された。
馬乗りになったマーサが、自分の寝巻きを脱ぐ。窓から差す薄明かりが白い肌を照らした。
豊かな曲線が、月光の中で浮かび上がる。
「……綺麗だ」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「いいの、嘘でも」
——その声に、何かが混じっていた。
いつもの甘えじゃない。もっと深い、底知れない何か。
でも、聞けなかった。聞いたら、壊れる気がした。
そのまま、二人は——
「あっ……んっ……」
熱い。いつもより、ずっと。
「マーサ……」
「動かないで。あたしが、する」
いつもと違う。
マーサが主導している。自分から求め、自分から刻み込もうとしている。いや、快楽だけじゃない。何か、必死なものがある。
「気持ちいい……あなたを、感じる……」
「マーサ……何で今夜、こんな……」
「聞かないでって……言ったでしょ……」
——おかしい。何かがおかしい。
でも体は止まらない。止められない。この女の熱に、溺れていく。
「ガルド……好き……好きよ……」
「俺も——」
「嘘でもいい、言って……愛してるって……」
「嘘じゃねえ。愛してる」
「んっ……嬉しい……」
マーサの動きが激しくなった。
何かに追われるように。何かから逃げるように。
「あっ……そこ、だめ……」
「だめじゃねえだろ」
寝台が軋む。
その夜は、長かった。
互いの熱を求め、互いの存在を刻みつけるように。
やがて——二人は同時に果てた。
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「はぁ……はぁ……」
「ふぅ……ふぅ……」
荒い息だけが、小屋に響いていた。
マーサが、俺の胸に崩れ落ちている。
汗ばんだ肌。上下する背中。心臓の音が、重なって聞こえる。
しばらく、そのまま動けなかった。
「……マーサ」
「ん……」
「今夜は、いつもより激しかったな」
マーサの体が、かすかに強張った。
「……」
「何かあったのか」
沈黙。
マーサが、顔を上げた。
蝋燭の灯りの中で、その瞳が濡れている。さっきとは違う。決意の光が、怯えに変わっていた。
——胸がざわついた。理由は分からない。ただ、嫌な予感だけが這い上がってくる。
「……ガルド」
「なんだ」
「……ごめんなさい」
その声が、掠れていた。
「謝るって、何を——」
「できたの」
俺は、一瞬理解できなかった。
「できたって……」
「あなたの、子ども」
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頭が、真っ白になった。
マーサが、自分の腹に手を当てている。まだ膨らんでいない。でも、その中に——
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
マーサの声が、小さくなっていく。
「月のものが、二回来なかった。村の産婆にこっそり診てもらったの。間違いないって」
「……」
俺は、寝台に座り直した。
足から力が抜けていく。
「だから今夜は……」
「……最後にしようと思って」
マーサが、俯いた。
「あなたに迷惑はかけられない。奥さんも、子どもたちもいる。だから、あたしが身を引こうって」
「身を引くって……どこに」
「遠くの街に、昔の知り合いがいる。身を寄せられるかもしれない」
「一人でか」
「一人で」
マーサが、力なく笑った。
「だから今夜は、最後だと思って……全部、あなたにあげたかったの」
「……」
さっきの激しさの理由が、分かった。
あれは、別れの覚悟だったんだ。全てを刻み込もうとしていたんだ。
——そう気づいた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
「あ……」
言おうとして、最低な言葉を口にしようとした自分に吐き気がした。
マーサが、腹を撫でた。
「あたし、この子を殺したくない」
その声は、さっきまでとは違っていた。
震えているけど、芯がある。母親の声だった。
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俺は、頭を抱えた。
「……どうすりゃいいんだ」
「だから、あたしが——」
「ふざけんな」
気づいたら、マーサの肩を掴んでいた。体が勝手に動いていた。
「一人で産んで、一人で育てるってのか。俺の子を」
「だって——」
「俺は逃げねえよ」
口から出た言葉に、俺自身が驚いていた。
でも、本心だった。
マーサを一人で行かせるなんて、できない。俺の子を、知らない街で育てさせるなんて。
——最低な男だ。妻も子どももいるくせに。でも、この女を見捨てることだけは、どうしてもできなかった。
「ガルド……」
「リーナに話す」
マーサの目が、大きく見開かれた。
「全部話す。お前のことも、子どものことも」
「そんな……だって……」
「殴られるだろうな。家を追い出されるかもしれねえ。でも、隠し続けるよりマシだ」
俺は、マーサの頬に手を当てた。
涙を拭う。
「お前を一人にはしねえよ。絶対に」
「……ガルド」
マーサが、俺の胸に顔を埋めた。
嗚咽が漏れる。肩が小刻みに震えている。
俺は、その背中を抱きしめた。
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帰り道。
月が、やけに明るかった。
(明日……)
考えるだけで、胃が重くなる。
リーナに何て言えばいい。どう切り出せばいい。
『実は浮気してた。相手が妊娠した。責任を取りたい』
……殴られるだけで済むだろうか。
いや、済まないだろう。
家の前で、足を止めた。
窓から灯りが漏れている。まだ起きているのか。
深呼吸して、扉を開けた。
「おかえり」
リーナが、居間で縫い物をしていた。
「……遅くなった」
「魔獣でも出た?」
「いや……何も」
「そう」
リーナが、針を止めた。
「ねえ、ガルド」
「……なんだ」
「座って」
その声に、普段とは違う何かがあった。
俺は、リーナの向かいに腰を下ろした。
「話があるの」
心臓が、跳ねた。
リーナが、俺を見つめている。
穏やかな表情。でも、その奥に——嵐を押し込めているような、静かな圧があった。
「私ね、気づいてたのよ」
血の気が、引いていくのが分かった。
「最初は気のせいだと思った。帰りが遅いのも、見回りの日が増えたのも。でも——あなた、最近よく眠れてないでしょう」
「……」
「寝言で、知らない名前を呼んでたわ」
「リーナ——」
「黙って聞いて」
静かな声だった。
怒鳴られるより、ずっと怖かった。
「あなたが誰と会ってるか、知ってる。いつ頃から続いてるかも」
「……」
「私、馬鹿じゃないの」
リーナが、縫い物を膝の上に置いた。
その手が、微かに震えていた。顔は穏やかなのに、手だけが——。
「だから、聞くわ。あなた、どうするつもり?」
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全てを話した。
マーサのこと。一年以上続いていること。そして——妊娠のこと。
リーナは、最後まで黙って聞いていた。
話し終わった時、静寂が降りた。
長い、長い静寂だった。
「そう」
リーナが、ようやく口を開いた。
「子ども、できたの」
「……ああ」
「何ヶ月?」
「二ヶ月くらいだと」
「そう」
リーナが、立ち上がった。
俺の前に来る。
「顔、上げて」
俺は、顔を上げた。
次の瞬間——
パァンッ!
頬に、衝撃が走った。
椅子から転げ落ちそうになるほどの、渾身の平手打ちだった。
「……っ」
頬がじんじんと熱い。
リーナが、俺を見下ろしていた。
目が、潤んでいた。でも、涙は落ちない。奥歯を噛みしめて、堪えている。唇が震えている。それでも、一滴も零さない。
「これで終わり」
「……え?」
「叩くのは一回だけ。それ以上は、子どもたちに顔向けできないでしょう」
俺は、リーナを見上げた。
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「お前……」
「私ね、覚悟してたのよ」
リーナが、元の席に戻った。
「あなたが女好きなのは、結婚する前から知ってた。いつかこうなるかもって、どこかで思ってた」
「……」
「だから、泣かないって決めてた。そういう男を選んだのは、私だもの」
リーナの声は、穏やかだった。
でも、その穏やかさの下に、どれだけのものを押し込めているのか。俺には痛いほど分かった。怒りも、悲しみも、悔しさも——全部、飲み込んでいる。この人は、そういう強さを持っている。
「ただし」
リーナの瞳が、鋭くなった。
「責任は取りなさい。全部」
「責任って——」
「その人と子どもの面倒を見なさい。お金も、生活も。逃げることは許さない」
「……」
「私は離縁しない。ハルとユナから父親を奪うつもりもない。でも、あなたが逃げたら、その時は——」
リーナが、俺を見据えた。
「あなたを軽蔑するわ。一生」
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その夜、俺は眠れなかった。
隣で、リーナが静かに横たわっている。
背中を向けている。話しかけられる雰囲気じゃない。
(許されたのか……?)
分からない。
平手一発で済んだのは、リーナの器なのか。それとも、怒りを表に出すことすら馬鹿らしいと思われたのか。
——いや、どちらでもないのかもしれない。
あの震える手を思い出す。零れ落ちそうで零れなかった涙を思い出す。
リーナは、怒っていた。悲しんでいた。それを全部、飲み込んだんだ。家族のために。ハルとユナのために。
(どっちにしろ——)
俺は、途方もないことをしでかした。
家族を裏切った。信頼を踏みにじった。
それでもリーナは、俺を追い出さなかった。
その重さが、今になってのしかかってくる。
(明日から、どうすればいい)
マーサのところへ行って、リーナが全てを知ったと伝えなければならない。
それから——生活のことを考えなければ。
金のこと。住む場所のこと。子どもが生まれた後のこと。
「……ガルド」
小さな声が聞こえた。
「起きてるでしょう」
「……ああ」
「一つだけ、約束して」
リーナが、こちらを向かないまま言った。
「ハルとユナには、言わないで。少なくとも、今は」
「……分かった」
「あの子たちが傷つくのだけは、嫌なの」
その声が、少しだけ湿っていた。
——ああ。やっぱり、我慢してたんだ。
俺は、リーナの背中を見つめた。
手を伸ばしかけて——やめた。
今の俺に、この人に触れる資格はない。
「……すまなかった」
返事はなかった。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
同じ月を、マーサも見ているだろうか。
俺は、天井を見上げたまま、夜明けを待った。
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【番外編 第11章 終】




