第10章「交わる視線」
第10章「交わる視線」
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約束通り、翌朝から修行が始まった。
「ハル、遅い!」
「いや、まだ日の出前だぞ」
「約束したでしょ。毎朝って」
ティナが、腕を組んで待っていた。
空はまだ薄暗い。東の空がようやく白み始めたところだ。
「……本気だな」
「当たり前」
ティナの目が、いつもと違った。柔らかさが消えて、刃物みたいに鋭い。
俺は小さく笑って、家の裏手にある空き地へ向かった。
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「まず、基礎からだ」
「うん」
「魔力の流れを意識して。昨日より速く、正確に」
ティナが目を閉じる。
両手を前に出し、集中している。
「《火灯》」
小さな炎が、ティナの手のひらに灯った。
「いい感じだ。そのまま維持して」
「うん……」
額に汗が滲んでいる。
一年半前、ティナが初めて魔法を成功させた時のことを思い出した。
あの時は泣いていた。嬉しくて。
今は泣いていない。ただ、真剣な顔で炎を見つめている。
「次、《火球》に変換」
「やってみる」
炎が膨らむ。拳大の火球になった。
「できた」
「よし。じゃあ、あの木に向かって撃て」
「分かった」
ティナが腕を振る。
火球が飛んでいき——木の幹を掠めて、茂みに消えた。
「……惜しい」
「ごめん」
「謝るな。もう一回」
「うん」
何度も繰り返す。
太陽が昇り、空が青くなっていく。
気づけば、二人とも汗だくになっていた。
(集中しろ、俺)
何度目かの自戒。ティナの真剣な横顔から、目が離せない。
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「休憩にしよう」
「もうちょっと」
「ダメだ。魔力使いすぎると倒れるぞ」
「……分かった」
ティナが、地面に座り込んだ。
俺も隣に腰を下ろす。
「はあ……疲れた」
「だろ。だから言った」
「でも、楽しい」
ティナが、空を見上げた。
汗で額に張り付いた金髪。上気した頬。少し荒い息。首筋を伝う汗が、鎖骨の窪みに溜まっている。
——綺麗だ、と思った。
(幼なじみ相手に何考えてんだ)
「ねえ、ハル」
「なに」
「あたし、強くなれると思う?」
「なれるよ」
即答した。
「根拠は?」
「根拠っていうか……お前、諦めないだろ」
「……うん」
「それが一番大事だ。才能より、続ける力の方が」
父さんの受け売りだ。でも、本当にそう思う。
ティナが、少しだけ笑った。
「ハルって時々、大人みたいなこと言うよね」
「そうか?」
「うん。昔からそう。なんでだろ」
俺は答えなかった。
答えられるわけがない。前世の記憶があるなんて、言えるはずがない。
「まあいいや。とにかく、頑張る」
「ああ。一緒に頑張ろう」
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その時だった。
茂みが、がさりと揺れた。
俺は反射的に立ち上がり、ティナを背中に庇った。
「誰だ」
返事はない。
でも、殺気は感じない。魔獣でもなさそうだ。
「……出てこい」
しばらくの沈黙。
そして、茂みから姿を現したのは——
「なんだ、やっぱりお前か」
黒髪を高い位置で結んだ少女。灰色の瞳が、こちらを射抜くように見ている。
俺より少し背が高い。無駄のない立ち姿は、同い年とは思えないほど鋭かった。
サヤだった。
「……」
サヤが、俺を見ている。
いや、俺だけじゃない。俺の後ろにいるティナも。
「サヤ……? なんでここに」
「親の用事。また来ることになった」
素っ気ない答え。
「それより」
サヤの視線が、ティナに向いた。
「誰、そいつ」
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ティナが、俺の背中から出てきた。
「あたしはティナ。ハルの幼なじみ」
「……ふうん」
サヤが、ティナを見る。
ティナも、サヤを見ている。
空気が、ぴりっと張り詰めた。
二人の視線が交わっている。俺には、その間に何が流れているのか分からなかった。ただ、背筋がぞわりと粟立つような——言葉にならない緊張感だけが、肌で感じられた。
「あんたがサヤ?」
「そうだけど」
「ハルを助けてくれたんだって?」
「助けてねえよ。たまたま——」
「ありがとう」
サヤの言葉を遮って、ティナが頭を下げた。
「ハルを助けてくれて、ありがとう」
「……」
サヤが、一瞬だけ戸惑ったような顔をした。
「だから、助けてねえって」
「でも、ハルが無事だったのは事実でしょ」
「……」
サヤが、舌打ちした。
「変な奴。こいつと同じだな」
「こいつって、ハルのこと?」
「他に誰がいんだよ」
ティナが、くすっと笑った。
「そうかも。あたしとハル、似てるって言われる」
「……そうかよ」
サヤが、視線を逸らした。
居心地が悪そうだ。俺は、なんとなくその気持ちが分かった。
ティナの明るさは、時々眩しすぎる。
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「ねえ、サヤ」
「なに」
「あんた、強いんでしょ?」
「……まあ」
「じゃあ、あたしと手合わせしてよ」
俺とサヤが、同時に固まった。
「は?」
「なに言って——」
「あたし、強くなりたいの。強い人と戦ってみたい」
ティナの目が、さっきまでとは別人のようだった。
笑顔が消えている。代わりに、燃えるような何かが宿っていた。
「あんたはハルを助けられた。あたしはできなかった。だから、知りたいの。あんたがどれくらい強いのか」
「……」
サヤが、ティナを見つめた。
しばらく、沈黙が続いた。
「いいよ」
サヤが、腰の木刀——いつの間にか持っていた——を抜いた。
「でも、手加減しねえぞ」
「望むところ」
「ちょ、待て待て」
俺が慌てて二人の間に入った。
「いきなり何言ってんだよ。ティナ、お前まだ魔法しか——」
「分かってる」
ティナが、俺を見た。
その瞳に、見たことのない光が宿っていた。
「分かってるよ、ハル。あたしが弱いってことくらい」
「だったら」
「でも、知りたいの。どれくらい足りないのか。どこまで頑張ればいいのか」
「……」
「お願い。邪魔しないで」
——言葉が出てこなかった。
ティナがこんな顔をするのは、初めてだった。
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二人が向かい合った。
サヤは木刀を構えている。低く、無駄のない構え。いつでも動ける姿勢だ。
ティナは両手を前に出し、魔法の構えを取っている。
「いつでもいいぞ」
「……いくよ」
ティナが、火球を放った。
サヤの体が沈んだ。膝を落とし、重心を移動させて——火球が通過する瞬間には、もう元の位置にいなかった。
「遅い」
「っ」
ティナが、連続で火球を撃つ。三発、四発、五発。
サヤは全て避けた。半歩の動き、首を傾げるだけの動き、時には炎の熱が髪を掠めるギリギリで——まるで獲物を見定める獣のように、冷たい目でティナを見ている。
「魔法だけか。接近されたらどうすんだ」
「くっ」
サヤが地面を蹴った。
一歩で距離が消えた。いや、一歩じゃない。半歩で踏み込み、もう半歩で間合いを潰している。足音がほとんど聞こえない。
ティナの目が追いついていない。
木刀の先端が、ティナの喉元に突きつけられた。
「終わり」
「……」
ティナが、動けなくなっていた。
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「ま、こんなもんだろ」
サヤが、木刀を下ろした。
「悪くねえよ。魔法の才能はあるんだろう。でも、それだけじゃ戦えない」
「……分かってる」
ティナの声が、震えていた。
——悔しいんだろう。俺には、痛いほど分かった。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「目、赤いぞ」
「泣いてない!」
ティナの手が、拳を握りしめていた。爪が掌に食い込むほど強く。
——泣くまい、と堪えている。その姿が、胸に刺さった。
サヤが、ふっと息を吐いた。
「……お前、なんでそんな強くなりたいんだよ」
「え?」
「さっきも言ってただろ。強くなりたいって。なんで」
ティナが、俺を見た。
それから、また前を向いた。
「……守りたい人がいるから」
「守りたい人?」
「うん。だから、強くなりたいの」
サヤが、俺をちらりと見た。
その視線の意味が、分かった気がした。
「……ふうん」
サヤが、木刀を腰に戻した。
「じゃあ、頑張れよ。今のままじゃ、守るどころか足手まといだけどな」
「っ」
ティナが、唇を噛んだ。
——噛みすぎて、血が滲んでいる。
「言われなくても、頑張る」
「そうかよ」
サヤが、背を向けた。
「じゃあな」
「待って」
ティナが、声を上げた。
「また来る?」
「……さあ。親の用事次第だ」
「来たら、また手合わせして」
サヤが、振り返った。
少しだけ、驚いたような顔をしていた。
「……お前、変な奴だな」
「よく言われる」
ティナが、にっこり笑った。
さっきまで泣きそうだったのが嘘みたいに、いつもの笑顔だった。でも——唇にはまだ血が滲んでいて、目の縁は赤くて。無理をしているのが、痛いほど分かった。
サヤが、何か言いかけて、やめた。
「……勝手にしろ」
それだけ言って、サヤは茂みの向こうへ消えていった。
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二人きりになった。
「……ティナ」
「なに」
「大丈夫か」
「大丈夫」
ティナが、俺を見た。
——嘘だ。大丈夫なわけがない。
目がまだ赤い。唇には血の跡。拳は白くなるほど握りしめられている。
「悔しいけど、大丈夫。むしろ、すっきりした」
「すっきり?」
「うん。どれくらい足りないか、分かったから」
ティナが、拳を握り直した。
「あの子、すごく強い。あたしなんか、全然敵わない」
「……」
「でも、追いつけないとは思わない」
ティナが、俺を真っ直ぐ見た。
「だから、もっと頑張る。明日も、明後日も、ずっと」
その目には、涙の跡と、それを上回る決意があった。
——胸が、きゅっと締まった。
何か言いたかった。「無理するな」とか、「一緒に頑張ろう」とか。でも、どれも薄っぺらく感じて、口から出てこない。
だから、ただ頷いた。
「……ああ」
「うん」
ティナが、笑った。
雲が晴れたような、眩しい笑顔。でも、その奥に残る翳りを、俺は見逃さなかった。
——悔しいだろう。辛いだろう。でも、それを笑顔で隠すのが、ティナだ。
なんでか、その姿を見ていたら——俺も悔しくなった。
ティナにこんな顔をさせたくない。でも、今の俺じゃ何もできない。それが、たまらなく歯痒かった。
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その夜。
俺は、また二人の顔を思い浮かべていた。
ティナ。「守りたい人がいるから」と言った。
——あの時、俺を見た。俺を、だ。
サヤ。「足手まといだ」と言い放った。
——でも、最後にティナを見る目は、どこか認めるような色があった気がする。
二人は、水と油みたいに違う。
でも、どちらも本気だった。強くなりたいと願うティナも、容赦なく現実を突きつけるサヤも。
(……面倒なことになりそうだな)
そう思いながら、俺は目を閉じた。
面倒だと思っているのに、どこか嬉しいような気持ちもあった。
なんだ、これ。名前がつかない。
嬉しいのか、困っているのか、不安なのか——自分でも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
二人とも、頭から離れない。
ティナの涙を堪える横顔も、サヤの冷たい目も。
——どちらも、もう見たくないと思った。
ティナにはもう泣いてほしくない。サヤには、いつか「悪くない」と言わせたい。
そのためには——俺も、強くならないといけない。
目を閉じても、二人の顔がちらついて、なかなか眠れなかった。
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【第10章 終】




