第9章「名前を呼ぶ声」
第9章「名前を呼ぶ声」
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森での一件から、三日が経った。
「ハルー!」
朝。いつものように、ティナが家の前まで迎えに来た。
「今日は何する?」
「んー、川に行かない? 暑いし」
「いいな。行こう」
夏の盛りだった。朝から陽射しが強く、少し歩くだけで汗が滲む。
ティナと並んで歩きながら、俺はふと気づいた。
二年前より、ティナの背が伸びている。
俺と同じくらいだったのが、今は俺の方が少しだけ高い。
金髪が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
——それと、どこか雰囲気も変わった気がする。
二年前にはなかった、大人びた空気。
(いやいや、何考えてんだ俺は)
慌てて視線を逸らす。でも、一度意識したら気になって仕方ない。
「どうしたの? 変な顔して」
「な、なんでもない。背、伸びたなって」
「ハルの方が伸びたんじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。あたし、追い抜かれたもん」
ティナが、少しだけ頬を膨らませた。
「悔しい」
「悔しいって言われても」
「だって、昔は同じくらいだったのに」
「男の方が伸びるんだよ、たぶん」
「知ってるけど」
ふん、とティナが鼻を鳴らす。
でも、すぐに明るい表情に戻った。
「まあいいや。魔法はあたしの方が上手くなってるし」
「……それはどうかな」
「何その顔。信じてないでしょ」
「信じてる信じてる」
「絶対信じてない!」
二人で声を上げながら、川へ向かった。
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村の外れを流れる川は、子供たちの遊び場だった。
浅瀬があって、水が澄んでいて、暑い日には最高の場所。
「冷たい!」
ティナが、足を水に浸けて声を上げた。
「気持ちいいね、ハル」
「ああ」
俺も隣に座って、足を水に入れる。
ひんやりとした感触が、火照った体を冷やしていく。
ティナが、ばしゃばしゃと足を動かした。水飛沫が飛んで、俺の顔にもかかる。
「おい」
「あはは、ごめんごめん」
全然悪いと思ってない顔だ。
——その時、風が吹いた。
ティナの金髪が風になびき、陽の光を受けて輝いた。
(……綺麗だな)
思わずそう思った。視線を逸らそうとして、逸らしきれない。
二年前は何とも思わなかった。でも今は——
「ハル? 顔、赤くない?」
「暑いからだ」
「そう? 水に入ればいいのに」
ティナが首を傾げる。その仕草で、鎖骨のラインが目に入った。
(落ち着け。幼なじみだろ)
無理やり視線を水面に向ける。
しばらく、二人で並んで座っていた。
「……ねえ、ハル」
「ん?」
「この前、森で魔獣に会ったって聞いたけど」
俺は、少しだけ体を固くした。
「……誰から聞いた?」
「パパ。ガルドさんから聞いたって」
ダリオさんか。父さんが話したんだろう。
「大丈夫だったの? 怪我とかしてない?」
「してない。大丈夫だった」
「本当に?」
ティナが、俺の顔を覗き込む。
ヘーゼルの瞳が、心配で曇っている。
「本当だって。ほら、どこも怪我してないだろ」
「……うん」
ティナが、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「よかった」
「心配かけて悪かったな」
「ううん。でも、もう一人で森に入っちゃダメだよ」
「分かってる。父さんにも約束した」
「ならいいけど」
ティナが、水面を見つめる。
しばらく、沈黙が続いた。
「……ねえ、ハル」
「なに」
「誰かに助けてもらったって、聞いた」
俺は、水面に視線を落としたまま答えた。
「ああ。たまたま通りかかった人がいて」
「どんな人?」
「……俺と同じくらいの年の、女の子」
ティナの手が、水面で止まった。
「女の子?」
「ああ。槍を持ってて、すごく強かった」
「……そうなんだ」
ティナの声が、さっきまでと違った。低いのではなく、何かを押し殺しているような——妙に平坦な声だった。
「名前は?」
「サヤ。北のヴェルム村から来たって言ってた」
「サヤ……」
ティナが、その名前を小さく繰り返した。
俺は、ティナの横顔を見た。
いつもの明るさが消えている。何を考えているのか——いや、何を感じているのか、俺には読めなかった。
「ティナ?」
「なに」
「どうかした?」
「別に。何でもない」
ティナが、水面を蹴った。
水飛沫が上がって、俺の顔にかかった。
「うわっ」
「あはは、かかった」
「何すんだよ」
「仕返し」
「何の仕返しだよ」
ティナが口元だけで笑う。でも、目が笑っていなかった。
——俺は、その違和感に気づいてしまった。
「……ティナ」
「なに?」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
「嘘だ。なんか変だ」
ティナが、俺を見た。
一瞬だけ、目の奥で何かが揺らいだ。
「……怒ってないよ。ただ」
「ただ?」
「……ちょっとだけ、悔しいなって」
「悔しい?」
ティナが、膝を抱えた。
「あたしじゃ、ハルを助けられなかったから」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
「あたしも魔法使えるようになったけど、まだ全然弱い。ハルが困ってる時に、何もできない」
「……」
「その……サヤって子は、ハルを助けられたんでしょ」
「まあ、結果的には」
「だから、悔しいの」
ティナの声が震えた。
——違う。声だけじゃない。膝を抱えた指先が、白くなるほど力が入っている。
「あたしも、もっと強くなりたい」
その横顔を見ていたら、胸の奥がきゅっと締まった。
ティナは、俺のことを本気で心配してくれている。
俺が誰かに助けられたことを、自分のことのように悔しがっている。
でも——それだけじゃない気がした。
ティナの「悔しい」の中には、もっと複雑な何かが混ざっている。嫉妬とか、焦りとか、もどかしさとか——たぶん、ティナ自身にも名前をつけられないような。
「……ティナ」
「なに」
「一緒に修行しよう」
ティナが、顔を上げた。
「え?」
「俺も、もっと強くなりたい。一人じゃ危ないって分かったし。だから、一緒にやろう」
「……いいの?」
「いいも何も、元々俺が教えるって約束しただろ」
ティナの表情が、少しだけ緩んだ。
「うん……うん!」
「よし。じゃあ明日から、毎朝修行だ」
「分かった。頑張る」
ティナが、にっと口角を上げた。
いつもの、太陽みたいな——でも、その目の奥に、さっきまでとは違う光が灯っていた。
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その日の夕方。
家に帰る途中、ティナが言った。
「ねえ、ハル」
「ん?」
「その、サヤって子」
「……うん」
「また会うの?」
俺は、少しだけ考えた。
「分からない。向こうは北の村に住んでるから」
「そう」
「でも」
「でも?」
「……また会いたいとは、思ってる」
正直に言った。
言ってから、なぜ正直に言ったのか分からなかった。ティナを傷つけるかもしれないのに。
——でも、嘘はつきたくなかった。
ティナが、足を止めた。
「……そう」
その声は、いつもより小さかった。消えそうなほど。
「ティナ?」
「なんでもない」
ティナが、歩き出す。俺も慌てて追いかけた。
「待てって。どうしたんだよ」
「どうもしてない」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない」
ティナが、俺を見た。
夕陽を背にして、金髪がオレンジ色に染まっている。
「ただ……なんか、変な気持ち」
「変な気持ち?」
「うん。よく分かんないけど、胸のあたりがもやもやする」
ティナが、自分の胸に手を当てた。
「悲しいような、悔しいような……よく分かんない」
俺には、それが何なのか、なんとなく分かった。
分かったけど、言葉にはできなかった。言ったら、何かが変わってしまう気がした。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「よく分かんないけど、謝った方がいい気がした」
ティナが、ぷっと吹き出した。
「何それ」
「いや、だって」
「変なの」
「お前に言われたくない」
二人で声を上げた。
でも、何かが変わった気がした。
俺とティナの間に、今までなかった何かが生まれた。
それが何なのか、まだよく分からなかったけど。
「……ハル」
「うん」
「あたし、負けないから」
「何に?」
ティナは答えなかった。
ただ、まっすぐ前を向いて歩いていった。
俺はその背中を見ながら、なぜか「サヤ」の顔を思い出していた。
黒髪。灰色の瞳。冷たい声。
ティナとは、全然違う。
でも、どちらも頭から離れない。
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その夜。
俺は、ベッドの上で二人の顔を思い浮かべていた。
金髪のティナ。
黒髪のサヤ。
ティナのことは、昔から知っている。一緒に育った。守りたいと思う。優しくしたいと思う。笑っていてほしいと思う。
でも今日——膝を抱えた横顔とか、夕陽に染まった金髪とか、そういうものが頭にちらついて、なかなか消えない。
(……俺、ティナのこと、どう思ってんだ?)
分からない。幼なじみ。大切な存在。それは間違いない。
でも、それだけじゃない何かが、芽生え始めている気がする。
——そして、サヤ。
あの子のことは、まだほとんど知らない。
ボロクソに言われた。馬鹿だと言われた。調子に乗るなと説教された。
なのに——また会いたい。
悔しくなる。負けたくないと思う。認められたいと思う。
あの子にボロクソに言われて、それでも次は見返してやりたいと思う。
(……なんだ、これ)
ティナへの気持ちとは、全然違う。でも、どちらも「気になる」という点では同じだ。
上手く言えない。好きとか嫌いとか、そんな単純なものじゃない。
(……どうなるんだろう、これから)
分からない。
でも、何かが動き始めている。
それだけは、確かだった。
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【第9章 終】




