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江戸に住む兄妹が女を助けたら、何故か近沢レースのハンカチを持っていたお話。

作者: のんちゃ

江戸時代。


路地裏で兄妹が出会ったのは、ひとりの女。


「お願いです!!返してください!!」



江戸の路地裏を、駆けてゆく女が一人。



前方には、逃げる男。






町衆の弥次郎が、九つになる妹のおきぬと路地裏を歩いていると、前方から走ってくる男が一人。



男の後ろから、女の叫ぶ声。



「お願い捕まえて!泥棒なのー!」






「ぁあ?」

「おにい!」

「……ちっ、しょうがねえなあ」



見上げる妹おきぬに、めんどくさそうにしながらも、弥次郎は男に立ちはだかった。



「おらっ!」

「わっ!!」


どさーっ!



あっという間に弥治郎に転がされた男は、そのまま地面に押さえつけられる。




「ありがとうございます!」



追いかけてきた女が、ようやく追いつき、立ち止まって肩で息をする。



「はあっ、はあっ……おね、がいです、返してくださいっ!私の!……っ!」



「ったく、何を盗ったっつーんだよ、物盗りなんて、碌な事ねぇのによ!」


「……っ、ちっ!!」




押さえつけられたまま、舌打ちする男。黙り込む女。弥次郎は困ってしまう。

ひとまずお上に突き出すべく、そばにいる妹に、縄の手配でも頼むか、と口を開きかけた時。女が先に、呻くように言った。




「……返していただければ、それ以上、罪に問わずに、逃げて構いませんから」

「え、そうなのか?」



思わず言った弥次郎に、女は頷きながら言う。



「盗られた物さえ戻れば、それ以上はもう。……お願いです」



「ちっ。……だってよ。おら、早く出しやがれ」


「けっ!!……懐に仕舞ったよ」




顔を顰めながら言った男の言葉を聞き、弥次郎はおきぬに声を掛ける。



「……おきぬ、しょうがねえから、懐から出してやれ。

野郎!もし変な真似しようもんなら、この女が許しても、俺が番所に突き出すからな!」



「……わあった」



弥次郎が強く押し付けながら叫び、男は弥次郎を睨みつつ渋々返事した。



おきぬが恐る恐る、男の懐に手を入れる。

取り出したのは、小さな赤い布。



「お姉さん、これ?」

「……ああ………!!」



女は駆け寄り、取り出した布にしがみつくように手に取る。あまりの勢いに尻餅をつきかけるおきぬ。女は慌てて、おきぬを抱えつつ、手に取った布も胸元に抱え込んだ。




「はあ、はあ……!!あり、がとうございます!……この通り、この通りです!」



頭を下げながら泣き崩れる女。まだ気が動転している女の様子に戸惑いながらも、弥次郎が男に告げた。



「今度、俺の前で何かしたら、ただじゃ置かねえからな!さっさと行きやがれ!!」



弥次郎が男を乱暴に立たせ、妹や女の居る方とは反対側へと押し出した。



「さあ!!とっとと行け!!」


「……けっ!」



男は、ちらちらとこちらを見ながら、駆け去って行った。



後に残ったのは、女を宥めるおきぬと、取り返した布を抱え込んで泣く女。そして、弥次郎。



また、騒ぎを聞いて、遠巻きにこちらを見ている人が、ちらほらと。




弥次郎は首元を指で掻き、めんどくさそうに告げる。

「ほら、こんな所でいつまでも泣いてちゃ仕方ねえだろ。とりあえず家で休んでけ。おきぬ、支えてやれるか?」

「うん!……お姉さん、立てる?」

「はい……!ありがとうございます……」






という訳でやってきた、弥次郎とおきぬの住む長屋。



「おりえさん。何もないけど、気にせず上がって?」

「……ありがとうございます」




妹おきぬは、弥次郎と違って人懐っこい。長屋に戻るまでの道中で、あっという間に女の名を聞き出した。



りえ、と名乗った女は、頭を下げて部屋へと上がった。

後ろからやってきた弥次郎が、戸を閉めながら声をかける。



「まあ、落ち着くまで居たらいい。……しっかし、どうしてまた……」



りえが、小さな布を胸に抱え込んだまま、まだ泣いている。



「すみません……。これは、どうしても、大切なものだったんです……」



おきぬが甲斐甲斐しくりえの背をさすったり、白湯を注いだ湯呑みを置いたり。

たわいもない話を、にこにこしながらくるくる動いている。



弥次郎は腕を組み、遠巻きに二人を眺めている。

りえは、粗末な着物を着ているようで、その実、身綺麗にしている。化粧っ気はないなりに、凛、と張った何かのある女だった。



格好はこの辺に幾らでも居そうなのに、あまり見かけないような、変わった女。

まあ、そんな女が、今は泣き崩れていた訳だが。



つんとした弥次郎がそんな風に見ている間、ようやく落ち着いてきたりえ。話しかけるおきぬに、僅かながら、笑顔を見せるようになってきた。



そんな折、おきぬがりえに尋ねた。



「おりえさん。……あのね。ちょっと見えただけだけど。さっきの、すごく、きれいな赤。……ほんのちょっとだけ、見てもいい?……あ、触らないから!見るだけ!!」



りえがおきぬを見て。そろり、そろりと抱え込んでいた布を見せる。四つ折りされた、小さな布。少し起毛の布地は、鮮やかな赤。

縁は、細やかに糸で編まれて、絵のようになっている。



「わああっ!きれい〜!」



目を輝かせて顔を近づけるおきぬ。でも、りえを安心させる為、絶対に、触らない。膝の上で強く握る拳。

そんなおきぬの、気遣いながらも嬉しそうな様子に、徐々に、りえは畳んだ布を広げた。広げても一辺が拳二つ分ほどの、小さな布。




弥次郎はおきぬの後ろから、覗き込んでため息を吐く。



「しっかし、珍しい布だとは思うけどよ?なんだってそんな小さな布なんか持ってんだ。汗拭くなら手拭いの方が、大きいし薄くて取り回しもいい。わざわざ選んで使うような布切れじゃねえだろう?」



振り返ったおきぬは、ぶうぶうと文句を言う。


   

「ちょっとおにい!こんなにきれいなのに、それはないじゃないの!!」



「でもよお!」

   




そんな兄妹の会話の中。静かにりえが話し出した。




「……これは。ハンカチ、というものなんです。私の、…………たったひとつの宝物。そして」



りえが丁寧な手つきでハンカチを膝に広げる。



「私が何処から来て、何者だったのか。私が私であるという、たったひとつの証、なんです」



怪訝な顔をする弥次郎。



「はあ?……どういうことだ」



「私は本来、ここの者ではありません。……遠い、遠い所から、訳もわからず飛ばされて。ここにやってきました」





時は遡る。いや、時どころか、場所、時代までも変わる。



夜のビル街。歩道を、りえがジャケットにスカート姿で革の鞄を肩に掛け、ハイヒールで早足に歩く。カツカツカツ、音が響くのはりえの足音だけで、周りに人は居ない。



少し蒸し暑さの残る風が吹く中、りえは、纏わりつく長い髪を、後ろに掻き上げた。向かっている駅まで、まだ先は長い。足取りは一層早くなる。



そんな時。



「うっ!」



歩道の僅かな隙間に引っ掛けたのか、りえが転び、ばたんと歩道に座り込む。ハイヒールは脱げ、放り出された鞄の荷物が散乱する。



「あっ!!」



座ったままのりえが慌てて手を伸ばし、散らかった物の中から、ハンカチを拾いあげる。

ハンカチは四方を繊細なレースで縁取られている。タグに『近沢レース』の文字。真新しい張りがある布地。りえがハンカチを両面見て、胸に抱える。



「……良かったぁ……。やっと届いたのに、すぐに汚れたら、流石に泣けるよ……」



座ったまま安堵の表情のりえに、強い風が吹く。

りえがハンカチごと自分を抱え込んだ。



「うっ……!」



そこへ、強い光がりえを包む。

……光が収まると、りえの姿が、その場から消えていた。歩道には、ハイヒールと鞄、散乱した荷物が残されていた。








……次に気づいた時には、りえは剥き出しの土の道に座り込んでいた。手にはハンカチ。



「なに……?ここ、なに……?」



りえの目の前に広がっていたのは、雑然とした、江戸の路地裏だった。





過去を話し終えたりえが、おきぬを見て、続けて弥次郎を見上げる。




「……あれから、一年。その後、何とかこうして暮らしていますが。元々着ていた服は、いつの間にか何者かに持っていかれ。ここの着物に、ここでの髪。何もかも変わって、すっかりここでの姿が当たり前になってしまいましたが」



木綿の粗末な着物。髪結の手で結われた髪。それが、今のりえの姿。



りえは、薄く汚れたハンカチを愛おしそうに眺め、さする。



「肌身離さず持っていた、これだけなんです。あの頃、毎月1枚、買って集めていた、近沢レースのハンカチ。買ったばかりだった、この、ハンカチだけが。私が、私だっていう、たったひとつの……」



ハンカチの縁には、特徴のあるレース編み。細い糸で、さくらんぼの形が編まれ、その下に、『チェリー』という字の刺繍。恐ろしく手の込んだ品だという事は、見れば見るほど。



弥治郎がため息を吐きながら言う。



「はあ……。はんかち、ねぇ……」




「……本来、このハンカチは。ここにはあるはずのないものなんです。まだ無い織り方、まだ無い技術。……多分この、さくらんぼも。江戸に来てから、見たことがありません。きっと、無いんだと思います」



「さくらんぼ?これ、さくらんぼなの?すっごぉい、粒が大きくて、可愛い!」



無邪気に目を輝かせているおきぬ。



「そうね、この辺りの桜が咲いた後に出来るのより、粒が大きくて、甘いの。……夏が始まる頃にね、お店に並んださくらんぼ、ひとパック買って、ひと粒、口に入れて。……甘酸っぱくて、おいしかった……。懐かしいな……」



ぽろり。りえの頬から、涙がひと粒、溢れ落ちた。



そんなりえの、小さくなった背中を見て。おきぬは、思い切って声をかけた。



「……おりえさん。今ひとりなんでしょ?これから、ちょくちょくうちに来てよ!あたし、おりえさんと、もっとおはなししたい!!」


「ちょ、おきぬ?!」



焦る弥次郎に構わず、おきぬがりえを覗き込む。



「ほら、うち、何もないし、あいそのないおにいが居るだけだけど!」


「わりぃな!愛想無くて!!」



「でも、ひとりより安心だし!これも何かのごえん!さっき見てのとおり、うでくらいは、たよりになるし、あたしも居るから!!なやみくらいはきけるよ!だから、たよって?」



腰に手を当て、堂々と告げる、おきぬ。そのにかっと笑う屈託のない笑顔に。



これまで、気の休まる事がなかったりえは、ふと、気を許し。



「……ほんとに、ちょくちょく来ても、いい?」

「いいよ!ねっ!おにい!」

「……ここまで言われて、今更断れねぇだろ……」

「わあい、よろしくね、おりえさん!」

「ありがとう、おきぬちゃん。……よろしく、お願いします、弥次郎さん」

「……あぁ」



ぶっきらぼうに言って首元を掻く、弥次郎。



嬉しそうに笑って、またりえの膝の上のハンカチを眺める、おきぬ。おきぬに見せながら、微笑むりえ。



そんな三人の、出逢いのお話。





……後に。



このハンカチと、りえを巡って、弥次郎はおきぬと共に、ある騒動に巻き込まれることになるのだが……。



今はまだ、知らぬこと。



     〈終〉

読んでいただき、ありがとうございました!


毎月5日に短編を投稿し、今回で一年となりました!

これからも、一歩ずつ、書いていきます。

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