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幻の命

作者: takuto

理想と現実は違う


それを強く思ったのは、この瞬間が初めてだったのを今でも良く覚えている。

医師臨床研修制度で、僕は必修科目でもある産婦人科へと行く事が決まった時

僕は医者として、人間としての現実を目の当たりにした。


研修先の病院へと配属されて数週間後

僕は異常なまでの忙しさに体中が悲鳴を上げていた。

産婦人科の人員不足……

ニュースでは何度も叫ばれていた話題ではあったが、実際にこの身で体験して

その辛さ、困難さを理解する。研修医である僕でさえ、まるで奴隷のように働かされる環境。

ここで働く人間に昼も夜も無かった。

そういえば、たまたま仲良くなった産婦人科医の村井先生は

自虐染みた笑みを浮かべながら、俺に向けてこんな愚痴をこぼしていたことを不意に思い出す。


「医者一人あたりの医療訴訟が、一番多い診療科ってどこだか知ってるか?

何を隠そうこの産婦人科だよ」


口にはしなかったものの、その言葉の本質には


これだけ俺達は頑張ってるのに……


そんな心の奥底からの叫びが聞こえた気がした。

深夜の呼び出しが多い過酷な労働環境、低い対価、医療訴訟の多さ。

これが産婦人科の現状だった。


「やっぱ産科はないよな~。目指すんなら外科でしょ、外科」


僕の身の回りの同期研修医からそんな声が聞こえてくる。

これだけの悪条件をまざまざと見せ付けられたのだ。

その反応は当然と言えば、当然なことだった。

でも僕は皆と違い、意外にも産婦人科の興味は尽きてはいなかった。

元々産婦人科医になりたくて、という思いは別段持ち合わせていなかったし

何か特別な理由がある訳でもなかった。

ただ、初めてこの病院を訪れた日、その時に見た赤ちゃんを抱えた親子の姿が妙に眩しく見えて

その光景が脳裏に焼きついて離れないのが、理由と言えば理由なのかもしれない。


この時は産婦人科医になるのも一つの道


そんな考えすら芽生えていたかもしれなかった。

一人の、ある女性と出会うまでは……

その彼女との出会いは、何の前触れも無く訪れたのだった。



それは顔馴染みにもなった村井先生の診察室に、連絡を伝えに向かった時のこと


「どうもありがとうございました」


目の前で診察室の扉が開き、一人の女性の姿が視界に入り込んできた。

少し身長は小さめで、髪が茶髪な今風の女の子といった風貌。

何よりも彼女の服装である制服姿の格好に、僕の視線は集中していた。

僕の横を通り過ぎるその表情は、あまりにも自然体で普段通りのような振る舞い。

携帯を取り出し、ここが病院である事を忘れているような笑い声を浮かべながら

彼女はこの病院を後にしていく……

その姿が妙に印象的な光景として、僕の中に映った。


「おい研修医。さっきの女の子、何で俺の所に来たのか分かるか?」


いつの間にか僕の後ろに、村井先生の姿があった。

村井先生はこうやって突拍子も無く、僕に質問をすることは多々あった。

でも何故か今日の質問は、普段とは違う重みのある質問に感じられた。


「あの、えっと……」

「何だ? 歯切れが悪いな、いつもなら俺にズバズバと言ってくるくせに」


右手に持った缶コーヒーに視線を向けながら、先生が小さく笑みを浮かべる。

数秒間の沈黙……その後、先生はゆっくりと言葉を再び紡ぎ始めた。


「中絶したいんですけど……そう、さっきの女の子に言われたよ」

「……えっ?」

「調べたら、彼女は妊娠七週間だった。中絶を希望するなら本人と配偶者、保護者の同意が

必要だって説明してやったよ。そしたら彼女、迷うことなくこう言った。はい、分かりましたってね」


淡々と先生はその時の様子を説明していく。

僕は一言も口を挟むことなく、ただ聞こえてくる言葉を受け止める事しか出来なかった。


「どうした研修医、ショックだったか? でも分かっていたはずだろう。お前だって知っていること

年間の人口中絶数は約24万人。こんなことは日常茶飯事なんだ」


そうだ、分かっていたはずなんだ。

大学で嫌という程教えられた、年間出生数約110万人の実に4分の1に当たる数が

人口中絶数として存在している。

この現場にいる限りは、この場面に立ち会うことは避けられない事実。

頭の中では、始めから分かっていたはずなのに……

割り切れない僕が、納得できない僕がそこにいた。


「先生、先生はさっきみたいな女の子を見て……何も思わないんですか?」


僕の口から不意に、抑えきれない感情が溢れ出して来る。

己の拳を握り締めて、様々な感情に揺れ動かされて出てきたその言葉。

その質問に対し、先生は当然とばかりに


「何も思わないなんてあるものか、慣れる訳ないんだ。俺は産婦人科医になってから十数年……

ずっと耐え続けているんだよ、今にも爆発しそうな己の感情とな」


そう僕に向けて、言い放ったのだった。

先生が放ったその言葉は、僕の胸に嫌という程突き刺さって離れる事はなかった。



その日、僕は夢を見ていた。

生まれた子供を、愛しげに見つめる彼女の姿

横には初めて自分が父親になった事に、妙な恥ずかしさを感じている父親の姿

僕はそれを笑顔で眺めていた。

この三人には輝かしい未来があって、この生まれた子供には無限の可能性を秘めている。

そんな幸せに満ち溢れた光景、ありえたはずの瞬間。


これは幻、幻の命……


僕はその日がやって来るまで、そんな幻で作られた幸せな夢を見続けたのであった。



中絶手術そのものは、たったの十数分程度のものである。

その日に帰ることの出来る手術なため、彼女は数時間の間病院の治療受けて

この場を後にしていく。

帰り際、彼女の姿を確認できた。

その姿はやはり、初めて会った時と変わらない自然体であり

何事も無かったような表情を浮かべているように、僕は見えた。


「よぉ、研修医。コーヒー飲むか?」


先程まで、彼女の手術を担当していた村井先生が僕に缶コーヒーを投げ渡す。

二人で快晴の大空を眺めながら、ポツリと僕は先生に向けてこう言った。


「初めて先生に会ったとき、先生は僕のことを医者に向いてないって言いましたよね」

「あぁ、そうだな」

「何でなんですか?」


耳元にまだ幻の、命の声が聞こえる。

先生は一口、コーヒーを口に含みながら


「お前は優しすぎるからだ」


そうはっきりと僕に向けて、先生は言った。


5分大祭、本祭作品です。

僕には医学部の友達がいます。たまに会うと、医療関連の愚痴や弱音を嫌という程

聞かされたりします。そんな彼の体験談から思いついた物語です。

感想頂けると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 初めまして。企画をご一緒させていただいたきよこと申します。 遅くなりましたが、拝読いたしました。 中絶に来た女の子の姿も実際に存在するケースなのだと思うと、とても胸に刺さります。 考えさ…
[一言] はじめまして。読ませて頂きました。 社会派ですね。こうしたテーマを、ここまでしっかりと描かれるのは、なかなか出来ることではありませんね。 憂う主人公と、気にかけた様子もない彼女の対比が悲し…
[良い点] 命について書くときは覚悟がいると思うんですよ。 難しい題材で5分に勝負に出たなと感じました。 [気になる点] せっかくのいい話なんですが、なぜ携帯小説形式で書かれてしまっているのか。きちん…
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