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あるアパートの一室からピアノの演奏が聞こえる。
その音楽につられて、カルボスは空を見上げた。
開けっ放しの窓、外に身を乗り出したカーテンは、彼女を呼んでいるようだった。
「あなたの音楽が聞こえたから、ここに来たの」
裸足で部屋に入っていく彼女の耳にはチラチラと光るピアスがついて、きれいなままのピアノに反射する。
彼は何も気にせず演奏を続け、彼女も何も気にせず彼に近づきジッポライターを取り出した。
「…煙草は空気が汚れるから嫌いなんだ」
口を開いたと思ったら、彼は文句ばかり言う。ずっと前からそういう人だった。
「人殺しがなにを言っているの、世間から見たらあなたのほうがよっぽど、汚れているわよ」
彼女は少し上機嫌のようだ。言葉を紡ぐたびに口角が斜めに上がっていって、目もだんだん笑っていく。
ふたりはほんの数日前、結ばれた。
まだ月が今日みたいな丸い形ではない日に、愛は成就した。
「ねえ、私はあなたの恋人よ」
「どうか、どうかそのことを忘れないでね、忘れないで生きてね」
彼女は涙なんか見せない。だってうれしいから。彼に出会えたことがとてもうれしいから。
ピアノの上に手を置いて、その上に顔を重ねる。
覗き込むと彼の表情がよく見える。
「最後に聞くけど、あなたがピアノを弾くときはいつもそんな表情をしていたの」
顔がゆがんで、ピアノを弾く手よりも複雑な視線の先はいつも通り白と黒を区別していて、どの指も正確な位置に置かれていく。
彼は真面目だ。彼女と違って。
不真面目な彼女は演奏が終わる前にこの部屋を出て行こうとした。
ピアノは足音のテンポよりも遅い。
彼が名残惜しいのか。
「デシル、最後くらい音楽を止めて私のこと、抱きしめてくれたっていいのよ」
すると、演奏が本当に止まった。
彼女の一言で止まったというよりも、彼は苦しみの表情を優に超え、目に涙をためて手元がみれなくなっていた。
「僕だけが本当に地獄に行かなければならないのかい」
「そうよ」と彼女は即答した。
「私を愛しているというなら私をかばって、あなたの本気の気持ちを見せてもらわないと」
彼は泣いていた。
彼女は知っていた。彼はピアノの才能に恵まれた人で、私に出会わなければもっと幸せだったことを。
「ごめんね、わたしはこうやってこれからも生きて行こうと思うわ」
ぼそっと彼女はつぶやいたが、彼は知る由もない。




