空想というか妄想というか
お湯を沸かす。器に注ぎ入れる。フタを閉じて箸を乗せて、あとは待つだけ。インスタントカップ麺の良さは、お湯さえあれば食べられることに集約される。
だが問題は、この待ち時間にあった。
何もかもが億劫で、タイマーすらかけない。キッチンタイマーは無くとも時計はあるし、手元のスマートフォンにはタイマー機能だってある。設定すること自体が面倒なのだから、どうしようもないだろう。
では、その時間をどう過ごしているかというと、カップ麺を置いたテーブルの前に立ち尽くし、他愛もない、というか むしろクダラナイ思考にふけるのが私の日課である。
――3分後に世界が終わるとしたら?
まず確実に、このカップ麺は美味しく食べられないだろう。推奨待ち時間を無視して10分置いて食べる方法が流行ったとき、その逆で1分で食べ始めるという猛者も現れた。パリパリの食感を楽しみつつ食べていると、後半は柔らかくなったものが食べられるのだそうだ。
んまぁ、そんなことを考えて、最後の晩餐がカップ麺でいいのかよ、なんて思いもする。そりゃあ当然だろう。
じゃあ、食べるなら何がいいか? どうせなら美味いものがいい。
餃子にカレーにハンバーグにシチューに焼肉……くらいしか浮かばなかった。どれも3分じゃあ、食べるどころか用意もできない。食べ物から離れよう。
最後の3分、他に何をしたい?
読書――は、この時間で読めるものとなると、当たりハズレが大きすぎる。面白かった4コマ漫画を読み返すほうがまだ有意義に過ごせるだろう。
動画なんてどうだ? 映画は論外として、『○分で解るほにゃらら』なんてものなら1つくらいは観れるはず。
……何の役に立つんだ。世界が終わるときに観て。
誰かと一緒に過ごすのが王道の過ごし方かもしれない。善悪にこだわらなければ、好みの異性なり同性なりとエッチにいそしめばいい。これはこれで最高の気分で終わりを迎えられるに違いない。
というか、そもそも、考えるべき前提を誤ってるんじゃないか? 終わるのは、世界じゃなくて自分と考えよう。そっちのほうが何となく現実的だ。
――〝何となく〟?
待てよ。まず、1日5食カップ麺を胃に入れて、寝てるんだか寝てないんだか曖昧に日々を過ごしている時点で、死に近いのは明白でしょうとも。誰から見ても「こいつは、いつ死んでもおかしくない」と評されるだろう。
気を取り直して。3分後に死にますよと知ったなら何をするか考える。
そうだなぁ……やっぱり、まずパソコンを破壊しよう。それからスマホも。
知られると困るものは、ネット上にあるモロモロを含めて確実に削除できるのが理想とはいえ、到底3分でなんて済ませられるわけがない。ならせめて、ログインできないように端末側を壊してしまえばいいわけだ。中身が自分だとバレなければよし。これなら、きっと何とか間に合う。
――黒歴史の消去だけに費やす〝最後の3分〟。これは、かなり虚しいな。
ため息をついて、カップ麺のフタをペリリと剥がす。少し早かったようだが、多少カタかろうと別に構いやしない。あと数秒で世界――というか地球が滅ぶのだ。黒歴史の心配をする必要もないし、経験のないエッチなどにいそしみたいとも思わない。
美味いものも無くていいが、いかんせん、腹は空気なんて読めるわけもなくグゥグゥ鳴るのだから、仕方なしに我が家に残る唯一の食糧を消費するしかない。
迫り来る隕石を、自身が壊れる寸前まで写し続けるカメラからの映像を遠方のテレビで見ながら、最後の麺をひとすすりした。
――滅びる前に何をするか。それが問題だ。
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空想というか妄想というか
〔2019.03.22作〕
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