稲荷社のお猫さま
『おぬし、ワシが見えるのかい?』
目の前の黒猫が突然そんなことを言う。
七草目前とはいえ、神社にはポツリと詣でに人が来る。けれど、その裏手の小道を進んだ先に建つ稲荷の中など、どんな用向きでも立ち寄り覗く者は居るまい。そう目論んで足を運んだというのに、これは一体どうしたことか。
触れようと出して一度は止めた手を、そのままそろりと伸ばす。ピンと立てた人差し指は、すり抜けることなく湿った鼻先をチョンとつついた。
「なんだ触れるじゃん。脅かすなよニャンコ」
『守り神さまを気安くニャンコ呼ばわりするでない』
「へぇ。稲荷はみんなお狐さまなんだと思ったら、お猫さまも居るのか。お供えはニボシか鰹節をご所望で?」
突きつけた僕の指先を少し硬い肉球で押しのけながら、猫は『面白い冗談を言うのう』などとふにゃふにゃ笑った。
『カツオ一本釣り上げてから出直すんじゃな』
「いやだね。それで願い事を叶えてくれるわけでなし。それに、神頼みしに来たわけでもないから」
猫は目を細め、尻尾をくゆりと曲げ揺らす。
『ではまず問おう。君はヒトかね?』
「そう思ってきたけど、化けの皮を剥いだら鬼でも出るんじゃないかな」
『ほう。蛇でなく鬼だと』
「嫉妬とか執念深さはそんなだけど、瞬間的な怒りとか憎悪に振り回されることは多いから。そういうの〝鬼〟って呼ぶだろ?」
『ならば、その鬼子がこの社に何用か』
口を開きかけてハタと止まる。素直に答え、はたして怒られるだけで済むだろうか? いや。仮に済まないとしても、お見通しかもしれない相手に嘘をつくのは良くない。なるべく清くあるべきだ。そう、なるべく。
『言えぬようなことなのか?』
「そのぉ……一晩泊まりたいなーなんて」
静けさと視線が、自然とそらしてしまった横顔にチクチク刺さる。やはり誤魔化して立ち去るべきだったか。そう後悔した直後、猫がにゃふにゃふ笑いだした。
『正直が過ぎるぞ、自称鬼の子! っはぁー、こりゃ愉快・痛快・傑作よ。いいだろう泊まってゆけ。家主の許しはワシから請うてやる』
「よかった、ありがとう! ……家主?」
『ワシは此処でくつろがせてもらってるだけの隠居猫よ。代わりに、こうしてときどき留守を預かってるだけでなぁ。まぁそう心配するでない』
またしてもくゆりと曲げ揺れた尻尾は、よく見ると1本ではなかった。
「物の怪の類にだまされた!」
『〝神の怪〟でなくて悪かったな。ワシの毛でよけりゃ櫛引いて好きに取りねぇ』
「ノミ・ダニの類も含め、丁重にお断りします。あいにく爪の櫛しか持ち合わせてないし」
『安心せぇ。そこは社のが退治済みじゃ』
老いても清い体、とかなんとか。ドヤ顔で言ってのける猫がおかしくて噴き出した。
ひとしきり笑ったあとで賽銭を投げ入れ、2礼〝1拍手〟1礼。今は不在のお社さまに挨拶を済ませると、猫が再び問いかける。
『ときに家出鬼よ。鰹節はお供えいただけるのかな?』
「家出じゃなくて行脚ね。いいよ、一宿のお礼に一飯おごらせていただきましょう。お社さまに取り次いでももらわなきゃだし」
『似たようなものだろうに……まぁよし。どれ、案内しよう』
そうして1柱と1匹は、するりと稲荷の中に上がり込んだ。その後、この地は新たな氏神を迎えることになるけれど、それはまた別のお話。
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稲荷社のお猫さま
〔2020.01.20 作〕
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