赤いスイートピー
寝るのを忘れて曲の仕上げをしているとスマホが鳴り出した。電話の相手はShag sense。会わせたい人がいるから夕方くらいに吉祥寺に来いとのことだった。ふと時計を見ると朝の四時丁度を示していた。夕方の予定に備え軽くシャワーを浴び、ベットに深く潜り込んだ。
どこかから自分を呼ぶ声が聞こえ目を開けるとそこには一匹のレミングがいた。それはテレビでよく見るドキュメンタリー映像の断片みたいな光景で、そのレミングは番と思われるもう一匹のレミングの亡骸をただひたすら眺めていた。何かをするわけでも無く永遠とも呼べる時間、その亡骸を見つめていた。亡骸とは対照的に燦々と命を輝かせているはずのレミングの瞳は濁りきっていた。どのくらいの時間が経っただろうかレミングは何かに呼ばれる様に海がある崖の方へと一目散に走って行った。その後どうなったか見届ける前に落ちる様な感覚に襲われ目が覚めた。
異常な量の汗にどこか恐怖感を覚えながらも落ち着くために煙草に火を付けた。ボヤけた意識の中、先程見ていたはずの夢を思い出そうと思考を巡らせる。しかし霧の様に記憶から欠落したそれは吐き出したハイライトの煙と混ざり窓の外に出て行ってしまった。
嫌な気分を払拭する為に今日は特別な一服をする事にした。簡易的な鍵の掛かった机の引き出しからゴールデンバージニアとOCBのペーパーを取り出した。このシャグは特別製で、インディカが少し混ぜてある。ブックカバー用の厚紙を少し破りそれを丸めてフィルターとして上機嫌でいつもの様に煙草を巻いた。
火を付け一呼吸する。その瞬間誰かに抱擁される様な優しさや母が幼い頃に与えてくれる無償の愛などと形容出来る安心感が全身を包んだ。若干の気怠さと眠気の中、お気に入りのSchottのシングルライダースを着て出かける事にした。玄関を出ると庭に赤いスイートピーが咲いているのに気がつきそれを摘んだ。後日押し花にでもしようと思い胸ポケットにそっと仕舞い駅まで少し急ぎ足で向かった。
吉祥寺にある、いせやと言う居酒屋で待ち合わせをしていた。向かう途中ケーニッヒでソーセージの串を注文し、約束の時間まで井の頭公園で時間を潰した。池のほとりでベンチに座っているとスワンボートに乗った小学生くらいの男女が楽しそうに笑い合っていた。それを見てどこか懐かしさと今の自分から去っていった様々な人の事を考えた。軽食を済ませ煙草に火を付けようとすると不意に肩を叩かれた。シャグのやつもう来たのかと後を振り返るとそこには知らない女性が立っていた。
「遅くなってごめんね。お待たせ」と彼女は言い、それをする事が当然だと言わんばかりに隣に座った。
「どこかで会ったことある?」と人違いだと思い質問した。
「私が誰か思い出せたら何か奢ってあげる」と言いながら彼女はZippoの火を付けこちらに差し出した。
それから彼女はポケットから赤いソフトのマルボロを取り出し火を付けた。二人で黙々と煙草を吸いながら彼女の正体を考えた。
「ヒントとかって貰えたりする?」と聞くと彼女はニヒヒと笑った。左目の下に二つ並んだほくろがより強調され思い出したが、以前と違う佇まいに驚いた。
「この前渋谷でDJやってた?」
「せいかーい」とスクラッチする仕草をしながら再びニヒヒと笑った。
約束通り何かを奢ってあげようと言われたので近くの売店でチェリージュースを頼んだ。何故か半額分しか奢って貰えず、残りは自分で仕方なく払ったがそれは心地の良い甘酸っぱさだった。
「私も何か欲しいな」と言われ咄嗟に胸ポケットに入っていた赤いスイートピーを渡してしまった。渡した瞬間ふと我に帰り何をしているんだと呆れたがそれを見た彼女の眼差しは優しさに溢れていた。
「綺麗な赤いスイートピーだね。ちょっとシナシナだけど」
「庭に咲いてるのを見かけたんだ。押し花の栞にでもしようかと思ったけどお気に召したならあげるよ」と言うと、花を受け取った彼女はそれを大事そうにポケットに仕舞った。
「ところで今日はシャグ君と一緒に飲むって聞いてたけどそろそろ時間じゃない?」
腕時計を見ると約束の時間を過ぎていた。二人並んで長い階段を登っていると踊り場で弾き語りしている人を見つけた。曲はThe BeatlesのHere Comes the Sunで数人が足を止めて聞いていた。ゆっくりと聞きたい気持ちを抑え、階段で居酒屋の順番待ちをしている人達を後にし店に入った。奥の狭いテーブルでシャグはパソコンをいじりながらピースを吸っていた。
「わりい、遅くなった」と声を掛けると視線をこちらに向けた。
「相変わらず手が早いね」と彼は言った。
そんなつもりは無かったが彼も冗談で言っている事がわかっていたのでまあねと答えた。注文を済ますとテーブルにビールが三つ置かれ、乾杯の声と共に新鮮な喉越しが緊張をほぐした。
「紹介するよこちらFlower bloomさん。この前行ったクラブでDJをしてた人だよ」
「はじめまして。南 凜花です。Flower bloomって言うのはDJの名義で俗に言うa.k.aって言うやつかな?可愛い響きで好きなんだ」
「とても綺麗な名前だね。はじめまして。俺はPeace Downerって言います。よろしくね。ところでなんでFlower bloomなの?」
「私のDJで花が咲く様に聞く人の心を鮮やかに出来たらなって思ってこの名前にしたんだ」
「なるほど、だからFlower bloomなのね」と言った。
簡単な自己紹介や身の上話をしていると焼き鳥やモツ煮込みといったこの店の名物が運ばれてきた。それらをつまみながら彼女はDJだけじゃなく最近はビートメイクにも挑戦していると話してくれた。
「そういえば、曲もう出来たの?」とシャグはピースに火を付けながら聞いてきた。
「デモ版だけどとりあえず形にはなったよ。一応ビートとリリックは完成してる」と答える。
スマホを取り出し作ったばかりの曲『まごころを、君に』を再生した。するとその瞬間、スイッチが入ったかの様に彼女の眼差しが変わった。優しさの対極にある様なそれに本能的な恐怖を覚えながらも再生中むず痒い気持ちになった。
「うん、なかなかいいんじゃない」
「私もこれ好きかも。DJの時かけていい?」
ここまで評価されると思っていなかっただけに素直に嬉しい気持ちになった。その後二杯目のビールが空になり店を出て井の頭公園へ散歩しに向かった。暗くなった公園に人の姿は無く、虫の声だけが響き渡っていた。
「せっかく曲出来たんだしMV撮ろうよ」とシャグは言った。酔いも回り何かの記念になればいいと軽い気持ちで彼女をメインにして様々な画角から動画を撮影した。時間を忘れ撮影していると彼女が終電の時間間近という事に気が付きそこで解散した。別れ際にまたねと彼女が言ってくれた事が何故か嬉しかった。MV用の素材をシャグに渡し、その日は帰宅した。
家に着くと両親は既に就寝していたため音を立てずに自室へと向かい、ベットで横になり次の曲の事を考えているうちに眠ってしまった。
時を同じくしてどこかで一匹のレミングがこの世に産声を上げた。