"あのヒーローと" 僕らについて
ドアを閉めた瞬間、部屋の中の空気が完全に遮断された気がした。鍵を回す音は乾いていて、必要以上に大きく響く。取っ手から手を離すと、そこにはもう戻る理由が無いことだけが残った。
外に出ると、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
曇天。
空は低く、重く、街の輪郭を曖昧にしている。晴れてもいなければ、降り出すわけでもない。決断を先延ばしにするための天気みたいだった。
駅へ向かって歩き出す。いつも使っている道。見慣れた電柱、色褪せた看板、角の自販機。何一つ変わっていないのに、距離感だけが狂っている。
一歩進むごとに、足元が微かに傾いていく錯覚があった。戻れない方向へ、わずかずつ、しかし確実に運ばれている。
子供の頃、こういう感覚を何度も味わった気がする。ランドセルを背負って歩く帰り道、夕焼けで赤く染まった影を見ながら、自分が何か特別な存在なんじゃないかと、本気で信じていた。
ヒーローは、理由もなく立ち上がる。選ばれるのではなく、気づいたら前にいる。そんな存在になりたいと、疑いもなく思っていた。
大人になるにつれて、その感覚は薄れていった。現実は、ヒーローを必要としない。名前の無い正義は、だいたい報われない。
それでも、完全に消えたわけじゃない。こうして歩いていると、不意に蘇る。
ポケットの中で、指が無意識に動く。ハイライトの感触を確かめている。軽い。拍子抜けするほど軽い。
子供の頃に想像していた武器とは、あまりにも違う。剣でも盾でもなく、世界を救う力なんて、どこにも無さそうだ。
それでも、これが無ければ始まらない。拳銃の重さを知らない兵士みたいなものだ、とふと思う。
考えようとすると、言葉が増える。
言葉が増えると、迷いが増える。
今日は逆だ。削る日だ。
信号待ちの間、ガラスに映った自分の横顔が目に入る。意味なんて無いはずなのに、少しだけ自信が無さそうに見えた。
――この気持ちのままで、立つ。全てを出し切る。きっと何かが変わるだろう。
そう思った瞬間、胸の奥で小さな音が鳴った。折れる音ではない。歯車が噛み合った音だ。
駅が近づくにつれ、人の流れが増えていく。スーツ姿、買い物袋、イヤホンをした学生。それぞれがそれぞれの目的地へ向かっている。
その中に混ざると、自分だけが違う方向を向いている気がした。社会に逆らっているわけじゃない。ただ、少しだけ早く、崖の方へ進んでいる。
改札を抜け、階段を下りる。靴底がコンクリートを叩く音が、やけに大きく響く。
ホームに立つ。電光掲示板が遅延を知らせていた。一瞬、胸の奥が緩む。子供の頃、ヒーロー番組が延長されると知った時みたいな、理由の無い猶予。
ベンチに腰掛け、線路の向こうを見る。遠景が熱で揺れている。現実と、これから入っていく何かの境目みたいだった。
胸の中に、静かな圧が溜まっていく。高揚ではない。恐怖とも、期待とも違う。
選んだ以上、やるしかない。それはヒーローの言葉じゃない。大人になった自分が、自分に言い聞かせるための言葉だ。
電車が入ってくる音がして、風が吹き抜ける。その瞬間、頭の中に一つの名前が浮かんだ。
Peace Downer。
昔憧れたヒーローみたいに、本名じゃなく、役割としての名前。誰かに呼ばれるための名前。
電車に乗り込み、ドアが閉まる。走り出した振動が、足元から骨を伝って胸まで届く。
窓に映る自分を見る。少し他人みたいだ。でも、その目だけは逸れていない。
吉祥寺で降りる。駅を出ると、曇った光がビルの隙間から落ちてくる。
街は相変わらず無関心で、誰も「頑張れ」なんて言わない。
会場へ向かう道は、思っていたより短かった。小さな箱。控えめな看板。子供の頃に夢見た舞台とは、まるで違う。それでも、不思議と重なる。
ヒーローは、最初から大きな舞台に立たない。気づいたら、そこに立っていたことにされる。
足が止まる。向こう側から、低くうねるベースの音が漏れてくる。
深く息を吸い、吐く。
王かどうかは、まだわからない。導く側なのか、最初に落ちる側なのかも。
それでも――
一歩目を踏み出す役目だけは、昔から変わっていない。
ドアの前に立つ。ガラスに反射した自分の顔は、もう迷いを終えた顔をしていた。




