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WINTER BELL <T大医科学研究所シリーズ>

作者: 桜坂詠恋

1.

 クリスマスイブ――。

 巷にクリスマスソングと恋人たちが溢れ返っている頃、一人研究室に残り仕事を片づけていたT大医科学研究所の墳堂は、人の気配に顔を上げた。

「メリー苦しめます!」

「いきなり呪いの言葉とはご挨拶だな、越君」

 グレーのカシミアコートにラビットファーのマフラーを巻き、カツカツとヒールを鳴らして歩み寄る真樹に、墳堂は指紋だらけの度付きサングラスを直しながら、あからさまに顔を歪めた。

 この研究所で誰よりも美しく、誰よりも賢い准教授である彼女は、同時に誰よりも強く、誰よりも冷たく、誰よりも不可解で、誰よりも恐ろしいが故に、墳堂は誰よりも苦手だった。

 嫌いな訳ではない。ただ――そう、ただ、苦手なだけなのだ。

「帰ったんじゃないのか」

「帰りましたよ」

 真樹は即答し、墳堂は眉を顰めた。

 だったら何だ。忘れ物か? 何しに戻ってきた?

 墳堂は急に落ち着かなくなった。

 俺か? 俺に何か不手際が?

 また何か、自分でも気づかない所で真樹の怒りを買ったのだろうか。

 と、その時だった。

「こっ、こら! 何をする!」

 ガチャガチャと椅子を鳴らし、墳堂は後ずさった。その様子は、転がったと言っても過言ではない。

「何って。室内に入ったからコートを脱いだだけでしょう」

 真樹はコートを椅子の背に掛けると、パーテーションに背中を張り付かせている墳堂に歩み寄り見上げた。

 ドングリのような目を縁どるまつげは長く、瞬きする度にきらきらと輝く。

 潤んでいる!

 ラメ入りマスカラを知らない墳堂は震え上がった。

 相手は女ヒットラー、越真樹だ。

 しかし、こんな時間に二人きり。しかも、身にまとっている深紅のそれは――、シュミーズではないのか!

「教授?」

「近づくなッ!」

 ぶるぶるとかぶりを振り、次いでびしりと真樹を指差すと墳堂は言った。

「なななななななんて格好をしてるんだッ」

「いいじゃありませんか。クリスマスですよ?」

「クククククククリスマスだと下着になるのか、君は! ハレンチな゛ッ!」

「ハレンチは貴様だ」

 真樹はゆっくりと墳堂の顔に埋まった拳を引き抜くと、肩のストラップを摘まんだ。

「これはキャミソールドレスです」

「ドレス……? シュミーズじゃ……」

「ドレスです!」

 真樹は墳堂を上目で睨むと、ぷいっとそっぽを向いた。

 何だそれは。

 墳堂はたじろいだ。拳より重く、襟首を掴み上げられて頭突きを食らわされるより効いた。

 その証拠に、心臓がぞうきんでも絞るように締め付けられて痛む。鼻が折れるより痛いではないか。

 これはなんだ? 新手の拷問?

 と、不意に墳堂は昼間の出来事を思い出した。

 依頼されていた検体の検査結果について、真樹と話し込んでいた時の事だ。

 クリスマスパーティーをやるんです。そう言って郡是が声を掛けてきた。

 墳堂は仕事を理由に断ったのだが、その時、真樹は言っていた。

 折角だけど、今夜は予定があるから――。

 なるほど、それだ。それでシュミーズなんぞを着ているのだ。

 しかし、真樹はあっさりと否定した。

「別に予定なんてありませんよ。単なる口実です」

「口実?」

「ええ」

 頷く真樹をちらと見やり、墳堂は言った。

「口実じゃなくて嘘だろう。大体口実なんてのは、断る事すら気が引けるような、心ある人間が使うもんだ!」

 だが、真樹には聞こえない。

 それもそうだ。声に出してはいないのだ。

 これが真樹の耳に入っていれば、また顔がイソギンチャクになっていただろう。

 それにしても。

 口を尖らせ、そしてへの字にひん曲げて墳堂は思った。

 予定がない? だったら――。

 何故、めかし込んでるんだ?

「――ですか?」

「え?」

「仕事、終わったんですか?」

「あ、ああ。うん」

 真樹の声に我に帰った墳堂は、びくりと肩をすくめると慌てて机の上の物をかき集めて帰り支度を始めた。

 余計な詮索はしないに限る。触らぬ鬼神に祟りなしだ。

 そんな墳堂に、真樹はふうんと小さく小刻みに何度か頷くと、片づけている墳堂の手の甲目掛け紙袋を振り落とした。

「いィィ……ッ……つ~~ッ!」

 ゴツッと言う鈍い音を立てて下敷きとなった手を反射的に引っ込めて抱え込み、墳堂はキッと真樹を睨んだ。

「何をする! 何を!」

「この後の予定は?」

「よ、予定だ?」

 この状況で言う事がそれか。それなのか!

 そう思いながらも、墳堂は律義に答えた。

「家に帰るに決まってるだろう。ったく、何が入ってるんだ。手が折れるかと――」

「おひとりなんですね?」

「ちょっとは人の話を聞いたらどうだ? うん?」

「付き合って下さい」

「人の話を聞けと言うのに! 何が付き合っ――」

 瞬間、研究室に静けさが戻った。

 墳堂は驚きで目を見開き、真樹はそんな墳堂を黙って見上げている。

「越君……。君は……」

「…………」

「俺を殺す気か」



2.

「滲みる」

 どうですかと聞かれた墳堂は、湯飲みを事務机に戻すと短く言った。

 湯飲みの中で揺れているのは、真樹が紙袋から取り出したワイン。墳堂の口の中で広がっていた血の味と同じ赤だ。

 付き合ってくれと言うのはこう言うことか。と気づいたのは、真樹のアッパーを受けて数秒後だった。

 クリスマスだから。一杯やる理由はそれらしいが。

「やけにクリスマスにこだわるな。君はクリスチャンだったか?」

「固いですね。そんなだから、屈伸がマイナス50センチなんですよ」

 ほっとけ。

「しかし……」

 墳堂はひとつ溜息を漏らすと頬杖をついた。

「クリスマスイブに同僚と研究室でクリスマスとはな。本来なら恋人と夜景の見えるホテルで……」

「そんな相手いないくせに」

「むっ。それは君もだろう!」

 墳堂は、すかさず痛い所を突いてくる真樹に突っ込み返し、そして慌てた。

 それもそうですね。

 そう返って来ると思っていたのに、真樹はちらりと墳堂を見ただけで何も言わないのだ。

 それは何だ? どう言う意味だ。まさか? ひょっとして。

「い……いるのか?」

「いませんが?」

「なんだ……。驚かすなよ」

「あら。何故驚くんです?」

「君と対等に付き合える男なんぞいる訳がなかろうが」

「対等な相手じゃないかもしれないでしょう?」

「まあそうだろうな。だが、だとすれば」

 墳堂は腕を組み、顎を上げて得意気に言った。

「耐えられるのは、俺以外おらんだろう!」

「…………」

 しまった。

 顔に満面の笑みを張り付けたままの墳堂の全身から、冷たい汗が滝のように流れた。

 誤解されたか? いや有り得る。聞きようによっては、充分告白だ。しかもクリスマスイブ。誰もいない部屋に二人きり。

 条件が揃い過ぎている。

 なんとかごまかさねば。

 今なら間に合う。

 先手を打ち、なーんてネッ! とか何とか言うのだ。

 ああ、でも怖いな。どうしようかな。

 そんな風に、図体からは想像出来ぬほど臆病な墳堂が二の足を踏んでいた時だった。

「それは……」

「ヒッ?」

 真樹の声に墳堂は飛び上がり、しどろもどろになりながら両手を振った。

「あ、いや、その、今のはだな!」

「分かってます。下僕志願ですね?」

「なぜそうなる」

「じゃあ、何なんです」

「ところで」

 墳堂は、真樹がワインと一緒に持ってきた5号サイズのケーキを指差した。

 生クリームといちごでデコレーションされた、クリスマスらしいが極シンプルなケーキだ。

「このろうそくは、誕生日のケーキみたいに吹き消すのか?」

「…………」

 話をすりかえられて、真樹は不服そうに墳堂を睨んでいる。しかし結局諦めたのか、そうですねと答えると、折角だから何か願ってはどうかと提案した。

「何か?」

「来年こそはT大の小娘と過ごしたいとか」

「誰が小娘だ」

 小娘とは、墳堂が想いを寄せている、T大法医学教室の深田栞の事だ。

 愛くるしく控えめで、優しくて気が利く。

 だが、真樹は彼女がお気に召さないようだ。直接顔を突き合わす事などないに等しいにも関わらず、何かと言えば小娘呼ばわりで、墳堂も手を焼いている。

 一体何が気に入らないのか。

 墳堂には、彼女の若さ以外思い当たらない。

「まったく――」

 墳堂は、犬でも追い払うかのように掌をひらひらさせると言った。

「俺はいいから、君が何か願うといい」

「ワタシですか?」

「ああ」

「うー……ん」

 欲がないのだろうか。いや、有り過ぎるのだろう。そうに違いない。

 墳堂は、マグカップに目を落としたまま考え込む真樹をぼんやり眺めながら思った。

「やっぱり」

 ややあって、精一杯考え込んでいた真樹が言った。

「教授もお願いしましょう?」

「俺も?」

「だって、クリスマスですもの」

 真樹にとって、クリスマスはよほど特別らしい。

 しかし、なぜだろう。

 恐ろしい事に、墳堂はそんな真樹が可愛く見えた。

 クリスマスの魔法? クリスマスフィルターと言うやつだろうか。

「目を閉じて願い事をして、終わったら目を開ける。お互い目が開いたら、せーので消しましょう?」

 そう言うと、真樹は目を閉じた。

 思えば、前に目を閉じている彼女を見たのは、学会に行った時に、手違いで同じ部屋に泊る事になってしまった夜だったか。

 あの晩は思いもしなかったが、目を閉じた真樹はまるで聖女のようだ。

 瞼で鋭い眼光が遮られ、唇を合わせた事で罵詈雑言及びイビキも封じられている所為かもしれない。

 まあ……。来年も、こんな風に過ごすのも悪くない……かな。

 そんな事を考えていると、真樹と目が合った。

 あんな穏やかな顔を見ていられるのなら、もっと図々しいほどながったらしい願を掛けて貰っても良かったのだが。

「終わりました?」

「ああ。まあ……」

 こんな風に過ごすのも悪くない。それが願い事だとサンタが思ったとしたら、それもいい。

 不思議と、もう少しこうしていたいと思えるのだから。

「あら」

 せーのの掛け声を待っていると、真樹が窓の外を指さした。

「雪ですよ。教授」

 言うと、真樹はろうそくの事など忘れてしまったのか、席を立つと窓に駆け寄り外を見ている。

 墳堂もゆっくりと席を立つと、真樹の後ろから覗き込むようにして外を見た。

「きれい……。景色が全然変わって……。魔法みたい」

「そうだな」

 いつの間に降り出したのか、外は既に薄く雪が積もっている。雪国の人間が見れば笑い種だろうが、東京ではこれでも十分な大雪だ。

 しかし、墳堂は雪よりも目の前で剥き出しとなっている真樹の肩が気になった。

 白い肌の上で、金色の産毛が光って――。

 何を見ているんだ、俺は。

 墳堂は慌てて目を逸らし、咳払いをした。

「何か着たらどうだ。風邪を引く」

「平気です」

 真樹はまだ外を見ている。

 墳堂はガリガリと頭を掻くと背中を向けた。

「きゃっ」

 突如視界を遮られ、真樹が声を上げた。

 墳堂が、着ていた白衣を真樹の頭目掛けて放り投げた所為だ。

「着てろ」

「……シミだらけじゃないですか」

「文句を言うな」

 顔を顰める真樹を睨むと、墳堂は腕を組み、精一杯尊大な態度で言った。

「風邪を引くよりはましだろう。それに……何だ。君が休んだりすると、ここの火が消えたようになるからな」

 鬼火だが。

 でも、それは言わないでおく事にした。

 これ以上顔が腫れれば、帰りに職質に掛けられるのは間違いないだろうから。

 それに、たまにしか見せない毒のない君の笑顔を、もう少し見ていたい。

 なんて――。これもクリスマスの魔法なんだろうか。



3.

「何を願ったんだ?」

 真樹のマンションまで送る道すがら、背中を丸めた墳堂は、数歩前を歩く真樹の背中に問い掛けた。

「教えません。だって、願い事って、口にしてしまったら叶わないものでしょう?」

 何も本気で知りたいと思っていた訳ではない。しかし、秘密にされると知りたくなる。何より、だから教えない。と言う真樹が不覚にも可愛かった。

 それでつい墳堂は言った。

「俺に出来ることなら、俺が叶えてやってもいいが……」

「ホントですか?」

「いや、だから」

 足を止め、ぱっと顔を輝かせる真樹に、墳堂は慌てた。

 つい、で言ってしまった事とは言え、無理難題をふっ掛けられても困る。

「俺に出来ることなら、だ。核ミサイルが欲しいだの、世界制服だの、そう言う願いは――」

「まさか」

 そう言うと真樹は笑い、そして困惑顔の墳堂のコートを引くと見上げた。

 もう、笑っていなかった。

「もっと、簡単な事……です」

「…………」

 充分だった。

 クリスマスイブ。突然現れた真樹。ワインとケーキ。潤んだ瞳。コートの下のシュミーズ。

 不可解な出来事や格好も、そうと思えば説明がつく。

 それでも――。

「ちゃんと言ってくれないと、分からない」

「……意地悪」

 そうじゃない。

 意地悪なのは君だ。

 俺を振り回し、困らせてばかりの、我儘でサディステックな独裁者。

 それが君だろう?

 なのに今夜は――。

 こんなの、反則じゃないか。

「意地悪なんじゃない」

 墳堂は長身を折ると、真樹を覗き込んで言った。

「少しばかり、貪欲になる事を覚えたんだ。君の所為だな」

 流石に最後のひと言は意地が悪かっただろうか。

 真樹は責めるような視線を投げたが、諦めたように小さく息をつくと、ぽそりと言った。

「来年もこんな風に――」

 墳堂の心臓が跳ね上がった。次の瞬間。

 墳堂は、見慣れた微笑を見た。

 そして。

「教授が惨めなクリスマスを過ごしていますように!」

 そう言い終わるが早いか、真樹は駆け出した。

「な……こら! 待て貴様!」

 数秒遅れて墳堂も後を追う。

 しかし雪道でハイヒールは無謀すぎた。真樹の細い体は、あっという間に墳堂に捕まった。

「馬鹿者。転んだらどうするんだ」

「教授が身を呈して助けてくれます」

 頭痛がした。

「全く、君ってヤツは……。酔ってるのか?」

 な、訳ないか。

 真樹は酒豪だし、元々こう言う人間だ。少なくとも、墳堂はそう思っている。

「放して下さい」

「え……? ああ、すまん」

 真樹を後ろから抱きすくめたままだと言う事に気付いて、墳堂は慌てて手を放した。

 気まずい。

 腕に真樹の感触が残っている。それが余計に気まずくて、墳堂は再び先に歩き出した真樹の数歩後ろを歩いた。

 何か話さなければ。何か。何か。何か。何か──。

「さっきの話だがな」

 真樹のマンションの前まで来たところで、漸く墳堂は言った。

「俺が惨めだと言うなら、君だって――」

「お言葉ですが」

 墳堂の言葉を遮ると、真樹は指先で墳堂の胸を突いた。

「ワタシなら、ちゃーんとハッピーなクリスマスイブを過ごしましたよ?」

「へ?」

「願い事、叶えて下さいね? おやすみなさい」

「おい、越君! こ――」

 突然の事で真樹の言葉の意味を図りかね、再び後を追ったものの、エントランスの自動ドアは無常にも墳堂を締め出してしまった。


 ――ワタシなら、ちゃーんとハッピーなクリスマスイブを過ごしましたよ?


 それはどう言う事だ?

 つまりそう言う事か?

 やはりそう言う事か?

 心臓が、フルスピードで血液を送り出す。


 どこか遠くで、鐘が鳴った。



4.

「あれ? 墳堂?」

 乱れる心を落ち着けようと、一人繁華街で飲み直すべく歩いていた墳堂は、聞き覚えのある声に振り返った。

 人ごみの中でも目立つ長身に上品な顔立ち。

 普通のスーツでも充分ハンサムなT大法医学教室の若き教授、月見里である。

「月見里……」

「こんばんは。墳堂先生」

 鈴のような声に、月見里の顔から視線をがくんと落とす。

 その途端、墳堂は銃弾を浴びたような衝撃に目を剥いた。

 小さな体を赤いダッフルコートに包んだ愛らしい少女。いや、女性。

 深田栞だった。

「こっ……こーっこっこっこっこっ」

「どうしたの。ニワトリみたいに」

 コイツ!

 ぎらりと刺すような視線を向けるも、月見里は気づかないのか鈍いのか、にこにこといつもの柔らかな笑みを浮かべている。

 余計にむかっ腹が立った。

「ちょっと来い!」

 墳堂はずかずかと前に進み出ると、月見里の首に腕を回し、そのまま引きずるように栞との距離をとる。

 そして、頭突きでも食らわすように額を押し付けると小声で言った。

「な、ぜ、一緒なんだ? うん?」

「え? 何が……」

 何がだと? 決まっておろうが。

 しかし、分からないのなら敢えてその神聖な御名を言ってやろう。

「ふ……ふふふふふふ」

「何がおかしいのかな……?」

「笑っとらんわ! ふ……ふふっ、深田さんだ!」

「ああ。クリスマスパーティーだったんだよ。君のところの郡是君に誘われたんだけど……。聞いてない?」

「郡是……」

 墳堂の脳裏で記憶のテープがキュルキュルと巻き戻され、再び真樹と検体の検査結果について話し合っている光景が過った。

 そこへ郡是がやって来て……。


 ――クリスマスパーティーをやるんです。


「がっでーむ!」

 墳堂は頭を抱え、仰け反った。

 あれか! あれがそうなのか、郡是!

 どうせ研究室の集まりだろうとタカを括っていたが、こんな催し物だったとは。

「あああああああ」

 墳堂はのた打ち回った。

 そんな墳堂の脇を、サラリーマンが白い目を向けつつ足早に通り過ぎて行く。

 と、その手に抱えられたケーキの箱を見るや、墳堂はぴたりと動きを止めた。

 しまった。願い事――。

「月見里!」

 墳堂は慌てて起き上がると、月見里のマフラーを引いた。

「ひょっとして、そのパーティーは来年もやるのか?」

「んー……。そうなんじゃないかな? 結構盛り上がってたし、また来年もなんて声も確かに――」

「ノォォォォォォォゥ!」

 なんて事だ! うっかり、来年もこんな風になどと思ってしまったではないか。

 サンタがあれを聞いていたらどうしてくれる!

 とうとう墳堂は膝をついた。後悔が、どす黒いタールとなってまとわりつく。

「墳堂、大丈夫?」

「月見里……。今俺は、回転寿司で普段手を出さないような珍味に手を出したら意外に旨く、つい調子の乗って食いまくっていたらその間に憧れのキャビアが流れて行き、更にそれを隣に客に食われた。そんな気分だ。分かるか。飢えていたばっかりに珍味――しかもオオスズメバチの女王で腹を満たし、その間にチャンスをふいにしてしまったのだ」

「怖そうだけど、美味しかったならいいんじゃ……」

「キャビアだぞ? 確かに今夜の女王バチは魅力に溢れていた! しかし、キャビアが流れてくると知ってたら……」

 男とは欲張りで身勝手な生き物だ。

 充分珍味で腹が満たされていたにも拘らず、キャビアを目の当たりにした途端、悔やまれてならない。

 あの時、郡是がパーティーにキャビアが来ると一言言い添えてくれれば、仕事なんぞ放っぽって参加したものを――。

 墳堂は今、猛烈な憤りを感じていた。

「墳堂、ホントに大丈夫?」

 月見里の手が肩に掛かる。墳堂はそれを振り払った。

「放っておいてくれ」

「うん。分かった」

 なに?

 墳堂はガバッと顔を上げた。

 こう言う時は、そんな訳には行かないよとか何とか言うものではないのか!

 しかし、月見里はあっさりと腰を上げるとにこやかに言った。

「それじゃあ、これで失礼するよ。栞を送らなきゃ。気を落とさずにね」

「おやすみなさい。墳堂先生」

「…………」

 キャビアをかっさらった隣の客は、己の犯した罪に気づく事なく去って行く。

 お……おのれ、月見里!

 その時、月見里の後ろ姿を睨む墳堂の眼前を何かが横切った。

 赤と白の、実にめでたい格好をした男――。

「ま、待て! 待ってくれ!」

 墳堂は駆け出していた。

「おい! そこのサンタ!」

 墳堂は焦っていた。焦るあまりに、判断能力がごっそりと抜け落ちていた。例えるなら、漫画ちびまる子ちゃんの祖父、さくら友蔵の毛髪に匹敵する救いのなさである。

 正常な精神状態であれば、目の前のサンタが痩せぎすの若い男で、手にしているのがプレゼントを入れる袋ではなく、「覗き部屋。みえるーむ」と書かれた看板である事に気付いただろう。

 しかし、くどいようだが、この時の墳堂の判断能力はさくら友蔵の毛髪状態だった。

「待てと言うのに!」

「わわわっ。何ですか、アンタ」

 墳堂はサンタの首根っこを捕まえ、無理やり自分の方へと向けると捲くし立てた。

「あれはキャンセルだ! キャンセル! キャンセル! キャンセル!」

「は……? アレ?」

 サンタは苦しそうに喉元を抑え、街角に捨てられた子犬のような怯えた目を墳堂に向けた。いきなり見知らぬ大男に背後から襟元を引っ張られたのだから、それも当然だろう。

 それでも襟元を緩めると、おずおずと聞いた。

「あの、なんスか、アレって……」

「とぼけるな! お……女の話だッ」

 サンタは目を瞑った。

 殴られるのではと言った恐怖からではない。充分聞こえる位置にありながら、これでもかと顔を近づけ声を荒げる墳堂の唾が、雨のように降りかかってきたからだ。

「ちょ、な……なんかよく分かんないけどぉ……」

 サンタは墳堂がそれほど危険な人間ではないと経験から悟ったのか、袖口で顔を拭うと、憮然とした表情で「お客さんさあ」と言った。

 どうやら墳堂を困った利用客――クレーマーだと認識したようだ。彼は店の方針で、質の悪いクレーマーには強く出るよう教育されていた。

「これは皆さんに言ってんスけど、女の子の指名後のキャンセルは出来ない事になってるんスよ。女の子の面子だってあるし。そこは責任とって貰わないと」

「せ、責任ッ?」

 いきなりの重い発言に、墳堂はたじろいだ。

「俺はまだ……いや、何もしとらん! ただ、ちょっと雰囲気に流されたと言うか、飲まれたと言うか……。ま、いいか、なんて軽い気持ちでだな」

「そう言うお客さん多いんだよねぇ。でもそう言う人に限って、しっかり見ちゃってるでしょ?」

 ぎく。

 痛い所を突かれ、墳堂は顔を強張らせた。事実、網膜には未だ真樹の白い肌と金色の産毛が焼き付いている。

 正直者の墳堂には否定のしようがなかった。

 そんな墳堂の様子に、サンタはホラ見た事かと言わんばかりの顔で鼻を鳴らした。

「見るだけ見といてなかった事にしてくれじゃ、こっちの商売成り立たないんだよ。お客さんも怖い思いしたくないでしょ?」

「し、しかしだな」

 墳堂は食い下がる。だが、サンタはそれを無視して一気にたたみ掛けた。

「ま、そんな訳だから。キャンセルとか言ってないで、精一杯楽しんだなら、出す物出して引き取ってよね」

 何だと?

 出す物(指輪)を出して(女を)引き取ってよね?

 つまりそれは……。

「は……ははははは……」

 ぐらり。

 足元が揺らいだ気がした。


 どこか遠くで、半鐘が鳴った。



5.

 翌日のクリスマス。

 墳堂は昼休みに真樹を教授室に呼んだ。滅多と使わない為に、結局物置――いや、ゴミ屋敷と化した墳堂専用の部屋だ。

「あー……越君?」

「なんですか?」

 出勤したかと思えば郡是に仕事を押し付け、結局午前中丸々不在だった墳堂に真樹は腹を立てているようだ。返事はするものの、目を合わせようともしない。

 墳堂は耳の後ろを掻きながら、上目で何度も真樹の様子を窺い、ポケットの中味を弄びつつタイミングを待つ事にした。

 その矢先の事だった。

 話せるだけのスペースを作ろうと、墳堂が擂鉢状に積み上げた荷物の山が、長期戦を見越して寄りかかった墳堂の振動を受け、一気に中央へと向かって崩れ出した。

「きゃ……」

「越君!」

 まるで雪崩の如く襲ってくる荷物。

 墳堂は真樹を床に倒すと覆い被さった。

 背中に掛かる重みが増す毎に、ザアッと言う紙のこすれ合う音が次第に遠くなる。

 その音が完全に収まるのを待って、墳堂は真樹を懐に抱え込んだまま、思い切り腕を突っ張った。

「ブハッ! 越君、大丈……ぐッ!」

「だから……だからいつも片付けろと言ってたんです!」

 床に体を横たえたまま墳堂の鳩尾に膝をぶち込んだ真樹は、自らもこの部屋に不要品を放り込んでいた事を見事なまでに棚上げして言った。

 そして仰向けのままずるずると墳堂の下から這い出すと、ゴミの山に背を預け、墳堂の胸倉を掴む。

 墳堂のサングラスに、真樹の怒りの目が映った。

「言っておきますが、これでも一応嫁入り前の体! 傷でもついたら――」

「その心配はない」

「え……?」

 真樹はぽかんとしている。意表を突かれたと言った風だ。

 墳堂は胸倉を掴まれたままの格好で真っ直ぐに真樹を見据え、そして小さく息をつくと、真樹の頬に手を伸ばした。

「心配はない。と言ったんだ。君も言ったろう? 俺が、身を呈して守るのだと」

 そうだろう?

 だからそんな顔をするな。

 何とか言えよ。

 いつものように毅然と、当然でしょうと、女王様のように言えばいい。

 なのに、真樹は時折瞬きをするだけで、ただ黙って墳堂を見ている。

 墳堂は急に自分の言動が恥ずかしくなった。

「と、とにかく」

 真樹から体を離し、どすんと床にあぐらを掻いた墳堂は、不貞腐れたような口調で言った。

「俺も男だ。潔く、見てしまった責任をとろうじゃないか。と言う訳だ。受け取るがいい」

 墳堂はポケットから小さな箱を出し、座り込んだ真樹の膝に放り投げた。

 郡是に仕事を押し付けて出掛け、意を決して入った店で、店員に薦められるがままに買った物だ。

 お包みしましょうかと言われたが、ビロードのケースのまま持ち帰った。改まったラッピングが恥ずかしかった。

 真樹はちらりと墳堂を上目で見ると、ケースの蓋をそっと持ち上げた。覗くような仕草だ。

 そして眉をぴくりと上げると、無言のまま、サテンのクッションに鎮座している指輪を凝視している。

 プラチナのリングに0.8カラットのダイヤモンド。そのダイヤの両脇には、真樹の誕生石であるムーンストーンが配され、シンプルながらも愛らしいデザインだ。

 墳堂は咳払いをすると膝を詰めた。

「それでその……。来週あたり、君のご両親に御挨拶に伺おうと思うんだが」

 その時、ずっと閉じていた真樹の唇が動いた。

「お断りです」

「うん?」

 真樹はぱちんとケースの蓋を閉じると繰り返した。

「お断りです!」

 指輪を渡して数十秒。

 墳堂は振られた。

 しかし――。

「おお! そうか! 断るか!」

 一世一代のプロポーズで玉砕したに筈の墳堂は、晴れ晴れとした表情を浮かべると膝を打った。

「よし、じゃあこいつは返し……」

「いーえ!」

「なぬ?」

「折角のお気持ち。預からせて頂きます」

 ケースに手を伸ばす墳堂を交わした真樹は、唖然とする墳堂を尻目に悪魔の微笑を浮かべると、再びケースを開き、指輪を嵌めた。

「まあ。ぴったり」

 墳堂の小指にすら嵌らなかった小さな指輪は、誂えたかのように真樹の左手薬指にぴったりと収まっている。

「おっ、おい、返せよ!」

「あら。男なんでしょう? 一度出した物や言葉を引っ込めるおつもりですか?」

「構うか! 返せ! 今なら返品が利くんだ! 返せ!」

 墳堂は必至だった。何しろ給料の3カ月分だ。

 しかし、真樹はそんな墳堂を無視して立ち上がった。

「さて。仕事に戻らなくちゃ」

「このッ……」

 この際、少々の乱暴は致し方ない。

 墳堂はすかさず腰を上げると、部屋を出ようとする真樹の手首を掴んで引いた。

 バランスを失い、倒れてくる華奢な体。

 墳堂はそれを抱き止めると、再び床に押し倒した。

「かえ――!」




 誰よりも美しく、誰よりも賢く、誰よりも不可解な女王陛下。

 きっと俺は、この先もずっと君に振り回されて行くのだろう。


「まあ……。それも悪くない……かな」


 墳堂は凝りもせず、昨夜と同じ事を考えた。

 どうやら、クリスマスの魔法はまだ有効らしい。

 遠ざかっていく軽やかな真樹の足音、そして、業務再開を告げる鐘を聞きながら、墳堂は指輪とともに奪われてしまった唇を掌で覆った。





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