第一章 突然の婚約破棄と新たな縁談(4)
(アドルフ様とはかれこれ五年近く婚約者として過ごしたけれど──)
男女の恋情はなくとも、オーバン公爵家をこれから一緒に支えていく同志だと思っていた。それは、リーゼロッテの幻想だったのだと知り、むなしさだけが残る。
(オスカー様はとても優秀な方だから、きっと大丈夫)
シャーロットと結婚するオスカーは侯爵家の次男で、実家の持っているもうひとつの爵位である子爵を継ぐ予定でいた。しかし、今回の件でシャーロットと共にオーバン公爵家を継いでくれないかと打診したところ、驚きつつも承諾してくれた。
(わたくしは、どうしようかしら)
婚約破棄された上に王女から睨まれたリーゼロッテのことを娶りたいなどという男は、まずいないだろう。
(人生ってままならないものね)
ふと目を向けた窓越しに、小枝で羽を休める小鳥が見えた。小鳥はきょろきょろと辺りを見回し、やがて大空へと羽ばたく。
(わたくしも、あんな風に自由に飛んでゆけたら──)
けれど、公爵令嬢として生まれた以上、そんなことは叶わないとわかっている。リーゼロッテははあっと息を吐く。
(お父様とシャーロットの言葉に甘えてまずは領地に戻るとして、早めに受け入れてくれる修道院を探さないと)
ひっそりと、奉仕活動でもしながら過ごそう。そう思っていたのだが──。
父であるオーバン公爵を見つめ、リーゼロッテは眉根を寄せる。
「お父様、今なんと?」
「お前に縁談だ。相手はラフォン辺境伯のテオドール=ラフォン殿。彼と家格の合う年頃の令嬢がおらず二十五歳になった今も婚約者すらいない。王室より、是非リーゼロッテをと」
リーゼロッテの視線の先にいるオーバン公爵は思い通りにいかない状況に苛立ちを感じているようで、きっちりと整った髪の毛を片手でぐしゃりと搔きむしる。
「わたくしはイラリア王女殿下に断罪された悪女のはずですが? そんな女を推してよろしいのですか?」
リーゼロッテは皮肉たっぷりに聞き返す。一体どういうつもりで、こんな縁談を持ってきたのか。
「貴族の縁談で一番重要なのは家格の釣り合いだ。もしお前がこれを受け入れるのなら、先の一件は一切責任を問わないと」
「……つまり、縁談という名の命令ですわね?」
リーゼロッテはふっと自嘲的に笑う。
道理で公爵である父がどんなに申し入れても、婚約破棄が覆らなかったはずだ。最初からこうするつもりだったのだろう。
ラフォン辺境伯。彼の名を知らないものなど、イスタールの貴族にはまずいないだろう。貴族どころか、平民も多くが知っている。
広大な北の大地を治めるラフォン辺境伯家の当主にして、世界最強の幻獣騎士と言われている。
それに、彼が有名である理由はもうひとつあった。
「よりによって、血に塗られた辺境伯が相手とは……」
オーバン公爵は深いため息を吐く。
──血に塗られた辺境伯。
それは、テオドールの別称だ。こう呼ばれるのには、いざ前線に出ると鬼神のごとく容赦ない戦いぶりを見せ全身が返り血で血まみれになるというほかに、もうひとつ理由があった。
テオドール=ラフォンは一度結婚している。だが、その花嫁を『気に入らない』というだけの理由で初夜に惨殺し、遺体を窓から投げ捨てたのだ。
さらには、女癖が悪く娼館通いをしており、平民の女を含め手当たり次第に手を出しているという話も聞いたことがある。それも彼の悪評を酷くする一因だった。
このせいでテオドールに娘を嫁がせようとする名門貴族はおらず、今も独身で婚約者もいないままだと記憶している。だが、イスタール王室としては代々優秀な幻獣騎士を輩出するラフォン辺境伯家の当主がいつまでも結婚せずに世継ぎをもうけないことは、看過できないのだろう。
「やはり、このような仕打ちは納得いかない。私がもう一度──」
オーバン公爵がダンッと執務机を手で叩き、すっくと立ちあがる。
「お待ちください!」
リーゼロッテは慌ててオーバン公爵を制止する。
この縁談は、間違いなくイラリアの差し金だろう。婚約破棄させるだけでは満足できず、リーゼロッテを物理的に隔離し、あわよくば血に塗られた辺境伯の手でこの世から存在ごと消し去ってしまいたいとでも思っているのだろう。
「王室がお膳立てした縁談を断れば、オーバン公爵家とて無傷では済みません」
「だが──」
「お父様もご存じの通り、わたくしはもう良縁が見込めません。ラフォン辺境伯家は家格で言えば公爵家に次ぐ高位であるだけでなく、広大な領地と強力な軍を擁しております。当主のテオドール様はまだ二十五歳の世界最強の幻獣騎士。条件面で言えば、またとない良縁です」
オーバン公爵は眉間に深いしわを寄せる。その好条件を覆すくらい悪い噂もあると言いたいのだろう。
リーゼロッテはすうっと息を吸う。
「お父様、行かせてはいただけませんか? この婚姻を断れば、わたくしは一生を修道院で過ごすことになるでしょう。どうせなら、愛する人達の役に立ちたいのです」
リーゼロッテはオーバン公爵を真っすぐに見つめ、胸に手を当てる。
今までずっと、オーバン公爵家を継ぐつもりで必死に勉強してきた。大好きな領地の領民達が穏やかに暮らせるように、少しでも役に立ちたいと思っていた。
それが叶わなくなった今、リーゼロッテにできることと言えばこれ位しかない。
オーバン公爵はしばらくリーゼロッテを見つめたのちに、目頭を指で押さえる。
「不甲斐ない父を許せ」
「あら。お父様はわたくしの誇りですわ」
父がどんなに自分のことを愛してくれているか、リーゼロッテはよく知っている。
それに、どうせこのあとつまらない余生を送るなら、刺激があるほうに賭けてみたい。それは、リーゼロッテの包み隠さぬ本心だった。