第一章 突然の婚約破棄と新たな縁談(3)
リーゼロッテが帰ったあと、イラリアは上機嫌で祝杯を上げた。
「ふふっ、さっきのリーゼロッテ様の顔を見た? びっくりして目がまん丸で、せっかくの美人が台無しになっていたわ」
思い通りに事が進み、愉快でたまらない。
「さてと。最後の詰めに向かわないとね」
イラリアは持っていたグラスをテーブルに置く。
もたもたしていてオーバン公爵から抗議が来ると面倒だ。そうならないために、オーバン公爵が出張に行っている今日のタイミングを選んだのだから。
イラリアは部屋を出て、国王である父の部屋に向かう。
「お父様。イラリアです」
父の元に到着したイラリアはトントントンとノックをして呼びかける。
「どうした、イラリア。お前がここに訪ねてくるなど、珍しいな」
「お忙しいところ申し訳ございません。でも、すぐにお伝えしたいことがありまして」
「なんだ?」
国王は持っていたペンを置くと、ゆったりと背もたれに体を預けてイラリアを見る。
「実は、わたくしの近衛騎士であるラット伯爵家のアドルフですが、オーバン公爵令嬢のリーゼロッテ様と婚約を円満解消することで合意しました。ですから、リーゼロッテ様は婚約者不在になります」
「ほう?」
国王はイラリアを探るような目で見つめる。
「お父様、前々から例の方になかなかよい相手がいないと悩まれていたでしょう? 今日いらしていたみたいですけれど、どなたかと縁談は決まっていらっしゃいましたか?」
「いや、まだのようだ」
「まあ! では、わたくしがここに来た甲斐がございます」
イラリアは朗らかに笑う。
「オーバン公爵令嬢が、打ってつけなのではないかと」
「なるほどな」
国王は口ひげの生えた口元に薄っすらと笑みを浮かべる。
「それは名案だ」
その返事を聞き、イラリアは笑い出したい衝動を抑えるのが大変だった。
(血に塗られた辺境伯に、殺されてしまうかもしれないわね)
リーゼロッテを物理的にアドルフから隔離することができるだけでなく、あわよくばこの世から存在そのものを消し去ることができるかもしれない。
そう思うと、愉快でたまらなかった。
◇ ◇ ◇
人の噂話、こと悪い噂は会話を楽しむ上での最高のスパイスだ。
リーゼロッテが嫉妬に駆られて悪事をしでかしアドルフから婚約破棄されたという噂は、ほんの数日で社交界に広がった。さらに悪いことに、尾ひれ背びれまでついて今や手に負えない状態だ。
「わたくし、絶対に納得できません!」
ハンカチを引きちぎりそうな勢いで立腹しているのはリーゼロッテのふたつ下の妹、シャーロットだ。
赤みのある金髪に大きな釣り目のリーゼロッテがきつい印象を持たれるのとは対照的に、シャーロットは淡いピンク色の髪に柔らかな目元をしており優しい印象を抱く人が多い。けれど、芯は強く曲がったことは大嫌いな頑固な性格をしている。
「わたくし、やっぱり抗議してまいります。オスカー様にお伝えして協力していただけば──」
「止めなさい。お父様が既に抗議したのにだめだったのよ? あなた達まで王室から睨まれたら大変だわ」
リーゼロッテはいきり立つシャーロットを宥める。オスカーとはシャーロットの婚約者のことで、政務局で働く将来有望な文官だ。
あの突然の婚約破棄から既に一週間が経った。リーゼロッテの父であるオーバン公爵は帰宅して事の顛末を知るとひどく驚き、この件は何かの勘違いによる誤解だと再三にわたって貴族院に申し立てた。しかし、その請求は調査されるまでもなく却下された。
公爵である父の請求がこんなふうに無下にされるなど、異常事態だ。なんらかの大きな権力による力──おそらく王族の意向が動いていると考えるのが自然だ。
「だからってこんな……。酷すぎます!」
シャーロットはスカートの上でぎゅっと拳を握り締め、怒りに震える。リーゼロッテはその様子を見て、口元を綻ばせた。
「ねえ、シャーロット。あなたがこうやって自分のことのように怒ってくれるから、わたくしはそれだけでとっても幸せよ。それに、あなたとオスカー様なら何も心配いらないもの。だから、この家をよろしくね」
「お姉様……」
シャーロットはリーゼロッテを見つめ、目にいっぱいの涙を浮かべる。
リーゼロッテはふたり姉妹の姉に当たる。将来はこのオーバン公爵家を夫となる人と切り盛りしようと、必死に勉強して努力してきた。けれど、この度の一件でイラリアから目を付けられた上に社交界にも醜聞が広がってしまったため、自らその立場を辞退することにした。
自分のせいでオーバン公爵家そのものが王室から睨まれることは絶対に避けたい。イラリアがリーゼロッテに目を付けたのは十中八九アドルフが原因なので、リーゼロッテが表舞台から消えればオーバン公爵家への関心もなくなるだろう。