第三章 二年越しの顔合わせ(6)
「毒婦のはずの妻が、純潔だった」
今朝のことを思い返し、テオドールは額に手を当てる。
夫婦の寝室は、リーゼロッテとテオドールそれぞれの私室から内ドアで繋がる構造になっている。そのため、テオドールの私室にいると寝室の声は聞こえやすい。
今朝、テオドールは執務室に行き、その後いったん私室に戻った。そのときに、朝の準備に訪れたメイドとリーゼロッテが会話をしているのが聞こえた。
『あら? 奥様、月のものの乱れですか?』
『初めてなんだから、まだゆっくり寝ていてくださいませ!』
というメイドの声。それに対する、うろたえる様なリーゼロッテの声に、テオドールの来訪を喜ぶメイドの声も。
本当に毒婦で多くの男を寝床に引き込んでいるのならば、リーゼロッテに仕えるメイドがそれを知らないはずがない。だから、あんな会話はしないだろう。
そこから導き出されることはただひとつ。リーゼロッテは最初から男遊びなどしておらず、純潔だったということだ。
(どういうことなんだ)
昨晩、何度も違和感はあった。緊張で固くなった体、一つひとつの動作に戸惑うような表情、まるで初めてのように恥ずかしがる態度。
だが、リーゼロッテが男にだらしのない毒婦だと信じて疑っていなかったテオドールは、それらを全て彼女の演技だと判断して切り捨てた。
しかし、今朝聞こえてきた会話も相まって、小さな疑問は一気に膨らみ実は自分がとんでもないことをしでかしたのではないかと思えてきた。
〈まあ、清純な妻を娶ったと信じていたのに実は毒婦だったよりはずっといいだろう。前回とは大違いだ〉
「お前、他人事だと思って」
テオドールはルカードの顔を振り返り、睨み付ける。
〈本当のことを言ったまでだ。……テオ、まだあの事件を引きずっているのか?〉
ルカードに問いかけられ、テオドールは言葉に詰まる。
──あの事件。三年前、テオドールが最初の結婚式を挙げた日の夜に寝室で起きた惨劇。
忘れるはずがない。唇の端から血を零しながらこちらを睨み付ける女の形相を、今でもはっきりと覚えている。
彼女が着ている繊細な寝間着は血で真っ赤に染まり、その中心にはテオドールの剣が突き刺さっていた。
「そういうわけじゃない」
〈では、毒婦だと思い込んでいたことを謝罪するんだな〉
ルカードはさっさと行けと言わんばかりに、顎を地面につけて目を閉じた。
テオドールはもう一度深いため息をつき、立ち上がる。
その足で屋敷に戻ると、いつもと少し様子が違うことに気づいた。使用人達が明るい顔でせわしなく動き回り、どことなく浮き立っているように見える。
(どうしたんだ?)
怪訝な顔で周囲を見回していると、ちょうどそこに通りかかったメイド長と目が合う。
「旦那様! お待ちしておりました。準備は整っておりますので」
「準備? なんのだ?」
「もちろん朝食でございます。さあさあ、行きましょう!」
メイド長に半ば引きずられるように連れていかれたのは、いつも朝食をとっているダイニングルームだった。
(なぜ今日はこんなに急かすんだ?)
普段なら、呼びにすら来ないのに。
しかし、疑問はドアを開けた瞬間に解決した。ダイニングテーブルの向かいには、リーゼロッテが座っていたのだ。
彼女も無理やり使用人達に連れて来られたのだろう。おどおどして落ち着かない様子だ。
「だ、旦那様! おはようございます」
リーゼロッテはテオドールに気づくと、慌てたように立ち上がってお辞儀をする。
「あの、本日はこちらの部屋で朝食をとるようにとセドリックに言われたのですが、よろしいのでしょうか? わたくしは別室かお時間をずらすのでも構いませんので、先に旦那様にお召し上がりいただいて──」
リーゼロッテの機嫌を窺うような視線を感じ、頭が痛くなる。テオドールがさんざんリーゼロッテを避けてきたので、彼女はテオドールが同席を嫌がると思っているのだろう。
「いい。そこで食べろ」
「え? よろしいのですか?」
「構わない」
リーゼロッテは戸惑ったような顔をしたが、結局は大人しく席に座った。
わかりやすくにこにこした使用人達がいそいそと食事を準備する。テオドールはそれを見てまた頭が痛くなるのを感じた。
普段に比べて明らかに豪華なそれは、本来であれば結婚式翌日に領主夫婦に振る舞われるものだ。よくもまあ急にこんな手の込んだものを用意できたものだと驚きを禁じ得ない。
どういうことだと部屋の隅にいたセドリックを睨むが、彼はどこ吹く風で涼しい顔をしていた。
「まあ。随分と豪華な食事なのですね」
正面に座るリーゼロッテはその食事を見て感嘆の声を上げる。
「旦那様はいつも、こんなにたくさんのお食事を?」
「……いや、普段はもっと質素だ」
「では、今日はたまたま豪華なのですね。ご一緒させていただきありがとうございます」
リーゼロッテはテオドールを見つめ、にこりと笑う。そこに、悪女の欠片はみじんもなかった。




