◆ 新しい奥様
昼下がりの休憩室。アイリスが皆とおしゃべりに興じていると、血相を変えたメイドが駆け込んできた。
「ねえ、みんな! 大変」
「どうしたの? そんなに急いで」
息を切らしたメイドに、別のメイドが声をかける。
「旦那様が」
「旦那様が?」
「結婚したらしいわ!」
そのメイドは両手に拳を作って、大きな声で言った。
「ええっ⁉ いつ?」
「誰と?」
休憩室にいたメイド達が一斉に、その情報をもたらしたメイドに詰め寄る。今の今までそんな情報は誰ひとりとして聞いていなかったのだから、驚くのも当然だろう。
この屋敷の主であるテオドール様はもう二十五歳になるのに、婚約者すらいなかった。ついにラフォン辺境伯家にも春が来たのかと、メイド仲間は沸き立った。
「さっき、セドリック様がメイド長にお話しされているのをたまたま聞いたの。旦那様がご結婚なさって、新しい奥様がいらっしゃるから部屋の準備をするようにって」
彼女の話によると、テオドール様がご結婚なさるのはオーバン公爵家の令嬢──リーゼロッテ様のようだ。すでに書類による婚姻の申請は済んでおり、結婚式はしていなくとも正式な夫婦なのだという。
そのとき、メイドのひとりが声を上げる。
「ちょっと待って! オーバン公爵令嬢のリーゼロッテ様ですって?」
「そうだけど、どうしたの?」
「私、その方のこと聞いたことあるわ。王都でメイドをしている従妹を訪ねたとき、噂になっていたの」
「へえ。どんな噂なの?」
周囲にいるメイドが聞き返す。
「それがね──」
口元に手を当てて記憶を辿るように、彼女はゆっくりと話し始める。
リーゼロッテ様は自身の元婚約者に近づいた女性への陰湿ないじめで断罪された悪女で、そのくせ自身は男に色目を使う毒婦だと。
「ええ? そんな人が来るなんて、大丈夫かしら?」
部屋にいたメイドのひとりが心配げに声を上げる。
「陰湿ないじめなんて、最低だわ」
別のメイドは憤慨するように語気を荒くすると、先ほどまではお祝いモードだった部屋の雰囲気が一転する。
「そんな奥様、追い出してしまいましょうよ」
誰からともなく発せられた言葉がその部屋全員の総意となるのは自然な流れだった。
◇ ◇ ◇
アイリスは手に持っている木箱を眺め、ため息を吐く。
「本当にやらなきゃかしら……?」
木箱の中には、生きた蛇が入っている。王都に従妹がいるというメイドが『リーゼロッテ様は蛇が嫌いらしい』という情報を仕入れたら、メイド仲間のひとりが捕まえてきたのだ。
『これを部屋に置いておけば、きっと奥様は大層お怒りになってすぐ屋敷からいなくなるわよ』
蛇を捕まえてきたメイドは得意げに自分のアイデアを語った。そして、『じゃあアイリス、頑張るのよ。みんなのためよ』とリーゼロッテ付きになることが決まったアイリスに託してきたのだ。
「他人事だと思って」
アイリスは小さな声で愚痴を漏らす。
そんなことをしたら、逆にアイリスが清掃不行き届きの責任を取らされクビになる可能性だってある。つまり、アイリスは嫌な役を押し付けられたのだ。
一通り掃除を終えたアイリスは窓とドアがしっかりと閉まっているのを確認し、蛇を小箱から出す。蛇はしゅるしゅると床を這い、ベッドの下へと姿を消した。
その日の夕方到着したリーゼロッテ様は、今まで出会ったどの女性よりも美しい人だった。
赤みを帯びた金髪を片側に垂らし、その髪には金細工の髪飾りが飾られている。耳と首元にも金細工の飾りが輝いていたが、彼女の着ているベージュ色のドレスと上手く馴染んで控えめな印象を受けた。
事前の情報からリーゼロッテ様はきっと使用人達のことなど気にもかけない傲慢な態度を取るだろうと予想していた。けれど、意外なことにリーゼロッテ様は到着時に出迎えた使用人たちに声をかけ、微笑みかけてきた。そして、改めて部屋の前でセドリックに紹介されたアイリスにも笑顔を向けてきた。
(本当にこの人が、悪女なの?)
アイリスは混乱する。第一印象は、悪女とはかけ離れている。
そして、違和感はその少しあとに確信へと変わる。
「お掃除ありがとう、アイリス」
蛇がいて怯えていたくせに、リーゼロッテ様はこちらの非を一切糾弾せず、さらには笑顔を向けて掃除へのお礼を言ってきた。そして、王都から連れてきた侍女のライラ様の様子を見るに、これがリーゼロッテ様の普段からの姿に違いないと思った。
最初は猫をかぶっているのかと思ったけれど、翌日以降もリーゼロッテ様は優しく上品なままだった。
(なんであんな変な噂が立ったのかしら?)
田舎育ちのアイリスには、王都の出来事はよくわからない。けれど、はっきりとわかったことがひとつだけある。
(リーゼロッテ様は悪女でも毒婦でもないわ)
アイリスはラフォン辺境伯家に美しく優しい花嫁が来たことを喜び、誠心誠意尽くすことを誓ったのだった。