第二章 誤解と二年間の空白(6)
「先ほど到着して、お部屋にご案内しました」
「どんな女だった?」
「噂通り、大変美しいお方でしたよ」
セドリックは僅かに口元に笑みを湛える。
「お前が『大変美しい』と言うくらいだから、さぞかし美人なのだろうな」
テオドールもふっと笑みを漏らす。美女と名高かったテオドールの母に長年仕えていたせいか、セドリックの美人判定基準はとても厳しいのだ。
執務室ですぐにやらなければならないことを済ませると、テオドールは早速リーゼロッテの元を訪ねることにした。しかし、部屋の前の廊下で異変に気付く。
(おかしいな?)
辺境伯というテオドールの立場上、この屋敷には国交や軍事に関するたくさんの機密事項が保管されている。さらに、万が一の有事の際は国を最前線で守る拠点になる。そのため、不測の事態に備えてテオドールはリーゼロッテの近く──部屋の前に護衛を置くように指示した。
しかし、その護衛が見当たらないのだ。
部屋のドアは五センチ程度、開きっぱなしになっていた。テオドールはその隙間から中の様子を窺い、そっとドアを開く。
「誰もいないのか?」
こんな夕暮れ時に護衛を連れて散歩にでも行ったのだろうかと思いかけたそのとき、部屋の奥から話し声が聞こえた。
(寝室か?)
寝室へと繋がるドアも少し開いているのに気づき、テオドールはそちらに近づく。今度は若い女の声がはっきりと聞こえた。
「ああ。最悪の気分だわ。あなたがいてくれて本当によかった」
ハッとしたテオドールは壁に背中を合わせるように身を隠し、ドアの隙間からそっと寝室を覗く。そこには、長身の若い護衛と女がいた。女は後姿しか見えないが、赤みがかった美しい金髪をハーフアップにしてドレスを着ている。
(彼女がリーゼロッテか?)
この部屋にいるからには彼女がリーゼロッテであることは間違いがないだろう。あろうことか、リーゼロッテは護衛の男の腕に自ら手を伸ばして絡みついていた。
「テオドール様がお戻りになっていなくてちょうどよかったわ」
心底ホッとしたように呟かれたリーゼロッテの言葉を聞き、テオドールはスーッと気持ちが冷えていくのを感じた。
(なるほど。俺の妻は間違いなく毒婦のようだ)
この屋敷で暮らし始めた初日に、早くも護衛を籠絡して夫の不在をいいことに不義を働こうとしているとは。
(大した度胸だな)
テオドールはぎゅっと拳を握ると、リーゼロッテに声をかけることなくその場を立ち去る。
そうして執務室に戻ると、セドリックが部屋の前に立っていた。
「旦那様。そろそろ晩餐の準備が整います。奥様のお迎えは旦那様がなさいますか?」
何も知らない家令は呑気にテオドールに問いかける。
「……気が変わった。カルロたちが町で宴会をしているはずだから、そちらに行く」
「旦那様?」
セドリックはいぶかし気な顔で何かを言いかけたが、テオドールはそれを無視してその場をあとにした。
カルロたちのいる娼館へと行くと、楽し気に吞んでいた部下達が一瞬で水を打ったように静まり返る。
「テ、テオ! お前、どうしたんだ⁉」
奥に座っていた赤ら顔のカルロが、びっくりして飛んできた。
「気が変わったから、こちらに来た」
「気が変わったって、お前今日は──」
言いかけた言葉を、カルロはハッとしたように呑みこむ。そして、かわいそうなものでも見るような目でテオドールを見つめた。
「わかったぞ。噂は全くのはったりで、新妻に会ってみたらちっとも美人じゃなかったんだな? そうだろ⁉ わかるぜ。俺も昔、ものすごい美人画を見せられてワクワクしながら会ってみたら──」
カルロは饒舌に自分の体験談を話し始めると、娼館の主人に「おい。テオに一番の美人を頼む!」と叫ぶ。間もなくテオドールの横に座った女は、店で一番人気というのが頷ける艶めかしい美女だった。
自分の肩にしな垂れかかる女から、甘い香りが漂う。しばらく食事と酒を楽しんでいたが、ふいに女に手を取られ、柔らかな肌に導かれた。
「上に休憩しに行きませんか?」
耳元でささやかれた言葉は、夜の誘いだ。
(あの女も今頃護衛の男とお楽しみなのだろうか)
ふと、リーゼロッテの後ろ姿が思い浮かび、無性に苛立ちを感じた。
「いいだろう。行こう」
テオドールは無表情のまま頷くと、女の手首を握ったまますっくと立ちあがった。
◇ ◇ ◇
暦表を見つめ、リーゼロッテはむうっと頬を膨らませる。×のマークを数えると、既に四十五もあった。
「辺境伯って、こんなにも忙しいのかしら?」
リーゼロッテがラフォン辺境伯領に来て既に四十五日。初日に会えなくとも翌日以降にすぐ会えるだろうと思っていたのに、夫であるテオドールに未だに会うことができない。
領地の視察に行っていたり、人に害をなす幻獣が多数発生したという情報を得て討伐指揮に行ったり、様々な催しに招待されたり……不在にしていることが非常に多いというのはわかる。それにしたって、こんなにも会えないものなのだろうか。
(このままだと、一生会えない気がするわ)
同じ屋敷に住んでいるというのに、さすがにおかしい。