第二章 誤解と二年間の空白(5)
「あら? リーゼロッテ様。食欲がありませんでしたか?」
食事が半分くらい残っているのを見て、ライラが心配そうにリーゼロッテの顔を覗き込む。
「少し疲れているのかも」
「そうですか。では、このあとは私がしっかりとマッサージして差し上げます」
「ふふっ、ありがとう。でも、疲れているのはライラも一緒でしょう? 無理しないでね」
「私は大丈夫です! 明日は帰るだけですから」
ライラは右肘を折り、まるで力こぶを作るかのようなポーズをとる。
「それに、リーゼロッテ様は夜が長くなるはずですよ」
ライラは少し顔を赤らめて、リーゼロッテの耳元で囁く。
(夜が長く?)
意味を理解して、リーゼロッテの顔も自然と赤くなる。
嫁いできた最初の夜。つまり今夜は初夜だ。
(どんな人なのかしら?)
リーゼロッテはまだ見ぬ夫への思いを馳せたのだった。
その晩、リーゼロッテはどきどきする胸を必死に落ち着かせ、夫であるテオドールの来室を待った。
「遅いわね……」
時計を見ると、もうそろそろ日付が変わる。
(何かお仕事でトラブルでもあって、抜け出せないのかしら?)
急に食事も一緒に食べられないと言ってきた位だから、緊急案件なのだろう。
辛抱強く待つが、待ち人は一向に現れない。
段々と待ちくたびれてきて、ふわっとあくびが漏れる。しかし、初対面となる夫を差し置いて妻のリーゼロッテが先に寝るわけにはいかない。
(本でも読んでようかしら)
リーゼロッテは気を取り直し、ベッドから下りると隣の自分の部屋から小説を持ってきてベッドに腰かけた。ぱらり、ぱらりとめくるページが増えてゆき、ときだけが過ぎてゆく。
小説を三分の一ほど読み進めたところで、リーゼロッテは深い眠りの世界へと誘われたのだった。
翌朝、ふと眩しさを感じたリーゼロッテは薄っすらと目を開ける。すぐ視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む光と赤らみ始めた空だ。
「え? 嘘っ!」
昨日、本を読みながらうっかり寝てしまったことに気づいたリーゼロッテは顔を青くする。慌てて飛び起きるが、ベッドには誰もいない。
(……いらっしゃらないわ)
寝台のシーツは昨日整えられたままの綺麗な状態だった。室内を見回しても、誰かが来たような気配もない。
(もしかして、徹夜でお仕事を?)
朝の準備の手伝いにやって来たアイリスにテオドールのことを尋ねるが、何も知らないという。
(昨日は残念だったけど、きっと今日はお目にかかれるわ)
しかし、そんなリーゼロッテの期待を裏切るように、翌日もその翌日も、テオドールがリーゼロッテの前に現れることはなかった。
◇ ◇ ◇
ときはリーゼロッテがラフォン辺境伯邸に到着して少し経った時刻に戻る。
この日、ラフォン辺境伯であるテオドールは領地視察を終えて数日ぶりに屋敷に戻る予定だった。
相棒のグリフォン──ルカードの背に乗り空を移動していると、ヒッポグリフに乗ったカルロが近づいてきた。
「きっと戻ったら、奥様が到着しているな」
「そうだな」
テオドールは表情を変えずに答える。
国王から勧められて娶ったリーゼロッテ=オーバンの到着予定日は今日だ。遅れるといった連絡は入っていないので、予定通りであれば今頃到着している頃だろう。
「今夜は奥様のところへ?」
「そのつもりだ」
「そりゃあ、花街の連中ががっかりするな」
「お前らだけで行けばいいだろう」
テオドールのそっけない返事に、カルロは肩を竦める。
「あいつらに自腹で払えるとでも?」
「……請求書を屋敷に回せ」
「そう来なくっちゃ」
ははっと笑ったカルロはヒッポグリフの手綱を引くと、悠然と離れてゆく。
それを眺めながら、テオドールははあっと息を吐く。
長期の視察が終わったとき、テオドールはいつも同行した部下たちを連れて馴染みの高級娼館に行く。一流の食事に一流の接待が受けられ、口も堅い。つまり、使い勝手がよいからだ。
単に飲み食いだけして帰宅する者もいれば、朝まで楽しむ者もいる。それは、各自の自主性に任せている。
(奥様、か……)
まだ見ぬ新妻について、テオドールは簡単に調査を行った。
それによると、リーゼロッテは嫉妬深く陰湿で、男癖も悪いともっぱらの噂だという。
だからと言って、今更この結婚をなしにすることはできない。国王から提案された縁談である上に、既に婚姻届けも受理されているのだから。
(どんな女かな)
噂通りの毒婦なのか、はたまた全くの誤解で普通の女なのか。
屋敷に到着すると、家令のセドリックが出迎えてくれた。
「リーゼロッテはもう到着しているのか?」
テオドールは執務室に向かいながら、横を歩くセドリックに尋ねる。