プロローグ
女性に対する暴力的表現が出てきます。苦手な方はブラウザバックをお願いします
ローテーブルを挟んで向かいに座る男を、リーゼロッテは不思議な気分で見つめた。
(本当にお越しいただけるか不安だったけど……)
すっきりとした高い鼻梁、冷たそうな印象を与える薄い唇、男性的な輪郭、そして、額にかかった艶やかな黒髪。獲物を狙う肉食獣のごとく鋭い目は、まるで今夜の月のような金色だ。
「ようこそお越しくださいました、旦那様。リーゼロッテでございます」
リーゼロッテは椅子に座ったまま丁寧に頭を下げると、もう一言付け加える。
「あなたの妻です」
その男──リーゼロッテの夫であるテオドール=ラフォンの表情がぴくりと動く。テオドールは何も言わず、リーゼロッテを見定めるかのように目を眇めた。
(まるで黒豹みたいね)
彼が着ている黒色の軍服と触れれば牙を立てられそうな危険な雰囲気が相まって、ごく自然とそんな感想を抱く。
この人が二年間、自分の夫であったのだと思うと、不思議な気分だ。
「わたくし達が結婚して、本日で二年になります」
「記念日にかこつけて宝飾品のおねだりでもするつもりか? 大した面の皮の厚さだ」
テオドールは鼻でハッと笑う。
「宝飾品?」
「お前が町の宝飾店に行っていたことを知らないとでも思ったのか?」
見下したような視線に、リーゼロッテはぎゅっと膝の上の手を握る。
宝飾店には確かに行ったが、宝石を強請るためではない。
「離縁してくださいませ」
テオドールの問いに答えることなく、リーゼロッテは静かに告げた。
「……なんだと?」
「離縁してくださいと申し上げました。わたくし達が結婚して今日で二年。イスタールでは法律で『貴族の本家において結婚後二年経過しても子供ができない場合、当主は無条件に離縁して後妻を娶る権利を与えられる』と定められております」
「それは俺が享受する権利であり、お前が行使する権利ではない」
テオドールの眼差しが一層冷たいものへと変わる。
(怖気づいちゃだめ!)
恐怖でびくっと震えそうになる自分を叱咤して、リーゼロッテはテオドールを見返す。
「存じております。だから、こうしてお願いしているのです。その権利を行使して離縁してください。ご存じの通り、わたくしは妊娠しておりません」
妊娠していないどころか、リーゼロッテは結婚して二年経った今でも清い体のままだ。なぜなら、結婚式当日の初夜をテオドールにすっぽかされ、その後も一度も閨を共にしていないのだから。
「全て、旦那様のご意思に従いましょう。今すぐ出て行けというならば、明日にも去ります」
「……んなに、ここを去りたいか」
「え?」
テオドールの低い呟きがよく聞き取れず、リーゼロッテは聞き返す。
「そんなにここを去りたいのかと聞いたんだ」
怒鳴るのを耐えているような低い声が、今度ははっきりと聞こえた。リーゼロッテを真っすぐに睨み付ける眼差しには、明確に強い怒りがこもっていた。
「わたくしは──キャッ!」
──わたくしは、旦那様がそれを望んでいるから、そう申し上げたのです!
そう続けようとした言葉は、リーゼロッテ自身の悲鳴にかき消される。立ち上がったテオドールに、右手首をがしっと掴まれたのだ。そのまま力強く手首を引かれ、リーゼロッテは無理やり立たされる。
「全て、旦那様のご意思に従いましょう、か。見上げた忠誠心だな」
テオドールはリーゼロッテに顔を近づけて、にやりと笑う。
「いいだろう。では、好きにさせてもらう。離縁したあとは後妻を娶ろう」
「……っ、ありがとうございます!」
リーゼロッテはパッと表情を明るくする。
(旦那様が不機嫌そうに見えたから怒っているのかと思ったけど、杞憂だったみたいね)
ホッとしたのも束の間、リーゼロッテはテオドールにひょいっと抱き上げられて慌てた。
「旦那様⁉ おろしてください」
慌ててその腕から逃れようともがくが、テオドールの腕はしっかりとリーゼロッテの体を抱えておりびくともしない。
数秒後、リーゼロッテの体はベッドに放り出された。そこに覆いかぶさるようにテオドールが来て、重みでぎしっとベッドが鳴る。
「何をなさるのですか!」
「何って、やることはひとつに決まっているだろう。我々は今、夫婦なのだから」
リーゼロッテを見下ろすテオドールの口元が、冷淡な笑みを浮かべる。
(まさか……)
これから起ころうとしていることを想像して、リーゼロッテは表情をこわばらせた。
「旦那様、お止めください」
止めようとする声が震えてしまうのは、強い恐怖を感じているからだ。
そんなリーゼロッテの怯えを知ってか知らずか、テオドールは鼻で笑う。
「なぜ? 夫が妻を抱くのに、何の問題が? 全て、俺の意思に従うのだろう?」
「しかし、旦那様は先ほど『離縁したあとは後妻を娶ろう』と──」
「ああ、言ったさ」
テオドールはふっと笑う。
「お前に飽きたらな」
リーゼロッテは大きく目を見開く。
「嫌っ!」
とっさに逃げようとしたが、すぐにベッドの上に押し戻された。乱暴に着ていたドレスを引き裂かれ、ボタンがはじけ飛ぶ。
(怖い)
恐怖で体が震えた。力任せで容赦のない暴き方に、無垢な体は悲鳴を上げる。
立派な公爵令嬢であろうと努力したつもりなのに。婚約者に裏切られ、手ひどく捨てられた。見せしめのように辺境の地に追いやられて、挙句の果てに嫁いだ先の夫にはまるでいないかのように扱われ、よかれと思って離縁を申し出たら憎しみを向けられた。
(……痛い)
痛い。体も痛いけれど、心が痛かった。まさかこんなことになるなんて、想像すらしていなかったのだ。
(どうしてこんなにも、この人から憎しみを向けられなければならないの?)
心の中で問いかけても、答えを返してくれる人などいない。
蝋燭が消えた薄暗い室内に、月明かりが差し込む。ぼんやりと浮かび上がる天蓋を見つめる緑色の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
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