照鑑の儀
母なる大河が海と交わる大いなる河口。
その中央に浮かぶ要塞の島——堰鼎都市フラガニール。
水面を貫く白亜の山——父なる霊峰アルマザによって支えられるように、巨大な島は広がる海へと対峙する。
(うぅ、つ、つめ……)
霊峰の山頂近くには、聖火教の大神殿が屹立している。
硬い岩盤を刳り出すように造られた、荘厳にして頑健たる聖火の教堂。
眼下に広がる生と死の営みを超然と見下ろす佇まい。
その地下深く。痺れるような冷気のなかで。
(つめた……つべだぃ、死んじゃぁううぅ……。)
灰髪の少女。
カミナ=ルシッドレッドは踠いていた。
肉付きのよくない貧相な裸身に、粗く織られた麻布の沐浴着を纏わされ。
なみなみと揺蕩う冷水の受洗槽に何度も何度も沈められる。
半ば突き落とされるように仰向けに沈みながら、力無く暴れて抵抗していた。
地下聖堂。
礼拝堂の地下にて計り知れぬ年月を支えてきたはずの荒々しい積み石のアーチ。
古代の石工の手による質実で美しい飾り彫り。
荒立つ水中にもがく少女からは、歪んだ泥色の模様にしか見えていない。
「……まだです。沈めて。沈めなさい。」
冷徹な女の声が響く。
少女が咄嗟に身体に巡らせた魔力の熱は、水に吸われて虚しく消える。
内に荒ぶる火を鎮め、儀式に適した状態をつくる。
そのために、教会秘伝の魔力を散らす霊薬が混ぜ入れられているからだ。
半年ほど前。ひどく暑い夏至の日に同年代の少年少女と一緒に受けた説明で、カミナはそのように聞かされていた。
そして今は、その説明の——暑い夏の日の半年後。
秋を越えて真冬へと差し掛かるこの季節。
半年前に大事な儀式を逃げ出したカミナ。
彼女が氷温の冷水に浸け込まれているのは、つまるところ、単なる自業自得でしかないのだった。
(……やぁばぃぃぃぃ………しんじゃうぅっうぅゥ………!)
側に控える無慈悲な修道女たちが、無様にもがく少女の躯を押さえつける。
いざとなれば銀杖や槌矛を振るうはずの堅い手掌は、筋力、魔力——あらゆる抵抗を拒絶して。彼女らの猛禽のような十指が、か細い鎖骨にぎりぎりと食い込んだ。
あるいは、ほんとうに死なす気なのかもわからない。
(……なんだろ……なんか……ひどすぎるぅぅ……?)
真冬の日。逃げ出したカミナひとりのために準備した儀式。
起きられなくて遅刻した少女がのんびりと到着したのは、半日遅れの日没ギリギリだった。
しかも、その少女が——よりにもよって街で有名な出来損ないの《灰娘》。
それはもう修道女たちの不興を買い漁るほどに買ったのだが。
常識と心の機微に疎すぎるカミナには、怒られる理由の検討さえもつかなかった。
半裸にはだけて凍えた肢体は力を失い、固い水底へと虚しく縫い止められる。
ごぼりと泡を吐くちいさな頭蓋。
噛み鳴らされる奥歯の音は、いつか幼いカミナを襲った、死者たちの嗤いのようだった。
「……ええ。ええ。いいわ。起こしなさい。」
儀式を仕切る短躯の女——聖教会の助祭が表情もなく言い放つ。
本来は司祭が行う儀式を押し付けられた彼女は、怒りというより、冷徹な事務員のようだった。カミナのことを毛を毟られて茹でられる鶏肉か何かのようにして、非情そのもので処理していく。
あるいは、腹の足しになるから鶏肉のほうがマシだぐらいに思っているのかもしれないが。
堰鼎都市の食糧事情は、お世辞にも豊かなものとは言えないのだ。
「ぶるるるるううう゛ぅー……」
剛健たる女たちに脇を抱えられ、うめき声を上げながらなんとか起きて立ち上がる。
頭を柔布で拭われながら前襟を合わせ、浅く何度か呼吸した。
「——髪と顔を拭ったら、側廊へ。突き当たりの階段を下って扉を開く。外廊を進めば奥院です。御鏡に祈りを捧げなさい。」
矢継ぎ早の指示は正確、簡潔、無駄がない。
それは寒さに震える少女への配慮ではもちろん無くて、さっさと面倒ごとを片付けたいと言う思惑が溢れんばかりの振る舞いだった。
一息ついて、思い出したように助祭は言った。
「——《照霊アニマ》があなたを照らしますよう。」
幸運を願う定型句。
照霊アニマとは——騎士の願いに応えて顕現し、騎士の力を高めて闇を照滅する意思ある聖霊たちのことである。主によって多様な姿を持つことから、その者の本性を反映する霊なる鏡であるとも言われていた。
15歳となる騎士の子女たちが成人の証として、一人前の騎士となる証として、それぞれの照霊を授かる。それこそが、これから行われる《照鑑の儀》の目的だった。
「……みっ……み御心の……まっまッ、ママに……。」
冷え切った奥歯を震わせ、カミナはどうにか台詞を返した。
沐浴という責め苦じゅんびを終えて、カミナは地下聖堂を後にして奥院へと向かう。
大きすぎる沐浴着の裾から滴る水跡が、長く陰鬱な影のように大理石の床をずるずると引きずられていった。