大灯火
霊峰アルマザ。
それは母なる大河の河口に聳え立つ白亜の岩峰であり、堰鼎都市を支える礎である。その威容は永年にわたって大河の流れを一身に受け止め続けてなお、一切痩せ朽ちることがない。
頂上寄りの山腹に、岩山を刳り貫いた純白の神殿が屹立する。その神殿の正門——島の北端からは、島を東西に二分割するようにして、南面の海へ向かって広々とした大参道がまっすぐ伸びていく。カミナが地下聖堂で儀式を受けた後、家に帰るのに通った道だ。
主要な街区と施設はすべて、街道沿いか海沿いに建設されている。そして街区から外れた広大な山裾には、神殿と騎士団が管理する森林地帯が広がっている。そこには貴重な水源でもある湖沼や沢泉が、原始の姿を残す豊かな樹林に隠れるようにして点在していた。
カミナも、また今は亡き実母も、街中にいるよりは木々の緑のなかで、山からも海からも隠れてゆったりと過ごす時間を愛したものだった。
学院を離れ、老執事ウェルダが導くところの避難先——『双ツ森の水辺』にある別邸は、そんな森林地帯の北東寄りに位置している。健脚の者が昼に歩けば、学院からは半刻少しの距離というところだ。
——暗いし、それに。寒いわね。
森は深まり、不吉な紫色の月明かりが枝葉を透かして行く手をまばらに照らしていた。危険を回避し、迂回に迂回を重ねた結果、山道は既に絶えている。ばらばらと降り始めた雨のなか、カミナ一行は獣道とも呼べない道無き道を進むことを強いられていた。
濡れそぼる深い森の中、カミナはふと無表情を歪めて歩みを止める。
背中の街灯が弟を雨から覆い隠していることを、もう一度しっかり確認した。
「……来てる。何匹?」
雨音。葉擦れ。風。足音。湿気った呻き。
安全なはずの木々の間に、溢れた死者たちが雨に紛れて迫り来るのが感じられた。
すでにウェルダは槍を構え、油断なく周囲を見回している。
「申し訳ありません、お嬢様。」
顔をしとどに濡らしながら、こちらを向かずにウェルダは言った。
「……私が殿を務めますゆえ。合図で、あちらへ。」
お逃げください。北東側に開けた樹幹の間を槍で示す。
灰色の眼が、老人を捉えてじっと睨む。
「——死んじゃだめ。ゆるさない。」
優しい子なのだ。ウェルダは思う。
失ったもの、得られないものが多すぎて、ほとんど感情も見せなくなったが……小さな頃と何一つ変わらない。お護りするには、何とも充分すぎる理由だろう。
ゆるく微笑み、静かに言った。
「——もちろんですとも。帰ったら、おいしいお茶をお淹れします。」
「——ココアがいい。甘いやつ。」
「承知しました。……では、参ります。」
ウェルダはひと回しした槍を正面に突き立てる。ぬかるんだ地面がブーツにぴちゃんと泥跳ねを作った。
カミナは濡れた髪を左右にかきわけると外套を整え、背負子の肩ひもを握りながらすぅっと腰を落とした。足元を固め、いつでも駆け出せる姿勢をとる。
「……灯れ・灯れ=《大灯火》——」
ウェルダの老いを感じさせない朗々とした詠唱とともに、柄頭から噴出した白炎が渦を巻き、人間の頭ほどの大きさをした光球をなす。
そのままゆるゆると回転しながら火の粉を散らし、目線ほどの高さに浮遊。火勢に巻かれた雨粒がしゅうしゅうと湯気を立てながら次々に蒸発していった。
顔前の火球に両手をかざし、重ねて唱ず。
既にカミナは視界の外だ。
「——熾れ・命火よ……炎色付加=《生の黄炎》!!」
三節の詠唱とともに手のひらから放たれた黄炎が大灯火の光を染めて燦然と輝く。騎士団が死者を誘き寄せ退治するための7つの大灯台——それらと同種の光を放つための魔術である。
[——!——ゥ……ルルゥ……]
[ァガ……ガガグァ………]
[————………———…———]
森がざわめき、あてどなく彷徨っていた死者たちが光に誘われ動き始める。
一匹、二匹、三匹と、次々に眼前に姿をあらわした。
弱き者、強き者。形あるものから彷徨える幽魂まで、死せるものを遍く引き寄せる生命の光。死者が求めてやまない光は、守るべき者の殿を務め、囮となるには最適だった。
すべての敵を引きつけたなら、後はただ槍を、魔術を揮い、ひとりの騎士としての使命を果たせばよい。
「——纏え・炎熱・灼熱よ==《溶鉄者》」
続々と集まる亡者を前に、ぴんと伸びた背。構えた槍先から、老人の胸中を写すかのごとき静かな——しかし恐るべき熱量を秘めた一筋の青炎が立ち上った。
降りしきる雨のなか、老執事の周囲だけが、雨もなく空気が乾いているかのごとき焦熱に支配されていた。
集まりつつある死者たちは、あたたかな光球の黄光に惹かれつつも、青炎の武威を恐れていた。老執事を半円状に取り巻くようにしながら、じりじりと距離を測っている。
「……さて、哀れなる者たちよ。お嬢様の後を追わせるわけにはいかんのだ。この儂が、残らず送り返してしんぜよう。」
それは《溶鉄》のウェルダの通り名で呼ばれた、歴戦の勇士の姿だった。