プロローグ:煤色猫と灰娘
「んぅぅ……おぉん……ほぉ……おぅぅ……」
悩ましき情事の喘ぎ声——にはお世辞にも聞こえない残念無念な呻き声。
かつては防塁だったという崩れかけた積石の陰、度重なる戦に踏み慣らされ乾いた泥土の上に、ひとりの少女が仰向けに転がっていた。
銀灰の髪。はだけた胸元。
乱れた夜着から突き出した肉の薄い肢体はぞくっとするほどに白く、あられもない姿を明るみ始めた空にさらす。
上る太陽。
聖なる光は大地を遍く包み込む。
死者を退け、生者に勝利を告げていく。
「——んもぉぅぅー……だめぇえ……」
陽光を受けるは巨大な島。人呼んで堰鼎都市フラガニール。
母なる大河の河口に浮かぶ、川と海——生と死を分かつための水門の島だ。
北を見れば白亜の岩峰が陽射しを浴びて美しく輝く。
山体に彫り抜かれた荘厳な岩城が複雑な影を落としていた。
城を起点とする高い城壁。
南に向かって7つの先端——それぞれに聖なる《灯台》が設けてある——を突き出しながら、川下に向かい閉じていく。
山を背にして海へと向かう、防衛のための形状だ。
「……ぁあんんむぅ……いやあぁん………」
岩山と石壁に包まれた都市からは東西に両翼のごとく壮麗な大橋が伸びている。
ふたつの橋は、水流を受け止める堰であり、見えないほど遠い両岸につながる唯一の行路となっていた。
30万の民を擁する都市は、大いなる壁と堰により死者から守られる。
しかし、30万の生命は、死者を惹きつけ討ち滅ぼす餌でもある。
この都市自体が、上流に広がる生者たちの領域を護るための防波堤としての責務を担っているのだ。
——《篝火関こうかかん》と呼ばれる人類の盾。
その威容が今、朝の光にその全貌を顕しつつあった。
「……んめえぇえ……だめぇぇ………たいよう……だめへえぇ………。」
そんな大いなる城塞の片隅で。
この世の恩恵たる陽光は、見目だけは美しい少女の顔を——大きな瞳を固く閉じ、ひとすじの涎を垂らした顔面を——絶え間なく無慈悲に炙りつつあるのだった。
「……おう……駄目なのは、おまえだな………」
枕は無いが枕元。ごうごうと鳴る水音に呑まれ、おれの囁きは儚く消えた。
川の水から海の水。この溢れる水に囲まれた街——堰鼎都市で生きるには、どこにいようと……屋敷で寝ようと、神殿、娼館、たとえ野原で寝ようとも、轟く水の音、そして這い寄る死者たちから無縁ではいられないのだ。
——そろそろ起きろ。わが主人。
俺は器用な先端を伸ばし、やわらかな彼女の耳元をこそりとくすぐる。
豊かな毛並みの尻尾に触れられ、小さく形のよい耳がぴくんと動く。
こそばゆさから逃れて「んうぅぅ」と身をよじり、彼女の灰眼が薄く開く。
心底嫌そうな瞳の色が、面倒そうにおれを睨んだ。
灰色の彼女に煤色の俺。
彩りを帯び始めた世界に取り残されたような物陰で、モノクロームの気だるい気配が漂っていた。
「……やめぇい……煤猫……駄猫……いじわるにゃんこ……。」
おれは猫。
今は、猫。
以前は犬だったのかもしれないし、いつかは虫や魚だったのかもしれない。
人間だったことは何度もあるし、カミ、アクマ、なにやらホトケなどと呼ばれていたこともあった気がする。
そして3日前までは、ただ一塊の石だった。随分長いことそうだった。
使命は確かに覚えている。
細かい記憶はほとんど無い。
記憶はないが、駄猫ではない。
どちらかといえば美猫ですらある。
黒に近いダークグレーの艶やかな長毛の毛並みと、羽刷毛のようなゴージャスな尻尾が自慢なのだ。
「……駄娘。起きろっ。」
「……ごはん……食べるの……めだまやきは……3つ……!」
「……おい。カミナ……。」
少女は名前をカミナといった。
都市を守護する《篝火の騎士》たち——その副長の一人娘であり、少なくとも飛沫のかかる戦場で寝起きしていい身分ではないはずだ。
目覚めた《力》の反動とはいえ、この寝相。
この態度。
この自由。
どれだけ甘やかされたらこうなるのか、育てた者の顔が見てみたいような、いや、見たくないような……。
ともかく、そんなカミナを起こす。
食べさせ、暮らさせ、見守り、ときには教え導きもする。
そうした一切合切を彼女との《契約》に含めてしまった愚かなおれ。
猫だけでなく、守護者で、保護者で、家政夫で。
挙げ句の果てに、この駄娘の唯一の友人にもなってしまっていたのである。
「……う……うぅーん……ちがうの……パンのバターは……無塩がいいの……」
(……火力は至高。その代償は……困ったもんだな。)
起きているのかもしれないが寝言を言うカミナを無視して、おれは広がる戦場——いや惨状に目をやった。
朽ちた壁面、あるいは石畳に焼き付けられた、人型の黒い影の数々。かすかに残る残火の熱。
黒々とした炭の柱は、昨夜までは年を経たイチョウかなにかの木だったものだ。
落雷ではない。あまりの高熱に芯まで炭と化したのだった。
そこかしこで煙と異臭をあげる石や肉。なにかの残骸。
大砲——ああ、この世界にはまだ無いか——で砲撃されたかのようにして抉られ盛り上がった地面が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
——いや、しかし。すばらしい。
この出力。この成果。多少のデメリットや苦労には、少しは目も瞑ろうともいうものだ。
ざっ、がっ、ざっ。
いくつかの硬い靴音が聞こえる。
[——なんだこりゃあ? 黒焦げじゃないか!]
[——ひでぇなこりゃあ……。まさか、噂の【女狩人】?]
[——気配がするぞ! 誰かいるのか!! いるなら出てこい!!]
遠間から人々——巡回の衛士たちの喧しい声が聞こえてきた。
おれもカミナも、見つかるわけにはいかなかった。
(致し方ない。かくなる上は。)
なにはともあれ、動かぬものは、動かすしかない。
猫たる我が身は、騒音と我慢が大の苦手なのだ。
朝の空気を吸い込んで、巡る魔力を尾に集める。ふさふさした端部の輪郭が揺らぎ、微細な煤の粒子と化す。
ふわりと宙へ撒き散らし、渦巻く半球を形成して二人を包むと、この身で使える唯一の転移術式を起動した。
「……どこに跳んでも、恨むなよ?」
「……うぅー? むにゃあ……ごはんは……まだかぁ……。」
——幻猫呪術==《気ままな跳躍》。
どこへ跳ぶかは気分次第の運次第。
魔の吹き荒れる球面に、無数の文字や記号が輝いては浮かび、粒子に還り砕けては消える。
明滅する鈍い光に崩れるように、一人と一匹——ふたりの身体はかき消えて。
幸運なことに、おれとカミナは。
人目につかず怪しまれない森の中。氷のように冷たい湖の上へと転移した。
**
抜けるような青空を映した湖面。
輝く飛沫を舞い散らせながら、カミナは揺蕩う水底に沈んでいった。
(————っ! つ、めっ……!!)
つめたい。寒い。痛い。死ぬ。
駄猫はひどい。ひどすぎる。
こんな思いは、いつぶりかしら。儀式に出かけて——3日ぶり?
なんだか意外と最近ね……?
こぽこぽと泡を吹きながら、湖水に沈むカミナは目を開ける。
冬の陽光を透かして冷たく静まった水面を、つい先日に出会ったばかりの相棒の——意地悪な化猫の影が、蛇のようにゆらゆらと岸へと動いていった。
自分が熱いも冷たいも感じないからって、まったくいい気なものだと思う。
ゆっくり湖面へ浮上しながら、少女は3日前から始まるあれこれを——人生を変えた出来事を、ぼんやりと思い返していく。
気づいてみれば、なんだか不思議と寒くはない。
きっと昨夜までの戦いの残り火が、身体を内から焦がすようにして燻っているからだった。