表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聴こえる…  作者: K1.M-Waki
3/3

聴こえる…(下)

 今日もいつものように出勤できた。

 途中、あの嫌な感覚が襲ってくるかと思うと気が気じゃなかったが、どうにか無事に会社の自転車置き場に滑り込むことに成功した。

「ふぅ」

 そんな安堵の声をあげると、オレは自転車に鍵をかけた。そのまま事務所のある建物に向かう。

 五階建てのビルの入口で守衛のおっさんに会釈をすると、いつものように玄関ロビーに進む。磨りガラスの自動ドアの側に組み付けられている小さなボックスに、ポケットから取り出した電子キーのカードを翳すと、<ピッ>という電子音のあと、ドアがスライドして開いた。

「お早うございます」

 入口を潜り抜けるオレに、事務の女の子が挨拶してきた。

「お早う」

 オレは素っ気なく答えると、片手を軽く持ち上げた。今年に配属されたばかりのメガネ美人は、オレみたいなヲタクにも分け隔てなく優しい。それだけで、少しばかり気分が良くなった気がした。

 一階の受付事務所で、面着をひっくり返すと、今度は廊下を少し進む。角を曲がったところがエレベーターホールだ。上向きの三角のボタンを押すと、数秒もせずに扉が左右に分かれた。中には誰も乗っていない。

 空のエレベータに乗り込むと、四階へのボタンを押す。

 扉が閉まったあと、静かなモーター音が聞こえた。しばらくして浮遊感がすると、目の前の扉が再び左右に開く。


(やっと着いたか)


 今朝の出掛けの事を考えると、一秒でも早く席に座りたかった。ごちゃごちゃしたデスクの間を抜けて、自分の席へ向かう。小さな手荷物を机の脇に引っ掛け、上着を椅子の背もたれに被せると、オレは崩れるように椅子に座り込んだ。


(ふぅ。やれやれだぜ)


「お早うございます」

「おう、お早う」

 朝の挨拶をくれた同僚に簡単に返事をすると、オレは目の前のノート型パソコンを開いて電源を入れた。

 システムが起動するまでの間に、小型のキーボード付き端末を取り出すと、今日の予定などを確認する。一通りのスケジュールを頭に刻むと、目の前にはログイン用のダイアログボックスが表示されていた。今度は会社の端末で、IDとパスワードを打ち込んで、ネットに接続を試みる。見慣れたデスクトップ画面が現れるまでの十数秒を使って、オレは上着のポケットに忍ばせてあったミルクティーのPETボトルを取り出して、机の上に置いた。甘ったるいそれをチビチビとやりながら、『本日の予定』や『未読メール』、『メッセージ』を確認する。


(いつも通りか。火急の用事は、……無いな)


 オレは、チェックした内容を基に、本日のスケジュールを刻み直した。そして、いつものように、サーバーシステムに入ると、仕事に取り掛かった。



(こんなモノか……)


 もうすぐお昼どきという頃、ようやく本日の仕事に目処がついた。自然と、手が傍らのPETボトルに伸びる。口をつけて初めて、ミルクティーがすっかり冷めきったことに気づく。

「ふぅ」

 溜息を吐いて重い腰を持ち上げると、オレは事務室の端っこに設えてある『お茶セット』に向かった。適当に紙コップを取り上げると、ポットから温かい緑茶を注ぐ。そして、ノロノロと来た道を通ってデスクに戻った。もうすぐ昼休みだったが、気にしない。

 オレは再びパソコンに向かうと、お茶をチビチビと舐めながら、画面を確認した。データの保存、バックアップ、ソース・コードのアップデート。全てが問題なく終了していた。

 そこまで確認して、オレはやっとこさ安堵すると、改めて午前中の仕事の再確認に入った。

 オレの仕事は、この部署──いや社内でも中核の部分に関わる。確認は何度してもいい。念には念を入れる。

 そんな事を思いながら、端末に流れるデータを眺めている時だった。


(ん?)


 画面の右下、その隅っこに、妙な文字列を認めてオレは訝しんだ。

「なんだぁ……こりゃ」

 思わずそんな言葉が口を衝いて出てしまった。

「何ですか?」

 近くの席の同僚が、気がついて声をかけてきた。

「い、いや。……何でも無い」

 そう言って答えると、彼は少し妙な顔をしたものの、再び自分の仕事に戻ってくれた。

 改めて、謎の文字列が浮かんでいる部分に目をやる。


──N3**210E13**29*G*T121**5


 ところどころ読み難い箇所があるが、オレにはそのように読み取れた。数字の列にアルファベットが混じっている。


(端末がバグった? それともシステムの方か。大事になる前に、調べて潰しておくか……)


 事が発覚して、正式に調査や対応が求められると、原因究明や再発防止策などに時間が()られてしまう。その上、書類を作ったりだとか、ハンコをもらったりだとか、打ち合わせをしたりだとか……。最悪、偉い人の前で報告会をさせられたりする。そんな面倒事に巻き込まれるのは、御免こうむる。オレの手の内でちょちょっと直せるものなら、それに越したことはない。

 オレは、コマンドターミナルを起動させると、キーボードに指を置いた。こっそりと管理者権限に格上げすると、各種の管理コマンドを打ち込んでは結果を確認し始めた。


──キーンコンカーンコーン


 昼休みのチャイムだ。午前中の仕事はここまで。事務室の中に、昼食としばしの自由な時間が訪れた。

 だが、当面の問題は解決してはいなかった。

 相変わらず、画面の隅っこには妙な文字列。怪しそうなシステムを洗いざらい調べたが、どこにも問題点は発見されず。いたって正常。勿論、自分の端末は特に念入りに調査したが、故障箇所らしきモノは見つからなかった。


(仕方がないな。昼休みの間に自己診断プログラムを走らせておくか……)


 オレは諦めて、端末を会社のネットから切り離すと、LANケーブルを引っこ抜いた。そのまま、ノーパソの機能を調査するコマンドを打ち込むと、おもむろに電源メニューから【再起動】を選んだ。

 ブィーンと冷却ファンの風切り音が一時的に大きくなった後、ディスプレイ画面が真っ暗になった。しばらくして、特徴的な電子音と共に再び大きな風切り音が響くと、ディスプレイが明滅して機械が目を覚ます。そうして、いつもとは異なる表示画面が現れ、カクカクしたフォントのアルファベットの文字列が、液晶画面に流れ出した。後は放っておく。午後の始業の頃には、結果が出ているだろう。

 オレは重い腰を上げると、再び『お茶セット』の場所に赴いた。

「珍しいですね、主任」

「……お、おう」

 少食なオレは、昼時は普通デスクに突っ伏して仮眠をする。この時間に、同僚と同じようにお茶を飲むことも滅多にない。ましてや、弁当などに群がったりなんてする筈がなかった。

 苦し紛れに、ちょっとだけ反応すると、適当に紙コップにティーバッグを突っ込んでお湯を注いだ。ヨロヨロと戻りながらも会釈だけをすると、彼は苦笑いを浮かべていた。オレは、自他ともに知られる筋金入りのパソコンヲタクだ。用もないのに積極的に関わろうとする者は少ない。


(ふぅ。ヤレヤレ)


 席に戻ったオレは、自己診断を続ける端末を眺めながら、未だ熱い紅茶をチビチビやっていた。


 しばらくボケーッと液晶画面を眺めていた時、こんな声が聞こえてきた。


「また事故だって」

「またぁ? 死亡事故かい。近いね」

「なんか、最近、多いよね」

「クワバラ、クワバラ。帰りは、気をつけよっと」

「だねぇ」


 他愛のない日常会話。そんな事をどこから聞きつけるのだろう。

 そんな思考を巡らせているうちに、パソコンの診断が終わったようだ。再びビープ音が鳴って、通常モードで起動する。

 念の為にLANケーブルは外したまま、スタンドアロンで立ち上げる。


(フムン。どこにも異常は無い……か。ダンプにも問題ないな)


 不審に思いながらも、今度はLANケーブルを差し込んで、再起動する。しばらく起動シーケンスが働いた後、ログイン用のダイアログボックスが開いた。

 オレは、慎重に成り行きを確認しながら、会社のシステムに再接続した。もう一度、一通りのシステムチェックをしてみたが、どこにも異常と思える様子は無かった。

 そして、思い出したように画面の隅っこを見つめてみたが、そこには『例の文字列』は見当たらなかった。


(思い過ごしだったのか? まあ、いいか、問題が無いなら)


 そうやって、オレは頭の中を仕事モードに切り替えると、たまっていた仕事を片付け始めた。



 その後、しばらくは、そんな妙な文字列には出くわさなかった。きっと、疲れていたんだろう。夢を見ることもなかったし。……だが、耳鳴りだけは相変わらず続いていた。

 そんな中、またもやパソコンのディスプレイに妙な文字列が見えるようになった。


──N3**272E13*8*9*G*T131*25


 今度はそう読めた。


(何なんだ、一体)


 前の時と同じように──いや、前よりも念入りにシステムチェックをする。何も問題は無い。変な文字が見えること以外は。

 仕方がないので、オレは今回もLANケーブルを引っこ抜いた。今度はとっておきのUSBメモリを取り出すと、ノーパソの横っ腹にぶっ刺す。オレ以外には分りようのないコマンド列を、大急ぎで打ち込むと、席を立った。今度こそ原因が分かるだろう。それまでは、いつも以上に昼休みを楽しもうじゃないか。



「何故だ……」

 午後の鐘の前には、システムチェックは終わっていた。問題は無い。ただし、得体の知れない文字列は、画面の隅っこに、相も変わらず鎮座していた。パソは現在、メンテ用の特殊モードになっている。それでも尚、余計な文字列が表示されるなんて有り得ない。オレは椅子に座るのも忘れて、デスクに両手を突いて、茫然自失していた。


「センパイ、どぉーしたんすか?」

 そんな時に声を掛けてきたのは、一昨年に入社したばかりの小僧だった。無能な社員の多い中、珍しく『出来る子』だったので、特別に目をかけてきたヤツだった。

「え? あ、ああ……」

 オレの方は、余りに信じられないことに、丁度いい返事が出来なかった。

「これって、メンテ用のOSっすよね。トラブルっすか」

 さすがだ。ヤツはすぐさま、オレのやっていたことを理解していた。

「ん? あーっと、ちょっとマシンの調子がな」

 オレは、声をひそめて、曖昧な返事をしていた。

「見せてもらってもいいっすか。……特におかしなところは無いようっすね。後は再起動っすね」

 これを聞いて、オレは耳を疑った。ついでに<キーン>という嫌な音も大きくなったような気がした。

「お前……、これの何処が、おかしくないって言うんだ」

「何処がって……、普通にメンテの結果でしょう。エラーもワーニングも出てないっすよ」


(コイツ、未だ気が付かないのか?)


 業を煮やしたオレは、液晶画面の隅っこを指差した。

「この変な文字列が、しょっちゅう出てきて消えないんだ。分からんのか」

 少し恫喝するような声になったのは、眠りの足りていない所為か、耳鳴りの所為なのか。

「変な文字列? ……って、何も無いっすよ」

「無い? 何も? ……見えて、いないのか?」

 オレは、思わず聞き返していた。

「そうっす。普通に真っ黒っすが。……センパイ、もしかして寝不足っすか。少しくらいなら、俺っちがやりますよ。しんどいようなら、早退したらどうっすか」

 コイツには、オレの持病なんかも教えていた。何かあった時の保険に、頼れる相棒が欲しかったからだ。

「う〜ん。そうかも……知れん」

 オレはそう言って、ドサリと倒れ込むように椅子に座り込んだ。背もたれに見を預けると、少しだけ楽になった気がする。


 そんな時、事務所の反対側から、高音域の声が聞こえてきた。

「えー、また事故なのお」

「そうなのよ、一人、死んだんだって」

「嫌な世の中ねぇ。あんた達も気をつけるのよ」


(死亡事故。また、世間話かい)


 彼女達の雑談に耳を奪われていたものの、気を取り直して画面に吐き出されたレポートをもう一度読む。

 何度見返したところで、問題なんかない。なんで、こんなヘンテコな文字列が……。そこで、オレは思わず息を飲んだ。


──文字列が消えている


 やはり、寝不足の所為かも知れんな。今日は、アイツの言う通り、早めに切り上げよう。そう考えて、オレはパソコンを通常モードで再起動させた。表れた表示画面には、もう『あの変な文字列』は見えなかった。

「ふぅ」

 と、溜息を吐いて、オレは午後の仕事に手を付けた。そんな時でも、頭の中には耳鳴りが響いていた。



 その後、こんな現象は何回も続いた。耳鳴りだけでなく、オレは幻覚までにも悩まされることになったわけだ。

「大丈夫っすか、センパイ」

 オレのことを心配して、ヤツが声を掛けてきた。

「ん? ああ……」

 生返事をするオレに、

「センパイ、俺っちに出来ることなら手伝いますよ。何かあったんすか」

 と、優しい声を掛けてくれた。メンタル的に追い詰められていたオレは、正直に話すことにした。

「……最近では、夢の所為なのかは分からんが、画面の隅っことかに、ヘンテコな文字列すら見えるようになったんだ。初めは、パソコンの画面の中だけのことだったんだが……。最近は……、何ていうか……普通のテレビ画面の中とか、広告を表示しているLEDパネルにまで映るようになった。無視しようとしたんだが、ついつい気になって見てしまう。耳鳴りだけでも鬱陶しいのに、このままじゃ、気が変になっちまう」

 頭がおかしくなったと思われても、構いやしない。心療内科にかかっているんだ、オレは。

「それって、所謂(いわゆる)、幻覚? ってヤツっすかね」

「……だと、思う」

 既に幻聴に悩まされているんだ。幻覚くらい見たって、仕方がないかも知れない。

「センパイ以外の人には見えないんだったら、そうっすよねぇ。……因みに、どんなのが見えるんすか? もしかして、法則性とかあります?」

 ヤツからは、意外な返事が返ってきた。

「そうか……、ええーっと」

 オレは、これまでに見覚えのある文字列を、メモ帳に書き出していた。

「フムン……。センパイ、これって……、位置情報じゃないっすか。Eはイースト。Nはノース、ってな感じで」

 言われてみれば、そんな気もしてきた。

「じゃぁ、最後の英字3つは何だよ」

 自分よりも先に、文字列のヒントに辿り着いたのが、オレは少しだけ気に喰わなかった。

「……ーんっと。……時刻?」

 フムン、時刻──時間ってことか。でも、だとしたら、夜中ばかりってことになるのか? やっぱり分からん。

「最後のが時刻だとしたら、時間帯がおかしくないか? オレなら、部屋で寝てるぞ。……いや、寝てる間のことなのかな? こりゃ、さっぱりだ」

 オレが、匙を投げようとした時、

「標準時? じゃないっすかね、これって」

「そうか、グリニッジ基準か。だとしたら、日本は9時間ほどの時差だから……、丁度、昼間の時間帯だな。……ナルホド。お前、頭良いな」

「いやぁ、それほどじゃ無いっすよぉ」

 滅多に人を褒めたことのないオレから褒められて、柄にもなくヤツは照れていた。

「正確な場所や時刻は曖昧っすが、概ね日本のこの近く。時間的にはお昼どきっすかね」

「お昼どきかぁ。最近、お昼どきに、何かあったかなぁ」

 オレが頭を捻っていると、背中の方から、こんな話し声が聞こえた。


「また、死亡事故だって」

「またですかぁ。最近、物騒ですね」

「何かの祟とか……」

「怖いこと、言うなよ」

「くわばら、くわばら……」


 ヤツにも、それは聞こえたのだろう。オレの顔をチラと見ると、

「まさか……、ねぇ」

 と言って、蒼い顔になっていた。

「だよなぁ……」



 その日、気分の優れなくなったオレは、結局、早引けをさせてもらった。オレは、トボトボと自転車を押しながら、文字列の事を考えていた。


(場所──東経と北緯。それから、グリニッジ標準時。ええーっと、今日の文字列(・・・)の通りだとしたら? 場所も時間も、この辺りかぁ)


 嫌な気分が半分、興味が半分。オレは、現地に行ってみることにした。

 人の死に目に遭うのは、はばかられたが、オレは、この文字列が本当にソレ(・・)を予言しているのかを確かめたかった。<ィ〜ン>という耳鳴りの音が鬱陶しい。オレは覚悟を決めると、自転車にまたがった。どうせ早退したんだ。部屋に戻ったって、煎餅布団に横になることくらいしか、やることが無い。


「この辺かな?」

 スマホのマップアプリで位置を確認しつつ、オレは自転車を降りると、周囲をキョロキョロと見渡していた。

 丁度、通りの向こうを婆さんが歩いているところだ。その背後から、原付バイクが走って来るのが見えた。乗っているのは初老の男性。しかも、ノーヘル。


(まさか!)


 オレは、婆さんの方に向かって左手をかざした姿勢で、固まっていた。二人の動きが、やけに遅く感じる。


(おいっ、婆さん。もっと早く歩けないのか! バイク、バイクの男、止まれっ)


 次の瞬間、惨事は起きていた。道端の電柱に、血と脳漿が撒き散る。嫌な感じのまま、オレと婆さんの目が合った。その瞳が語っていた。


──お前の所為で、バイクの男が死んじまったじゃねぇか


「違うっ、オレの所為じゃない!」


 声にならない言葉を吐き出したあと、オレは一目散にその場から走り去っていた。

 どこをどう走ったのか、部屋に帰るまでのことは覚えていない。

 手が震えて、扉の鍵穴にキーを差し込むことが難しい。

 無理くりドアを引き開けると、オレは部屋に飛び込んだ。引きっぱなしの煎餅布団。オレは、そこにまっしぐらに潜り込むと、掛布の下で頭を抱えていた。

 震えが止まらない。もしかして、地震でも起こってるんじゃないかとさえ思った。


 うるさい!

 こんな事なら、耳鳴りの解読なんて出来なくてよかった。

 うるさい、うるさいっ、うるさい! うるさいんだよ!

 聴こえる。鳴り止まない、耳鳴り……。



 次の日は、嘘のような日本晴れだった。もしかしたら、昨日の事故は、夢でも見ていたからかも知れない。そんな淡い期待をいだきながら、オレは自転車を走らせていた。


──ダルい


 どうしても眠りに落ちたくて、ハルシオンの7〜8粒を焼酎で胃に流し込んだ所為かも知れなかった。


「大丈夫っすか、センパイ」

 昨日の今日で、またヤツが話し掛けてきた。オレがシカトをしていると、

「もしかして、昨日の件……。当たってなかったっすよね」

「…………」

「センパイ?」

「……んなこと、あるわけ無いだろ」

 鬱陶しいので、つっけんどんな返事をしてしまった。

「で、ですよねぇ」

 ヤツは、苦笑いを返すと、そそくさと自分の席へと戻って行った。


(他に何て言えば良かったというんだ)


 背中からは、昨日の死亡事故の噂話が聞こえる。

「原付きで転んだんだって」

「婆さんを避けようとして」

「ノーヘルの頭が電柱に直撃だってさ」


──うるさい! 知ってるよ、そんなの!!


 何とか気を紛らわそうと、仕事に手を付ける。視界にはパシコンのディスプレイ。その隅っこに、またもや『例の文字列』。耳の奥では、<キィーン>という嫌な音が響いている。


(これ以上、オレにどうしろと言うんだ)


 夕方になっても、気分が晴れるでもなく、幻覚が消えるでもなく。耳鳴りに重なって、定時の鐘が聞こえた。

「センパイ、もう帰るんですか」

「定時で帰れるように仕事を済ませて、一人前だ」

「はぁ……」

 いつもは時間に関係なく仕事三昧のオレだったが、さすがにこれではやってられん。仕事をしようとすれば、不吉な文字列が目に入る。いくらオレでも、目を瞑ったままでは仕事にならん。いや、むしろこの状況で、終業時まで仕事をこなしたオレを褒めて欲しいくらいだ。

 このまま自宅に直帰したかったが、自転車の向きは、近くのバス停へと向かっていた。そこで何事かが有ったのだが、それは言うまい。その晩も、大量の眠剤と焼酎のお世話になってしまった。


 そして、そんな日々が、一週間ほど続いた。


「キミィ、最近、どうかしているよ。また少し、休みを取った方がいいんじゃないかい」

 目の下に隈を作ってゲッソリとしているオレを見下ろして、部長が声を掛けてきた。

「はぁ……」

「今キミに倒れられたら、大変なことになるんだよ。しばらく、静養してはどうかね」

「…………」


 部長の気持ちも分かる。代わりがいないオレのような特殊技能者は、死なない程度に末永くこき使わなくてはならない。オーバーホールも必要だ、と考えたのだろう。


「分りました……」

「今日はもういいから。明日、必ず病院へ行くんだよ」

 そう言う部長の顔からは、嘘偽りのない労りの表情が見て取れた。

「それでは……、お言葉に甘えて失礼させていただきます」

 自分でも驚くほどのか細い声だった。こりゃ、本格的にヤバイな。

 手順に従ってパソコンをシャットダウンさせる。その操作のどこに間違いがあったのか。今回は、はっきりとしたフォントで示されていた。周りの同僚が何かを言ってくれていたが、脳内に響く幻聴で、上手く聞き取れない。


──近い、すぐそこだ、しかも30分後


 オレは既に、北緯・東経の数字データから、地図上の位置を空で言えるようになっていた。時刻もだ。

 無駄だ、止められない、と頭で解っていても、現場に向かおうとする気持ちは御しがたかった。周囲に引きつった笑いと、適当な言葉を告げると、オレは職場を後にした。


 そして、20分ほど経った頃には、オレは道路脇のビル建設現場を眺めていた。

 見るからに、何かしら事故が起こりそうな場所だ。建材が降ってくるとか、足場が崩れるとか……。

 どうせ、明日からはしばらく休職なんだ。一回くらい、ヒーローっぽいことをさせてもらってもいいじゃないか。


(ヤバイ、時間が迫っている)


 オレがキョロキョロと辺りを見渡していると、道路の角を曲がって、買い物帰りの主婦らしい女性が現れた。あの人がそうなのか?

 反射的に上を見上げると、鉄骨をまとめたものをクレーンが引き上げている。しかも、それは突風に揺らいでいた。


──間違いない!


 オレは声をかけようとした。「危ない」と。オレは駆け出そうとしていた。彼女を救おうと。

 しかし、声が出ない。砂漠の旅行者のように、オレの喉は枯れ果てていた。足が動かない。極北の大地に凍りついたように。


──ちっきしょう! 動けぇ!!


 渾身の力を振り絞ると、


──動いた、間に合えぇー


 オレが自転車を放り出して走り出したのと、上空の鉄骨が崩れ落ちそうになったのは、ほぼ同時に思えた。

 目の前の女性を突き飛ばすように道路に伏せさせた瞬間、辺りに大音響が響き渡った。その大きさは、オレを悩ませ続けた『耳鳴り』を吹き消すほどだった。そうして、衝撃と共に嫌な音(・・・)から開放されたオレは、全ての感覚が失せていくのが分かった。


──そうか、『耳鳴り』と『文字列』が示していたのは、オレの最期だったんだ……






 暗い。真っ暗だな……。


 ここは……、あの世か?

 だが、最後に人助けらしいことが出来て、これで良かったのかも知れない。

 さすがに、あの世じゃ、『耳鳴り』に悩まされることも無いだろう。


 ……だが、なんだか身体が重い、ような気がする。それに、冷たい……ような気もする。

 死んだ後でも、感覚って有るんだぁ。

 いや、感覚っていうか、痺れてるっ、て感じだな。


 灯り?


 暗闇に仄暗い部分がある。何だ? 視界が、開ける。目が、開いた?

 景色が妙だ。そうか、死後の世界だからか。でも、90度くらい、ひっくり返っているぞ。

 それに……頬を濡らすような感覚。何だ? 濡れている? 冷たい?


 目がハッキリしてきた。視力は、少しばかり戻ったが、相変わらず身体は麻痺している? ような感じ。

 ここは……、オレは……? もしかして、生きてる? 鉄骨の下敷きになっても、生命(いのち)があるなんて、運が良い。

 だが、ほっぺのベタベタ感。何だ? これは、……血?! オレのか?


 いや、これは。

 いや、そんな筈はない。

 嘘だ、嘘だと言ってくれ。


 なぁ、オバさん。そんな目で見ないでくれよ。何が言いたい? 間に合わなかったオレを恨んでるのか。

 だろうな。だが、もう少し分かりやすい方法にしてくれよ。音響解析は、脳を酷使するんだ。<ーィン>ってのじゃなくてなぁ。


 うるさい!

  うるさい、うるさいうるさい、うるさいんだよ!


 謝るから。オレが悪かったから。

 だから、その<キィーン>ってのだけは、止めてくれよ。

 お願いだよ。


 耳鳴りだ、ずっと聴こえてた。

    鳴り止まない。ずっと、聴こえる…………




     (了)




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ