聴こえる…(上)
オレは、2つの難題を抱えていた。
一つは「耳鳴り」。物心がついた頃から聴こえるそれは、オレの心から休まる時間を奪っていた。
二つ目は「不眠症」。オレは、薬がなくては眠ることができない。長時間眠れないと、幻覚や幻聴が襲ってくる。それ以上に、皮膚感覚が鋭敏になり、人間らしい生活をするのにも一苦労だった。
仕事を続けながら、耳鳴りに耐える日々を送るオレは、常に疲弊していた。
──耳鳴りがする
いつの頃からだろう? 俺の最初の記憶の中でも、既に耳鳴りが響いていた。
物心ついた時以来、俺の耳には四六時中<キーン>と云う音が鳴っている。現在進行系で。
意識のある間は、その音は途切れることが無かった。きっと、眠っている時にも聞こえているんだろう。
──眠る?
そうか……。正確には『意識を失っている』って言わなくっちゃな。
俺は、所謂、『不眠症』ってヤツを患っている。何て言うんだったかな? 睡眠導入剤? ってのを身体ん中に投入してやらんことには、意識のスウィッチをオフに出来ない体質らしい。
そんでもって、眠れん状態が続くとなぁー、幻覚ってのに襲われるんだ。
幻感覚ってぇのはなぁ、
肌がピリピリと熱くて痛くて、
ある筈のない異臭が鼻腔を刺激したり、
そこいらに薄ぼんやりとした光る物体が飛んでいるのが見えたり、
舌が痺れて吐き気がするは、頭痛がするは、
そいから身体中が<ガタガタ><ブルブル>と震えるんだよ、
そんでもって、お約束の幻聴・耳鳴りが大音響で聴こえるんだぜ。30時間くらい寝ないでいるとだな。
なまじ理系の大学を出ていると、匂いとか味とかで化合物の正体に薄々勘付いてしまう。これが悩みのタネだ。『こいつって有毒っぽいよな』ってことなんか判んなくっていいよ。地味に気が滅入るから。
何で味とかも知ってるかって? 誤飲したんだよ、実験で。内緒だぞ。もう時効だろうか。良い子は真似したら駄目だからな。六価クロムとか、ジエチルアミンとか、身体に悪そうだろう。特に、後者は超臭い。息を止めてても無駄だ。揮発性の高い極性液体は大概が水溶性だ。鼻腔の水分──粘膜とかに染み込んだら、しばらくは悲惨な状態が続く。
それでも、<キーン>って鳴ってるのを、一時的に忘れさせてくれる点だけは、誉めてやろう。でも、止めとけよ。寿命が減るから。今すぐにでも、削り取られるから。
「これ、何かの病気なんでしょうか?」
医者に訊いたよ。もちろん、精神科──じゃなくって心療内科ってとこの医師様に。二十年くらい内科で診てもらってたんだが、全然原因が分からなくってな。最後には、とうとう匙を投げられたんだよ。
「あー、これは典型的な鬱病ですね。お薬、出しときますね」
この台詞も、どうやら『お約束』ってのらしい。
最初にもらったのは、デペスだかデパスだか云う薬で、全く効かんかったな。
子供の頃からかも知れないが、俺の身体の耐薬品性は異様に高かった。風邪をひくことはあっても、薬や毒劇物への耐久力は、普通の人以上にあったようだ。アセトンとか、塩酸とか、水酸化ナトリウム水溶液とかを、平気で素手で扱っていても、お肌サラサラだったよ。
そう言う訳で、貰った『お薬』は普通に役に立たない。しょうがないので、真夜中に近くのコンビニまで自転車で走ってったよ。
何しにって? 決まってんだろ、ワンカップを買うためさ。ポン酒じゃねぇよ。焼酎の方。25度だよ。即ち、1/4がアルコールで、残りの3/4が水だな。つまり、主成分はH₂Oだね。何の問題もない。
その『水に少しばかり混じり物が入ってるヤツ』を買って帰って、寝間着に着替えたら、布団に潜り込む。
そして、ワンカップの焼酎を開封したら、一気に飲み干すのだ。
これ、重要な。
ちびちびなんてしてたら、朝までに気絶出来ないだろう。
で、しばらく横になって後、気がついたらメデタク朝陽を拝めるってぇすんぽうさぁ。
「効かない? そーですかー。お薬、変えましょうか」
次にもらったのって、何だったかな?
ソイツも、全然使えねー。しようがないんで、焼酎求めてコンビニへゴー。
次の日、仕事があるんだよ。俺のやってる仕事は、その辺のオッサンがパソコン打つレベルのもんじゃねーんだ。職場には、俺以外に出来る奴が居ない。俺が抜けたら会社が傾きかねないのだ。ちょっかいをかけてくる幻覚と一緒に仕事が出来るかよ。
でも<キーン>てのだけは、どうしても治まらない。もう長い付き合いだ。気にしてはいけない。
「え? あれもダメでしたか……。じゃぁ、ハルシオン、出しときますね。寝る前に、1錠だけですよ」
そう言われてもらったのが、薄青っぽい苦味のあるちっぽけな錠剤。これが噂に聞く現代の最終兵器か。
今度こそと願いを込めて、不味い水道水と共に飲み込む。そして気が付いた。水道局の野郎、カルキ増やしたな。今年は旱が続いたからか? 普通の人間だったら気が付かないレベルなんだが、俺は充分すぎるほどにカルキを味わうことが出来た。変な味なのは、薬だけで充分だ。チキショウめ。
待て待て、ここで文句を垂れていても仕方がない。
ちょうど、『深く眠れてハッピーになれる』とい云う音源が『ゆーちゅーぶ』ってので見つかった。念の為にDLして聞いてみた。それが、なんとはなく良い音楽のような自然音のような……。如何にも眠れるって感じの音声だった。
(もしかして、眠れるかも)
俺は、ケータイにイヤホンのプラグを繋ぐと、反対側で耳を塞いだ。そして、期待を込めて心を落ち着ける。相変わらず、バックで耳鳴りが<キーン>と鳴ってるが、気にしてはいけない。妙なことは考えないようにして、心静かに音楽を聞く。いや聴く。
と、一時間くらいしたら、眠れる音楽ってのが終わったらしい。
(仕方がない。もいっかい、再生するかぁ)
心を落ち着ける。バックで<キーン>と鳴ってるが、気にしてはいけない。妙なことは考えないようにして、心静かに音楽を聴く。
そして一時間くらいしたら、眠れる音楽ってのが終わったらしい。
(あっ、終わっちった。しゃーないなー。もっかい再生)
そして心を落ち着ける。やっぱり<キーン>と耳鳴りが鳴ってるが、気にしてはいけない。妙なことは考えないようにして、心静かに音楽を聴く。
そして一時間くらいしたら、眠れる音楽ってのが終わる。
このループを5〜6回くらい続けると、不思議なことに朝が来るんだな。
仕方がないから、野菜ジュースで胃を満たしてから会社に出かける。
──使えねー、ハルシオン!
「そーですかー。仕方ありませんね。お薬、2錠にしましょう。それ以上はダメですよ。決まりごとで、これ以上は出せないんです」
アルミパックに包まれた青い錠剤が二つになった。法的な事はどうでもいい。ただ眠りたかった。<キーン>てのが、地味に五月蝿い。
(今度こそ眠れますように……)
願いを込めて、苦いのを二つ放り込んで、不味い水道水で胃に流し込む。念の為に、眠れる音楽も流そう。それでも耳鳴りが響いているが、これを気にしていたら負けだ。
そして、一時間ほどして件の眠れる音楽が終わった。
俺は、寝床からすっくと立ち上がると、手早く服を着替えた。自転車に乗ったら、真夜中の道をコンビニへゴー。
めでたく25度の焼酎を手にして凱旋した俺は、大して美味くもない水と醸造用アルコールの混合物をイッキに呑み干す。
気が付くと、生暖かい朝の陽の光が俺を包んでいた。それでも、耳鳴りだけは<キーン>と鳴っている。これを気にしては負けだ。今日も仕事がある。負ける訳にはいかない。
「そ、そうですか……。困りましたねぇ。……お薬、増やしましょう」
処方箋の汚い字に、医薬品の名前がつらつらと追加されている。何だ? 名前だけ見てもよく分からんな。化合物名はIUPACに則てだなぁ……。まぁ、いい。Webで調べる気にもならない。
世の中、知らない方が幸せな事って、たくさんあるよね。
例えば、目薬とかシャンプーとか。ジンクピリチオン酸ナントカって書いてある。ジンクって、ああ、Zn──亜鉛かぁ。ピリジンって、生命を削ってきそうに臭い化合物だったよなぁ。その化合物とかを眼球に垂らすの? いや、考えるのは辞めよう。どうせ、今も<キーン>て鳴ってるんだ。
そうやって白い紙を眺めていたら、<キーン>てのが気になってきた。いったい、何をだなぁ……。まぁ、いい。この耳鳴りと正面切って戦っても、勝ち目なんてないのだ。
眠っていれば──意識がなければ、気にはならない。
受付で診療費を払ったら、薬局へ行って『処方箋』の紙と『お薬手帳』ってのを差し出す。
「肝臓のお薬も出てますね。調子、どーですかぁ」
そうだよ! 毎晩、焼酎で呑んだくれていたら、こうなるわな。近所の内科医は、血液中の尿酸が多すぎると、毎月の苦言を絶やしたことが無い。
それでも、
{眠り}≧{焼酎}>>>>>{肝臓}
の不等式が成り立ってたんだよ。
人生が多少短くなっても、耳鳴りが消えるなら、その方が幸せかも知れないな。だが、意識があるうちは、聴こえるんだ。気にしたら『負け』だ。
「お大事にして下さい」
そう言われて、白い小さなレジ袋の中身と引き換えに、代金を払う。健保っていいよな。企業様に務めてて良かった。
そして今夜も、眠くなるって云われている何種類もの『お薬』を、不味い水道水で流し込む。あっと、『肝臓のお薬』も忘れてはいけない。一緒に飲んでおこう。
そして一時間後、俺はコンビニのレジの前に立っていた。
──全然効かねーよ!
今夜も、コレのお世話になるのか……。不眠症が寿命を削り取るよりも前に、肝臓の病気で生命を落とす方が先かも知れないな。そんな思いが、<キーン>という音をバックにして脳裏に浮かんだ。
──駄目だ、気にするな
気怠い朝がやってきたら、いつもの如くトマジューの缶を一気飲みして、会社に出掛ける。
そうやって耳鳴りと戦いながら仕事を続けていた時、俺は妙なアプリを見つけた。
ハーモニックオシレータ? 平たく言えば、周波数を入力すると対応した正弦波=音をスピーカーから発生させるプログラムだな。何に使うのかは知らないが、ネットの世界には何でもあるな。楽器なんかのチューニングにでも使うものかも知れない。
ご丁寧なことに、ソイツはPC用だけでなく、スマホ用もあった。俺は取り敢えず両方ともダウンロードしてみた。
──何に使おうか?
耳鳴り様の正体を突き止められるかも知れない。と大袈裟に言うほどのものでもないんだが……。単に、今、俺の脳裏に聞こえてる<キーン>て音は、どのくらいの周波数かを測定してみたくなっただけだ。
『<キーン>て耳鳴りがするんです』
と言うよりも、
『何キロヘルツくらいの音が聞こえるんです』
の方が、具体的だろう。医者にも理解しやすいだろうよ。なっ。
そんな俺の他愛の無い考えが、後に世にも奇妙なことを巻き起こすとは、この時には全く考えも及ばなかった。