02
「俺んち、昼間喫茶店で、夜からはお酒を出す店やっていたから、物心ついてから、家族でご飯食べたことないんだ。お袋も忙しくしてたから、学校のことも、友達のことも、何でも放任主義だったし、興味もなかったんだろうなあ、俺のこと」
「夕方、真っ暗になるまで、近所の友達引き留めて遊んでた。だってさ、家に帰っても誰もいないんだぜ。さびしいって、口には出さなかったけど、最後の一人が、お袋さんに怒られながら帰っていくのでさえ、うらやましかったっけ。」
「それが、ある日、家に帰ったら、親父が一升瓶抱えて、飲んだくれてた。」
「お袋、店に来ていた年下の男とできてて、駆け落ちしてたのさ。親父、荒れちゃってさ。何とかしなきゃって思ったけど、どうにもなんないね。子どもなんか、何の力にもならないよ。だまって、飲んでる親父が眠ってしまうまで、そばに座っているだけだったな。」
「その後、そんな親父も、病気になって死んじまった。10歳の俺は、爺さんちに引き取られることになった。引き取られてからは、婆さんに、お袋のこと散々に言われた。ひどい母親だったけど、他のやつに言われるのはきついね。」
-子供時代の辛い話は、反則だ!―
愛美は、父にも、祖母にも、大事にされて生きてきた。それでも、母を早く亡くして寂しい思いをしたから、敦の話に、どれだけつらかったかと、胸が熱くなった。子供時代の話を聞いて、危険信号が鳴っているにもかかわらず、抱きしめてやりたくなった。
そして、どっぷりと敦に、はまっていった。母性本能ってやつは始末が悪い。愛美は、どんどん、深みにはまって、ご飯を敦の分作るくらいなら良いか。どうせ作るんだからと気を許しているうちに、敦はそのまま、居ついてしまった。そして、ずるずると、身体まで、そのまま許してしまっていた。
敦は、ベッドの中で、
「なあ、愛美、俺のこと好きだろ?」
「好きだと言えよ」
「俺は、愛美が好きだよ」
そう言われても、信じることはできない。ただのピロートークだ。ずっと、とっかえひっかえ状態だったことを知っている愛美は、心の中で否定していた。ぜったい、好きとは言えない。ここで、言ったら負けるような気がする。
認めてしまったら、飽きて他の女の所へ行ってしまう時に、
「私も、遊びだったのよ」
と、うそぶくこともできない。その時の傷の深さを思うと、「好き」と認めることは、ぜったい出来なかった。
そんな関係も半年続いていた。愛美は、毎日、不安でたまらない。残業をやって急いで帰って店の明かりが消えていると不安になって、かなり焦って玄関のドアの鍵を開ける。敦が居ない………
―ああ、誰かの所へ行っちゃったんだ―
震える足でやっと靴を脱いで、呆然とソファーに座っていると、
「何やってんの。真っ暗じゃないか。帰ってないと思ったよ」
渋い顔をして、灯りをつける。それでも、すぐに機嫌を直して聞いてくる。
「ほら、これ焼いてたべよう」
スーパーで買ってきたと言う、サンマを袋から取り出す。
「大根あったよなー?」
と、言いながら冷蔵庫を開けている。ほっと、胸をなでおろしているけど、
―実際、何時か本当にいなくなるんだ―
もう一度、自分に言い聞かせていた。
―そう、もうこんな生活、終わらせないとー
それからひと月ほどたって、転勤の打診があった。普通だったら、喜ぶところだ。
「まあ、関東の人間が、関西支社に行くんだから、色々となじめないこともあるだろうけど、これもスキルアップだと思って、一年頑張ってみないか?」
と、言うものだ。悪い話ではない。当然、愛美のような、独身のまま定年まで頑張ろうと思っている人間なら、一も二もなく、受けておくべきだった。
それに即答できないのは、敦に未練があると言うことで、なし崩しに後回しにしていたツケが、こんな大きな形で、頭を悩ませることになったと言うことだ。
あまり嬉しそうにしない愛美に、上司は、
「取り合えず転勤先の様子を見て来い。」
と、明日からの大阪への出張を告げられた。
そのことを考えながら帰ってくると、カフェで、敦が、客の女とにこやかに話している。こんなことで、ズキリと胸が痛くなる。
―いつものことよ。そう、何時ものことー
エレベーターに乗るころには、今日は、何があったっけ。ありあわせで鍋にしようと、無理やりに気分を変えている愛美がいた。
「愛美、何のたれにする?」
と、敦が呼んでいる。
「今日は、あっさり目の具材だから、ゴマダレにしようよ」
「よっし、食べるぞー!」
敦は、となりで鼻歌を歌いながら、食べている。
「今日は、ご機嫌なのね。」
「あー、ご機嫌だよ。愛美がいる。一緒にご飯が食べられる。そして、その後は、Hもな」
ため息しか出ない。確かに、敦にとって都合の良い女をやっている。それが、分かっていても、愛美は出て行くと言われることが怖くて何も言えないでいた。
「本当は、なんでご機嫌なの?」
愛美は、敦には聞こえないような、小さな声でつぶやいた。
今日は、ご機嫌だと言った通り、コーヒーを淹れてくれた。最近、彼が見知らぬ女と話しているのを見るのが嫌で、カフェには行かないから、こうやって敦のコーヒーを飲むのは、久しぶりだった。
豆をひいている時の香りが極上だ。目をつぶって大きく深呼吸をした。お湯を沸かしたドリップケトルで、ペーパーフィルターの豆に、ゆっくりとお湯をしみこませる。そうすると、また豊かな香りが漂ってきた。そうして、また、少しづつゆっくりとお湯を足していく。じっと、その作業を見ていると、にっこり笑って、カップを愛美の前に置いた。
それだけで、愛美は転勤なんてしたくないと、心が揺れた。でも、これからも敦が一緒に居てくれる保証はないから、本当は、これをきっかけに別れたい。愛美は、大きく息を吸って、明日からの出張を、震える声できりだした。
「ねえ、明日から1週間、大阪に出張なんだ」
「えっ、聞いてねえよ」
「だから、今、言ってるでしょ」
「わかった。まあ、俺のことは大丈夫、何とかするよ」
-そうよね。ごはん、作ってくれる人なんか、いくらでもいるよね-
心でつぶやいた。
「帰ってきたら、これ以上のコーヒーはない!って、敦が思うコーヒーを飲ませてくれないかしら」
-もし、淹れてくれたら、それを最高の思い出として、敦から離れようー
―転勤は、きっと良いきっかけになるー
自分を励まして、笑顔を作った。
「あー、分かった! 愛美が飲んだことないようなブレンドで、淹れてやるよ。」
敦は、愛美が初めて甘えてくれたことがうれしくて、愛おしそうに愛美を見つめていた。
思わずこぼれそうになった涙をこらえ、コーヒーを飲むふりをして下を向いた愛美には、愛おしそうに愛美を見ている敦に気付くことは出来なかった。
その1週間は、愛美にとって地獄だった。