01
恋の相手が、女にだらしのないやつだったら、
「好き」だなんて、言えない。
言ってしまった後、捨てられたら......
愛美は、仕事が好きだった。大学を卒業してやりたい仕事につけて、仕事の面白さにのめりこんで、2年前気づけば、30歳になっていた。若い頃の自分の予定では、結婚して子供もいるはずだったのに、縁が無いとはこういう事を言うのか、まったく出会いのないまま、30歳を迎え、益々結婚が遠のいていると実感していた。
「もう、夢を見ている場合じゃない!」
そうして、1年前に、このマンションに引っ越してきた。結婚の予定のないまま30歳を過ぎてしまった愛美が、終の棲家を作っておかなければ!の焦燥感一杯の中、探した中古マンションだ。たかが、30歳の女が買えるマンションだ。広さを取るか?交通の便を取るか?と悩んで、定年まで通うことを考慮して、体力温存を優先させた為、ワンルームに毛が生えた程度だが、結構気に入ったマンションだった。
通勤時間が短いので、残業のない日は、ゆったりと夜の時間が使えた。食材や日用品は週末にまとめ買いすることにして、このマンションの1階に有るカフェでコーヒーを注文して、好きな本を読んでいた。至福の時間だった。あることに気付くまでは。
このカフェのマスター、敦が入れるコーヒーは、とても美味しいのだが、彼のいけ好かなさが、最近、少々鼻についていた。敦は、カウンターに座る女に、誰かれなく声をかけて、百発百中でお持ち帰りしているのだ。
えっ?何で知ってるかって?
敦は、愛美の部屋の隣に住んでいるのだ!
だから、愛美が通勤の為家を出る頃、隣のドアから、昨日、店で声をかけていた女が、
「じゃあね。」
と、出てきて、顔を合わせることになる。そして、二度と、同じ相手はいないような気がする。今のところ。最低の男だ、まったく!
でも、取り合えず、誰を連れ込もうが預かり知らぬことなのだから、コーヒー好きの自分の為には、見て見ぬふりをすることが一番と、愛美は、自分を無理やり納得させていた。
それが敦と、ひょんなことで、お隣さんとして付き合うようになってしまった。それは、愛美の悲鳴とバタバタと走り回る音がベランダから響いて、心配した敦がドアホンを鳴らしてくれたことがきっかけだった。その時、愛美は、部屋の中で発見したゴキブリを、必死で追いかけまわしているところだったのだ。それを難なくゴキブリを退治してくれた。仮面ライダー? はたまた、スーパーマン! 夜中のゴキブリの徘徊を想像すると、身の毛もよだつ恐怖を感じていた愛美には、この際、最低男であっても、この世の救世主に見えた。
ふうっと、安心感で脱力してソファーにへたり込んでいると、洗面所で手を洗った敦が、鼻をクンクンとさせて、
「うまそうな、匂いだな。」
と、言った。愛美はあとで後悔したが、その時、救世主に見えた彼に、うっかりと、
「お礼と言ったらなんですが、夕ご飯、食べますか?」
と、言ってしまったのだ。
おばあちゃん子だった愛美の作る物は、当然和食が多い。テーブルに並べた小鉢や皿の中の物を物珍しそうに見ていたが、敦は、あっという間に、美味しそうに平らげた。
「ご飯、おかわりは?」
「おかずは、まだ、残ってるから心配しないで食べて。」
愛美も、久しぶりの一人じゃない食卓に、はしゃいでいたように思う。
「これ、何?」
「それは、切り干し大根を、炒め煮にしたの。」
「へー! じゃあ、これは?」
「それは、シラタキを細かく切って、炒めて水分飛ばしてから牛ひき肉と甘辛く煮たもの。仕事しながらの料理だから、作り置きできるものが多いのよね。」
「うまいよ。食べたこと無いけど、なんか、懐かしい感じがする。」
「そうかもね。みんな、おばあちゃんに教えてもらったものだから。」
その時には、好きになっていたんだと思う。ちがう、カフェでコーヒーを始めて飲んだ時から、気にしていたのだから、始めからと言ったほうが正しいと今なら言える。でも、その時は、いくら楽しそうに美味しそうにご飯を食べたからと言って、最低男には変わらないと、愛美は自分に言い聞かせていたはずだった。
それが、ある日、仕事でミスをして落ち込んで
-今日は、晩御飯作る気分じゃいなあ-
と、とぼとぼと駅から歩いているところに、敦と出くわした。
「めずらしいね。いつも元気な愛美ちゃんが! どう、この間のご飯のお礼に、食事でも?」
―うん? なれなれしい。いつから名前呼びよ! お礼?って、あれはゴキブリ退治のお礼でしょ-
突っ込みどころ満載の不埒な誘いは、当然断るはずの所、何故かふらふらっとついて行ってしまった。
-誰でも良い。一人でいたくない。-
ご飯が、お酒に変わって、愛美も嫌いじゃないから、落ち込んでいたことを忘れたいと、したたかに飲んで、敦に愚痴を聞いてもらってた。
-なんと、敦の聞き上手!-
-これが、お待ち帰り100%のテクニック?-
警戒していたはずなのに、酔っ払って、お持ち帰りされた。それも、自分の部屋に!だ。
-驚いた!
-自分に、あきれた(泣)-
-怒ることもできやしない-
―子どもじゃあるまいし!-
―最低なのは、私!-
後悔で頭の中は一杯。
―でも、顔に出しちゃダメ-
―敦にとっては、日常的なことなんだから-
愛美は、何でもなかったことにするべく、定年までの健康管理、そして今日の仕事の段取りを考えながらの何時ものルーティン!を始めることにした。
敦を起さないように、そおーっと、ベッドを離れ、朝食の準備を始める。お米を研いで、炊飯器に仕掛ける。今日は、早炊きに設定してスイッチを入れた。ご飯が炊けるまでに、みそ汁のだしを丁寧にとって、みそ汁の具をジャガイモとわかめにした。
冷蔵庫に入れてあるぬか床のタッパーをあけて、昨日入れておいたカブとナスを取り出し、そこへ明日の為のキュウリとニンジンを入れておいた。
「うん、これで、明日もきっとご飯が美味しい!」
そうこうしているうちにご飯が炊けた。急いでだし巻き卵を焼く。愛美は甘い卵焼きが好きだ。
一人だとついつい手を抜いてしまいがちな朝ごはんだけど、ずっと、一人で生きて行くしかないと決めたときから、健康のためにちゃんと食事は作っていた。
少し迷ったが、テーブルに、敦の分の茶碗とみそ汁のお椀、卵焼き、糠漬け、作り置きのアサリの佃煮も並べていると、のっそりと起きてきて、何でもないことのように、卵焼きをつまみ食いしようとするので、
「だめ! ちゃんと顔ぐらい洗ってきてよ!」
と、言うと、
「へい、へい。」
と、案外素直に、洗面所へ行って戻ってきた。さっきは、あんなに強く言えたけど、これ以上は、言葉を交わせない。
気まずいまま、二人とも黙々とご飯を食べだした。しばらくすると、
「うまいなあ、おまえのご飯はうまい! おかわり、ある?」
と、お茶碗を目の前に突き出してくる。黙って受け取って、ご飯をてんこ盛りよそってやると、彼はうれしそうに受け取って、糠漬けのカブをご飯と一緒に頬張って、
「おれ、お袋の味って知らないんだよな」
ポツリと言った。