雨が降る日の「山月記」
昨日の夜から降り続いていた雨のせいで、今朝の教室の空気は湿って重苦しい。
ここは私が通う高校の二年一組の教室で、今はクラス担任の宮坂先生による現代国語の授業中。
だからちゃんと顔を上げて、教科書と黒板を見てるフリをしながら、心の中に棲みついているモヤモヤに思いを巡らせる。
私の席から見える時任紫雨の背中が、なぜか今日はよそよそしい気がする。
でも、背中がよそよそしい、なんてことあるかな。
ただ私がそんな風に感じている、それだけなんだよね。
紫雨には聞けないことが、急に心の中に現れてしまったから、それでそう感じるのかもしれない。
右斜め三つ前の席で左手にシャーペンを持ち右腕で頬杖をつく紫雨の横顔と、白いシャツの背中をそれとなく眺める。
この前の日曜日にあったこと、紫雨は知ってるのかな。
知らないでいてくれたらいいのにな。
でも、兄弟ってどうなんだろう。
そういうことってすぐに話したりするのかな。
私からは聞けないし、言えない。
「ねえ紫雨、聞いてよ。私、あの日曜に優雨から告白された」なんて。
そう、優雨に。
時任優雨は紫雨の双子の兄で二年七組にいる。
時任兄弟と私は、家が隣同士のうえに同じ高校に通っている。
この距離感で、この状況はちょっとどころか、かなり重苦しい。
今日はいつも以上に、いや、これまでで一番と言っていいくらいに紫雨をすごく意識してる。
それは誰にも秘密だし、そして今は絶対に知られたくない。
紫雨にも、優雨にも。
でもこれ以上隠しておけそうにない。
きっと、はっきりさせるしかないんだよね。
そうしたら幼馴染の関係は変わってしまうんだろうなあ。
そうだとしても。
「……亜美さん。皆川亜美さん、次の部分から読んで下さい」
「あ、はい」
しまった。
宮坂先生に心ここに在らずの状態を見抜かれてしまったのかな。
出席番号順だと、今日は指名はされないはずだったから。
前の席の紫雨が一瞬ちらっと目線を送ってきた。
ほら、しっかりしなきゃ!
私は立ち上がると、頬の熱さを気にしながら教科書を手にとった。
今頬に宿った熱は紫雨と目が合ったせいじゃなくて、思いがけず指名されたせいなんだから。
授業は中島敦の「山月記」をやっているところだ。
普段使わない言葉ばかりの難しい文章を私は慎重に音読した。
『今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えてしまうだろう。
ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。
そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだろう。……』