中の人
制服の右側のポケットに入れているスマホが震えた。
きっとLINEだ、紫雨かも。
けど優雨に右手を掴まれているせいで取り出せない。
紫雨と話したい。
ここに来て一緒に優雨を説得して欲しい。
すぐにまたバイブ音がして、今度はしばらく鳴り続けた。
それは優雨のスマホだったけど彼は無視している。
私はなんとか優雨を説得しようとした。
「優雨、信じたくないけど、でも信じる。だからもう一緒に帰ろう。紫雨と、おじさんにはちゃんと話してよ。警察に話さなきゃ……」
「嫌だ」
私の言葉を遮るように低くはっきりと優雨が言って、彼に掴まれていた右手が急に自由になった。
と思ったら、今度は優雨の両手が私の首を締め付けた。
「紫雨にバレなければもっと殺せた。でももう無理だ。亜美、ここで俺も死ぬから」
「ゆ、う……」
声が出ない!
息が苦しい!
頭に血が逆流して心臓まで上に登ってきたみたい、だれか助けて!
喉を締める優雨の手を引き離したくて夢中で掻きむしったけど、無理だった。
頭がガンガンして、遠くスマホのバイブ音が鳴り続けて振動を感じる。
私に電話がきてる。
きっと、きっと紫雨だ!
お願い見つけて紫雨、この場所で死にたくないよ!
今日は紫雨と帰るはずだったのに。
優雨が私にこんなことするなんて、どうして?
振りほどきたいのに優雨に逆らえない。
もう体に力が入らなくなって私は地面に倒れこんだ。
耳鳴りがして朦朧となる私の視界には、きつく眉を寄せた優雨の顔がぼんやりとある。
優雨と紫雨……似てるけど違う。
紫雨の顔はもう見れないの?
お母さん、お父さん怖い……助けて。
苦しくて力が入らない!
目の前が暗くなり、耳鳴りの向こうで優雨の低い声がした。
「亜美苦しいの?涙出てる。でも亜美の泣き顔は俺のだから、もう絶対に……」
ガシャーン!!
と、いきなり金属音がして不意にまた息ができた。
「優雨やめろ!やめろってば!離せ!」
すぐそばで紫雨の声がした。
近くに紫雨の自転車が横倒しに倒れていて、制服姿の紫雨が後ろから優雨を羽交い締めにしている。
「しゅ、……う」
やっとの思いで私は声を絞り出した。
まだ頭がぐらぐらしている。
「亜美、大丈夫か?優雨は抑えてるから、これでリダイアルして!すぐに警察来るから」
息を弾ませた紫雨は、手足を絡ませるように全身で優雨を抑え付けながら制服のズボンのポケットを探り、私に自分のスマホを放った。
必死の形相の優雨は腕や脚をバタつかせて紫雨を振りほどこうとする。
私は土の上を這って紫雨のスマホを掴むと、冷たく震える指に言い聞かせるように深呼吸をしてリダイアルした。
目の前で優雨が激しく暴れ、紫雨の左腕に噛み付いた。
「うっ痛っ、やめっ……優雨っ!」
紫雨は苦痛に声を挙げたけど、優雨を離さなかった。
『時任君か。そこは今、神社の中からだね?』
電話の向こうから男の人の声がした。
警察の人だ!
尋ねられるままに私は場所を話し状況を伝えた。
『もう向かっているから。争わずに逃げなさい』そう言われたけど、でも紫雨が。
紫雨は歯を食いしばって噛まれる痛みに耐えながら、しっかり優雨を捕まえていた。
でも私が近づこうとすると紫雨は「亜美、来るな!」と叫んだ。
紫雨の左腕から血が流れ出し、苦しそうに呻いた彼の顔がさらに歪んだ時、優雨は体を捻って紫雨の首に手をかけ、馬乗りになった。
今度は紫雨が脚を大きくバタつかせて逃れようとする。
肩で息をしながら叫ぶように優雨が言った。
「お前も父さんも、眠剤飲ませてたのに!気づかなきゃよかったのに、ああっ!」
「優雨やめてよお願い。紫雨のこと離してよ、優雨っ!」
私は叫んで、恐怖で思うように動かない体を優雨にぶつけて止めようとした。
けど彼に強い力で突き飛ばされた。
「優雨おかしいよ!やめて、どうしてなの?私のこと、紫雨のこと、そんなに憎いの?」
泣きながら私は優雨に叫び、背中を激しく叩いて紫雨から引き離そうとした。
「別に憎くない、けど俺らはずっと二人だから。みんなが見てるのは着ぐるみで、俺は中の人。中の人はいつも殺したがってる。上手くやれば着ぐるみを褒めて、次はいつやるって聞くんだ。だからヘマをした着ぐるみに今はすごく、怒ってる」
優雨は紫雨にかけた手を緩めずに、まるで自分に言い聞かせるみたいに言った。
「いたぞ、よし!」
声と一緒に荒い足音がして、駆けつけた二人の警察官が背後から私を引き離し、優雨に飛びついて一気に紫雨から引き剥がす。
さらにもう二人の警察官が私と紫雨のそばに来てくれた。
土まみれの優雨は動物みたいに唸り声をあげて暴れたけど、二人の警察官に両脇から挟まれて連れていかれた。
「二人とも怪我してるね、起きられる?あなたも、病院に行きましょうね」
私に声をかけてくれたのは女性の警察官だった。
「亜美ごめん、……ごめんね。俺がちゃんと言わなかったから。亜美を一人にしたから」
髪も顔も土にまみれた紫雨が地面でうつ伏せになり、肘をついた姿勢から起き上がる。
紫雨、怖かった。もう会えないかと思った。
紫雨も土まみれで、それに左腕から血が出てるよ。
話そうとしたけどいろんな思いが押し寄せて言葉が出てこない。
私は体を引きずるように立ち上がって紫雨に近づこうとした。
でも急に目の前が暗くなって、そのまま何もわからなくなった。
「ああ起きた。亜美、酷い目に遭って……」
気がついた私の前にはお母さんとお父さんが並んで座っていて、私の頭を包むように抱いたお母さんは涙を浮かべていた。
私はベッドの上にいて周りの景色が白い。「ここは病院なの?」
「そうだよ。何でこんなことに、あの優雨君がどうして……」とお母さんが言いかけると、
「まだ止しなさい。亜美がショック受けているんだから」とお父さんが言い、私は焦った。
「お母さん、お父さん。紫雨はどこなの、紫雨は腕に怪我して血が出てた。優雨から私を助けてくれたの。紫雨には会えないの?」
「紫雨君は違う階にいるよ。二人とも入院したんだ。でも亜美、今は面会できない。夜だし、休まなきゃ駄目だよ。明日は警察の人と話すことになるし、ね」お父さんが言った。
もう夜なの。
紫雨も今日はここにいるんだ、あの腕の傷は大丈夫かな。
間もなく看護師さんが来て血圧や熱を測って、痛むところはないか聞かれた。
首の周りがもったりした感触で鈍く痛むから湿布をしてもらった。
手足もちょっと痛くて、見るとあちこちにガーゼや絆創膏が貼られているし、青アザができていた。
左腕につながれていた点滴もやがて終わり、トイレに行った時に病室の洗面台の鏡を見ると、首の周りに輪のように紫のアザがあった。
これ優雨の手と指の跡だ。
あの時の怖さが蘇る。
容赦ない優雨の手とあの苦しさ、朦朧とする頭で聴いた優雨の言葉。
でも優雨はどうなったんだろう。
「ねえお母さん」
「亜美、鏡見たの?」
ベッドに戻ろうとする私を見て、お母さんはまた泣きそうな顔をした。
「あ、うん。優雨は、どうなったの?」
「優雨君は別の病院、精神科だそうだよ。亜美、お母さんが今晩は付き添うからね。何か食べれそうなものあれば買って来るよ、食べて休みなさい」と難しい顔のお父さんが言った。
その夜は浅い眠りの狭間で、優雨の手の記憶と紫雨のことが頭から離れなかった。
紫雨は一度家に帰って、それからずっと自転車で探してくれたみたいだ。
でも、どうして私と優雨が神社にいるってわかったのだろう。
不思議だった。
体調は戻ったので私は翌日には退院できることになった。
紫雨が心配。
退院前にどうしても会いたくて「傷は痛い?私は落ち着いて今日退院だけど、紫雨は?帰る前に会いたいです」とLINEしたら、しばらくして既読がついた。
でも返事は。
『会っていいのかな。俺の顔見たら怖かったことを思い出させてしまうし、亜美のご両親にも申し訳ないです』
紫雨は助けてくれたのに。
あの時、紫雨が来なかったら。それなのに。
「でも紫雨が心配だし、会いたい」と返した。
その後で、紫雨は彼のお父さんと一緒に面会に来てくれた。
私服姿で左腕に包帯をした紫雨の首の周りには、私と同じように優雨がつけたアザがあった。
紫雨のお父さんはとても顔色が悪く、私とお母さんを前に頭を垂れてお詫びの言葉を繰り返すばかりだった。
その側で心労に倒れそうな状態の父親をそっと気遣いながら、ただ謝る紫雨。
自分の気持ちだけで会いたいなんて言うべきじゃなかった。
私はすごく後悔した。
「おじさん、紫雨、もう大丈夫なんです。だからそんなに謝らないで下さい。助けてくれてありがとう紫雨、傷は大丈夫。痛い?」
「大丈夫。こっちももう退院できるから、……ごめんなさい」とだけ紫雨は言って、もうそれ以上話せることもないまま挨拶をして別れた。
退院してから警察で、私は紫雨とは全く別に優雨とのやりとりや現場の様子を尋ねられた。
優雨と私の関係についてはより詳しく聞かれた。
優雨が付き合いたいと言ったことも、私がそれを断ったことも、その後から紫雨と私が付き合っていたことも含めて。
そのたびに、心を温めている毛細血管みたいなものが凍えてバラバラに砕けていく気がした。
紫雨たち兄弟との思い出が、色のない写真か動画のような遠い温度のない事実になって行く。
『十七歳のシリアルキラー』
『シリアルキラーA』
しばらくしてから、ネットの情報で優雨がマスコミにそう呼ばれていると知った。
ヒナの命を奪ったのは優雨だったけど、彼は動物も人間も無関係に命を摘んでいた。
紫雨の家の前でヒナから聞いた、近所の犬の急死も。
紫雨が可愛がっていたあの小さいキジトラも。
キジトラが死んだ同じ日に踏切のそばで背中を刺された中年男性も、あのホームレス男性焼殺も。
そして、夜中に酔って歩いていた男性への斬りつけ事件も優雨の仕業だった。
『シリアルキラーA 驚愕の手口』という記事もあった。
『父親が以前に服用していた睡眠薬を手に入れ、食事に混ぜて家族を眠らせる。そうして黒いスポーツウエア姿のAは、濡れた傘を入れるポーチ型のケースに刃物を入れて夜中に出かけていた』
紫雨が時々とても眠いと言ったり、朝起きられなかったのはそれが理由?
そうして優雨は大胆に行動するようになった。
夜中に目覚めた紫雨に見つかるまで。
『だがAの殺傷の始まりはもっと以前に遡る。小学三年生の頃から、Aは近所の動物やペットを殺すようになり……。自殺とAの家族が思っていた母親の死も、実際にはAが……』
割れたガラスのように、こうした情報は辺りに飛び散って、ズタズタに壊れた生活に刺さる。
紫雨もお父さんも、何度も繰り返し悲しんだに違いない。
赤い見出しの記事が語る優雨は、ただ陰惨な殺人鬼Aでしかないけど、紫雨とお父さんにとっては違う。
身近に優雨を知る人は必ず言った。
「どうして彼が」「まさかあの子が」と。
家族でさえ知りえないものを心の奥に飼い続けていた優雨。
『着ぐるみと中の人』と優雨は言っていたけど、だんだん虎のように凶暴になった『中の人』は、あの日ついに着ぐるみの優雨を喰らい尽くしてしまったんだろうか。
家の周辺にはマスコミらしき人がちらほら現れていたので、しばらくの間私は両親に車で学校の送迎をしてもらった。
紫雨は退院してからも学校には来ていず、いつの間にか自主退学していた。
私や友達はずっと紫雨にLINEや電話をしていたけど、既読もつかず電話も繋がらないまま音信不通になってしまった。
隣の紫雨の家に彼とお父さんの姿は見えず、カーテンが掛かったままの窓辺に人の気配はなかった。
どこに行ってしまったのだろうか。
名古屋のお婆さんのところ、ではないのだろうか。
あの退院の日が紫雨と会って話した最後になってしまった。
事件から日が経つにつれ、優雨に手をかけられた事実よりも、紫雨に会えずどこでどう過ごして居るのかさえわからない事が、私の心を締め付けて離さない。
こんなことになっても私は紫雨が好きだし、紫雨がどれほど悲しい気持ちでいるかと思うと、ただ心配でとても苦しかった。
事件から三年が経った今も、それは変わらない。
大学に進学した私は今、臨床心理士を目指して勉強している。
そして鞄の中には紫雨がくれた古い文庫本、夏目漱石の「こころ」をいつも入れている。
ラズベリー色のカバーを手にとって頁を繰ると、開いた箇所にポツポツと雨が降るように涙がこぼれる日もある。
今もきっと様々な出来事が、優しい紫雨の心を踏みにじっていると思うから。
紫雨を見つけたら、紫雨の心に刺さったいくつものガラスのかけらを一緒に抜いて、沢山の黒い足跡が付けられた彼の心を拭ってハグしたい。
だから全てに絶望しないで、どこかで同じ時間を生きていて下さい。
私は紫雨のことが好きだよ。
完
お読みいただいた方々に心より感謝いたします。
夢といえばこの曲、「M.E.」 (underworld) を聴きながら。
<引用文献>
「山月記」中島敦 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)1998.
<参考文献>
「こころ」夏目漱石 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)1999.
「息子が人を殺しました」加害者家族の真実 阿部恭子 幻冬舎新書 第三刷 2018




