二冊の「こころ」
お盆の数日間、私はお母さんの実家がある北海道に家族で帰省していた。
こちらに戻ってお土産を手に時任家を訪ねたら優雨が出て来た。
「紫雨は部屋で何かしてる。アイツ、作曲してたら聴こえないから。待ってて」
優雨は紫雨を呼びに二階に上がってくれた。
優雨に続いて紫雨が階段を降りて来ると優雨は、
「うちも名古屋の婆ちゃんとこ行ったから、ちょうどお土産持ってこうと思ってたんだ。今、渡していいかな」と言って離れた。
優雨ってやっぱり落ち着いていて、こういう対応が大人っぽく感じる。
「紫雨、元気だった?」
「うん。でもここ数日やたら眠くて朝起きれなくてさ、今朝は十時に優雨に起こされた。父ちゃんも朝寝坊してめっちゃ焦ってたらしい」
そりゃあ、おじさんは毎日のお仕事でお疲れだとして、もう学校が始まるのに優雨に起こされるなんて大丈夫かなあ、甘えん坊な紫雨め、でも。
「私はすぐ朝練始まるから、朝LINEしよっか。電話してもいいけど」と言ってあげる。
「いや、それはまあ嬉しいけど。ちゃんと気合いで行くから温かく見守ってください」
紫雨はニコーっと笑って言った。
「夜中に曲作ったりとかしてるの?」
「うんそう。でも学校始まったらあんまりできんから、今のうちになあ」
学校が始まったら、紫雨と私が付き合うようになったってみんなにわかるよね。
別に秘密にしたいわけじゃないし、特に仲良い子には二人とももう話した。
付き合いの長い友達は「あんたたち二人ちょうどいいってか、お似合い」とか「逆に、やっとだねって気がする」と言ってくれた。
でも学校だときっと照れ臭くて困っちゃうだろうな。
夏休みが明けて、連日三十度越えの残暑の中また日常が戻ってきた。
今は放課後で、私と紫雨はあの夏祭りがあった神社の鎮守の杜に寄り道して、森の奥にある小ぢんまりとした東屋に並んで座って話していた。
ここは日陰だし弱いながらも今は風が吹いてる。
「俺、明日また警察行くことになった。歩道橋の近くの防犯カメラに映像があって、それ解析したから見て欲しいって言われたんだ」
「怪しい人が映ってたのかな」
「そうかも。でも、もしそれが俺の喧嘩したやつだったら、やっぱり俺にも責任あるよな」
また辛そうに紫雨がそう言った。
あの時こうしてたら、もしくはあの時こうしてさえいなければ。
私たちの毎日なんて、考えれば考えるほどそんなことだらけだろうな。
紫雨、また自分を責めないで。
「私、それは違うと思うよ。紫雨はその場から逃げなかったじゃない。結果的に悩むことになってしまったけど、ヒナのこと見て見ぬ振りしなかったんだから」
「ありがと亜美。ほんと俺、心弱くてごめんね」
そう言った紫雨の左手が私の右手をとって指が絡んだ。
こうして繋がれた、温かくて少し大きな紫雨の手に苦しいくらい胸が騒ぐ。
「弱くなんかないよ紫雨」
隣にいたい、いつも紫雨の隣に。
こうやって真面目な話をしてる紫雨は、優雨よりちょっと甘い顔立ちで、まつ毛が長くて鼻筋が通って、そして薄めだけど輪郭の綺麗な唇。
あ、やだな。
私は黙ったままでじっと紫雨を見つめていたことに気づいた。
そう思った時、紫雨が繋いでいた手を持ち上げると私の手の甲に唇を当てた。
「あ、紫雨」
頰がカッと熱くなる。
それに誰か通りかかったりしてないかな、と意識したら鼓動が跳ねるみたい。
「ごめん、嫌だった?」
「ううん。でも誰かに見つからないかなって思っちゃった」
そう答えたら紫雨は手を繋いだまま右手で私の頬に触れた。
「誰も来てない。でも来てもいい、俺は」
紫雨は顔を寄せて小さく「好き、亜美」と言うと、私にキスをした。
さっきまで眺めていたその唇の輪郭が温かく確かな感触に変わって、日向の匂いがする紫雨の髪と肌。
私も紫雨の頬に触れたら、彼はまた私のその手に上から触れて包みこんだ。
部活のないときはできるだけ一緒にいたくて、紫雨と私は今日も一緒に帰っていた。
でも警察で防犯カメラの映像の確認をした日から、紫雨はなんとなく元気がない気がした。
「あの日喧嘩したやつじゃなかったと思う。身長は俺と変わんない感じだけど体格がアイツと違うんだ。黒いスエットかジャージの上下着てマスクしてた。歩道橋からずっと離れた場所のカメラにちょっとだけ映ってた映像だから、イマイチなんだけど」
「そうなんだ。じゃあ喧嘩とは関係ないんだよね」
「だと思う。顔がはっきり写ってないのがあれなんだけど。ヒナと関係ある誰かなのかも」
まだ紫雨の他にも映像の確認に行ってる子がいるはずだから、誰かが知っているかも。
「違う人が何か知ってるといいけど。紫雨、元気ないよ。色々思い出しちゃったの?」
「ん、大丈夫」
そう言った紫雨は、暗さを振り切るように話題を変えた。
「いつも曲作ってる仲間と、そろそろライブやってみるかって話してるんだ。場所の目星はもうつけてて、対バン相手集めてるとこ」
「わあー、ライブするの。絶対行きたい。日にち出たら早く教えてね」
「へいへい。でもバンド練習するとなったら帰りはさあー、別々になるよ。あ、そうだ」
紫雨は黒いリュックを開いて覗き込んだ。
「はいこれ。勝手だけど良ければもらってください」
そう言って紫雨が手渡してきたのは『こころ』の新しい文庫本と私の好きなマスカット味のグミの袋だった。
「この本くれるの、紫雨?もう読み終わったの」
「うん。いや、俺の読んでたやつはウチにある。衝撃的にヘビーな内容だけど、俺にとってはすごくいい本だったんだよね。だから亜美に推してく。グミはおまけです」
「じゃあわざわざ新しい本、買ったの」
「だって、推しって言いながら古本そのままあげるわけには、さあ」なんて言うので笑ってしまった。
「私、紫雨が読んでた本でよかったのに」
むしろその方がもっと嬉しい。
「でも俺のは中古で買ったやつだからさあ、綺麗じゃないよ」
彼はそう言ったけど、紫雨が手にとって色々と考えたっていう本ならそれがいい。
「そっちがいい。紫雨が嫌じゃなければ、こっちと取り替えてほしいな」
「えー、どうしてさ?」
「いいでしょう?だって紫雨のがいいんだもん」
紫雨はプッと吹き出して笑ったから、その背中を私はポンポン叩いてやった。
「そんな笑うことないじゃん、もう!」
「いや、ごめん。わかった」
時任家の前まで戻って来ると「待ってて」と言って紫雨は古い方の文庫本を持ってきてくれた。
「はい、じゃあ交換ね」
「ありがとう。せっかく買ってくれたのに、わがまま言ってごめん」
嬉しい気持ちで別れて、自分の部屋に戻ったら紫雨からLINEが来ていた。
「今日もありがと!本取り替えてって言われた時、ホントは亜美かわいいって思ってた。今度はちゃんとそう言う」
もう夏の終わりだけど、心が桜色に染まってく。
その日から私も『こころ』を読み始めた。
九月になって、猛烈な暑さがやわらいできたけど、今朝教室で会った紫雨は明らかに眠そうにしていた。
「眠くて、マジで遅刻するとこだった。優雨に『いい加減起きろや』って叩かれた」
「お前がそういうキャラだから、兄がどSとか言われる」と友達に突っ込まれている。
「何回か起こされたんでしょ」と私が言うと「うん、そうみたい」だって。
今度アラーム音が超うるさい目覚まし時計でもプレゼントしようかなあ。
話してたところに珍しく「紫雨、現国の教科書貸して」と優雨がつかつかとうちの教室に入って来て、紫雨の机の前に立った。
「あ、兄来た」
後ろの席から優雨推しの友達が小声で言う。
「お前に言うの忘れてた。今日部活のミーティングあるから遅いわ」と優雨。
「やばい、じゃあ今日はカレーね。買い足すもんある?」と紫雨。
「あー、ルーがない。玉ねぎも一個しかないはず」
優雨は答えて「どうも、お邪魔しましたー」と教科書を受け取って出て行った。
「今晩、紫雨が作んの?」と友達に聞かれて「うん。俺の鉄板料理はカレーなの。うちは今夜はカレー」と紫雨。
「はああ、兄尊いわー。執事のコスしてほしいな」と私の後ろからまた優雨推しの彼女が小声で言った。
今日は私も部活があるから紫雨とは一緒に帰れない。
カレーなら作りに行ってあげたいな。
けどうちのお母さんは「男の子のうちに入り浸るのは駄目」って言って、そういうのはちょっと厳しい。
お化粧とか制服のスカート丈とかも私がやってみたいレベルまで見逃してはくれない。
私が一人っ子だからかなあ。
紫雨と付き合うようになったのは、あらためて言ってはいない。
けどこの頃は紫雨とだけ一緒に帰ったり休みに時々出かけるから、お母さん気づいてるかも。
でも今の所、何も言われない。
お母さんは時任家の兄弟二人とも好きだし、小さい頃から知ってて信じてくれてるから紫雨といることはスルーなのかな。
部活が終わって学校を出る時スマホを見たら、お母さんからLINEが来ていた。
「バス停まで迎えに行くから、バスに乗ったら知らせて」
「どうして?」
「昨日の夜また通り魔が出て、捕まってません」
またって、いつぶりってことかなあ。
「お母さんだって危ないじゃん」と返したら自転車で行くというのでバスに乗ってからまた連絡した。
バスを降りたらお母さんが来ていて、自転車を押しながら二人で帰った。
「今日警察のパトロールに合って、うちの町内じゃないけど近くだって。夜中に酔って歩いてた人を後ろから切りつけて、そのまま逃げたんですって。お父さんは車通勤だけど、あんたは部活があるし。もう日も短くなってるからね」
「ありがとう。でも夜中だったんならこの時間は大丈夫なんじゃない」
「そう思いたいけど心配だもの。部活で遅い時は剣道部の優雨くんに声かけて一緒に帰ってもらったらどう?お母さん、お礼におかずいっぱい作って時任家に差し入れるから」
お母さん、それは絶対無理。
できないよ私には。
だいたい優雨にも都合ってものがある。
というより、私と彼の間のいきさつをお母さんは知らないから。
「もう、何言ってんの?優雨にそんなボディーガードみたいなことさせられないよ」と私は言った。




