羽音
驚いて足が止まった。
心に響いてるのは紫雨が言ったこと、確かに言ったくれたこと。
紫雨が私を好きって。
私もいろんなモヤモヤとか、誰かを傷つけるかもしれないとか、まだら模様の気持ちを脱ぎ捨ててしまいたい。
今、この気持ちだけ紫雨に言いたいよ。
神様、いつかじゃなくて今こそ勇気をください。
「私も紫雨が好き。笑った顔もみんな、ずっと好きだったの」
「あ、どうしたの?泣いてるの」
紫雨が驚いた顔で私を覗き込んだ。
「わかんない。嬉しかったせいかな……、でも大丈夫」
なぜか、涙が出ていた。
「しょうがないなあ。はーい、こっち向いて」
優しくそう言って少し屈んだ紫雨は、左手に取り出したティッシュでそっと、私の頬に流れた涙をおさえてくれた。
「夏休み前にね、優雨から好きって、付き合ってって言われたんだ」
そう打ち明けると紫雨は少し目を伏せて言った。
「俺ねえ、知ってた。図書館行った日でしょ。その前に優雨がさ、『もう待たないからな』って俺に言った」
「知ってたの?」
「うん。もし二人が付き合うことになったらさ、俺は亜美と普通に話せるかなぁって思ってた。決めるのは亜美だからって思ってた」
あの日紫雨は、そんな気持ちで私達を見送ったの?
「優雨はいいところ沢山あるし、ずっと友達だし。だけど私が好きなのは紫雨で。でも二人は兄弟だし、優雨になかなか返事できなくて、きっと嫌な思いさせたと思うの」
「亜美、心配しないで。中三の時に俺たち二人とも亜美が好きだってわかった。その時から二人とも覚悟してた」
「優雨も紫雨も、友達としては二人とも大好きだよ。優雨は私と普通に付き合ってくれてるから、私もそうしようと思ってるの」
「うん。それでいいんだ、そうして」
きっと紫雨も考えたと思う、好きって気持ちを伝えることが誰かを傷つけることにつながるかもしれないと。紫雨と私は似てるから。
別の日の昼間、家にいたら紫雨からLINEが入った。
「キジトラ来たよ。今来れたら見においでよ」
急いで時任家に向かうと庭から紫雨が手招きして、彼の足元では小さな背を丸めたキジトラが夢中で餌を食べていた。
「目が大きくて可愛いね。キジトラ、お腹空いてたんだねー」
「ネコ夢中になる缶のやつ買っといたからなあ。そろそろウチの子にする作戦で」
紫雨はそう言ってしゃがむとキジトラの背を撫でた。
「じゃあ、名前もつけてもらえるね」
キジトラに言って私もそっと毛並みを撫でた。
毛並みはフワッとして柔らかく、温かな体温を感じる。
餌を食べ終えるとキジトラは腰を落ち着けて毛づくろいし、時任家の玄関先で丸くなった。
紫雨と私はそれを眺めながらいろんな話をして過ごした。
紫雨が高校に入ってから、うちの学校や別の高校の友達と四人で作曲や演奏をしてるって初めて知った。
「他のやつとやるようになったのはここ半年くらい」
「えー、どうやって曲って作るの?」
「お互いにPCのソフトで曲を作って、それに俺がギターを弾いてメロディを乗せたり他のやつが歌詞をつけたりすんの」
「そうなの、それ聴きたいなぁ」
「じゃあ今度聴いてね。何曲か選んで作曲のサイトに出すか、演奏して動画も出すかとか考え中」
近くにいても知らないことってあるなぁ、もっと紫雨のことが知りたいよ。
違う日には紫雨と二人で出かけて本屋さんに行ったりカフェでお茶したりした。
私は紫雨を見習って『吾輩は猫である』を読みおえたけど、紫雨はまた漱石を読んでいる。
「今はねえ、『こころ』を読んでるよ」
「現国でこれからやるよね」
「そうそう。これは結構複雑で重い話だわ、まだ序盤だけど」
そして散歩中の公園で「はい、これで曲聴いてみて」と笑顔の紫雨が、あの大事なダークグリーンのヘッドフォンを貸してくれて、作った曲を携帯音楽プレーヤーで聴かせてくれた。
紫雨と楽しくこれまでになく近くで過ごす夏休みが、ずっと続いてくれたらいいと思った。
もうお盆に入るという朝、家の外へゴミ捨てに出たら、時任家の庭に二人揃って佇む優雨と紫雨を見た。
腰に手を当てて立つ優雨と、両膝に手をついて屈んだ紫雨が険しい顔で何かを見つめてる。
紫雨どうしたの。
「おはよう。二人してどうかしたの?」
声を掛けたら、気を取られていたらしい紫雨が無言のままビクッとした。
今朝はカアカアと鳴くカラスがうるさくて、時任家の塀の上に一羽のカラスがずっととまっていた。
「おはよう。今朝ゴミ出すときに、庭でやばいもん見つけてさ」と優雨が言った。
「え?何」
嫌な予感がした。
「亜美、こっちに寄らないで。ちょっとヤバすぎるから見ないほうがいいよ」
そう紫雨が顔を歪めて、でも静かに言うと私を手で制した。
その向こうに動物の毛並みが少し見えた。
「紫雨、まさかそれって……」
「うん。首もげそうで腹裂かれた猫の死骸」と優雨。
「いやっ!」と声が出た。
「優雨やめて!それは言わなくていいだろ」
紫雨が強い調子で言った。
優雨は苦笑いした。
「さっきからお前ビビりすぎ。落ち着けよ、片付けりゃいいだけだろ」
「ビビってんじゃないって!」
反論した紫雨の声が大きくなる、その様子でわかった。
死んだ猫って、まさかキジトラ?
「全く、なにイラついてんの。意味不明」
優雨はスマホを取り出して操作する。
「こういう時って。あー、区のサイト調べたら保健所に連絡して処分依頼って書いてる。九時になったら俺が電話するか」
「カア、カア」
塀の上からこちらを向いたカラスが大きく鳴いて、険しい表情の紫雨はカラスの方に向かってダッと駆け出した。
でも彼に追い払われるより先に、羽ばたく音だけを残してカラスは逃げた。
「それでいいか?紫雨」
落ち着いて尋ねる優雨に「いい。俺が電話する」と紫雨は答えた。
「なら頼む。じゃあ戻るわ」と言って優雨は家に入った。
「キジトラだったんだね、紫雨」
声をかけると、彼は顔を背けて「うん」と言った。
でもすぐに向き直ると眉を寄せた紫雨は、その場に突っ立ったままの私に「亜美、怖いからこっちは見ないで、今は家に戻りな。色々済んだらLINEするよ」と言った。
そして「どこのどいつがこんな真似……コイツが気に入らなかったの?エグいいたずらのつもりか」と呟いた。
キジトラは庭で死んでいたけど、他で殺されて庭に置かれたものかも知れないし、いつ死骸が置かれたのかも何もわからない。
お母さんにこのことを話したら「その猫ちゃん、近くで車にでも轢かれて、可愛がってくれた紫雨くんの庭までたどり着いて死んだとかじゃあないの?」と言った。
でもあの時確か、首がもげそうとかって優雨が言ってた。
いずれにしても、何かに傷つけられて命を奪われた小さなキジトラ。
それに傷ついて悲しんでる紫雨を思うと私も気分が重く沈んだ。
後から紫雨はLINEで、キジトラは家のペットとして火葬にしたと知らせてくれた。
ペットとして火葬を依頼すると少しお金がかかるらしい。キジトラを家で飼いたかったけど、もう何もしてやれないと思った紫雨は、これがお葬式と思ってそうした。
その上夜にテレビを見ていたらニュースで、このあたりに住んでいる中年の男性が何者かに背中を刺されて踏切近くの草むらに倒れて死んでいるのが見つかったと放送されていた。
今は緑が生い茂り、あらゆるものが生命力に溢れて輝く夏のさなかだけれど、何かが理不尽に命を刈り取っていく。
太陽がふっと陰る瞬間のように、いつの間にか頭の上にやって来る死神の黒い姿を想像して、私はため息をついた。




