春の七草
ニート(NEET)とは、元々英国政府において定められた、就学・就労・職業訓練のいずれも行っていないことを意味する用語であり、日本では、15〜34歳までの非労働力人口のうち、通学しておらず、家事を行っていない「若年無業者」を指している。
太陽光が真上からアスファルトを照らす頃、そんな『若年無業者』である僕はよく街道を歩いていた。
すれ違い通り過ぎるのは憔悴した昼休みのサラリーマンや笑顔を無理矢理顔に張り付けひたすら上司に相槌を打つOL、仕事をサボりパチンコ店に足を運ぶ営業マン等といった社会人だ。社会の歯車から外れ昼間からブラブラして安逸を貪る僕は日々身を削り働いている彼等に対して一種の優越感を覚えていた。
そしていつの間にか昼に街道を散歩するのが僕の日課となり毎日至高の時間に浸っているとある日母親から一本の電話が掛かってくる。
「働け」
たった二文字でここまで人を惨憺たる心持ちにさせる言葉を僕は他に知らない。ショックのせいか日課の散歩も空疎で形骸的な徘徊と化してしまっていた。桜が散り葉が新緑に染まっている事にすら気付かなかったくらいだ。
そんな労働者に成りたくない僕は仕方なく税務署に個人事業の開業届出を提出して二週間が経とうとしていた今日この頃。
「ただいま」
重い足取りで帰宅すると玄関へパタパタとスリッパの可愛らしい音を立て少女が迎えてくれた。
「おかえりなさいマスター」
彼女はピンクのジャージの上にこれまたピンクを基調とした素っ気ないエプロンに身を包んでいて、綺麗な黒髪はポニーテールに纏めてありその揺れ動く髪を目が追ってしまう。
その一見主婦にしか見えない格好と彼女の子猫を意識させる様な可愛らしく少しつり上がった目、透き通るような極め細やかな肌、すーっと線の通った鼻から来る幼さの面影が覗く端正な容姿とミスマッチして犯罪的な魅力を醸し出していた。
「営業の成果はどうでした?」
そんな彼女の質問に僕は首を横に振る事で応える。
僕の経営する屋号『春の七草』は所謂便利屋だ。ちなみに経営状況は火の車。客足が皆無な事から走ってるのかすら怪しい。
「営業だし奈瑞菜とかのが適任だと思うんだけど」
僕の言葉に彼女はうーんと唸る。もし奈瑞菜クラスの容姿を備えた販売員が訪問販売でもしてきたら間違いなく客は掴まると思うんだが。
「私は家事が有りますから」
その提案を奈瑞菜はやんわりと断った。僕の母親が海外赴任中の現在、家事は殆ど奈瑞菜がこなしてくれている。学生でもあるため時間も割けないだろうし。現に奈瑞菜の足下に置かれた洗濯かごには溢れんばかりに衣服が積まれていた、因みに八割が女物。
僕はその様子を見て口を開く。
「大変そうだな」
「そうですね。でもあと二週間もすれば恭華さんが帰ってきて下さりますし、だいぶ負担は減りますよ」
『恭華』という名前に僕の眉がぴくりと動いた。恭華とは僕の母親であり僕を窮地に追いやっている張本人だ。
この一月で『春の七草』の収支をプラスに転じさせないとその母親が海外から帰ってくる事になっている。そうすると僕の悠々自適な生活は崩壊し、何よりも進学する事になってしまう。それだけは避けたい。
「母さんが帰ってくる前提で話すのはやめようか」
「もう決定事項ですよ。お客さんなんて一人も来てませんし、大体どんな仕事を請けるつもりなんですか」
「そうだな……迷子犬の捜索とか、浮気調査とか」
「ほぼ探偵じゃないですか」
言われて見れば。探偵と聞くと刑事事件に首を突っ込む仕事だったりと想像しがちだが実質浮気調査が生業だと言っても過言ではない。どちらにせよ人間不信になるのは必至である。
「ま、依頼が入れば他でも引き受けるけどな」
「なんでも良いですけど。進学する事になりそうですし」
「………」
「どれだけ進学するのが嫌なんですか……」
進学という言葉を聞いて露骨に陰鬱な表情を作った僕に対して彼女は呆れるように溜め息を吐く。
「だって仕事にしろ、学校にしろ、組織の中で上手く生活しなきゃならないだろ? 社会に与する感じが嫌なんだよ」
僕が引く手数多だったにも関わらず進学もせず、労働もせず、職業訓練もしない道を選んだのは其に依るところが大きい。一月程前に中学を卒業して母から就業催促メール及び進学の話がやって来るまでは本当に幸せだったなぁ。
「そんなニートなマスターに仕事を授けましょう」
不敵な笑みを浮かべ硬直した奈瑞菜から緑のトートバッグとメモ用紙を手渡された。十中八九買い物だろう。断ろうと思ったのだが奈瑞菜の笑みにはそれを受け付けない凄みが感じられたので開きかけた口をつぐむ。
「お買い物をお願いします。ちょっと今手が離せないので」
「はいよ」
面倒ながらも素直に買い物を引き受ける。奈瑞菜はそれだけ伝えて洗濯籠をよいしょと抱えるとやって来た方向へと忙しそうに戻っていく。それを見送った僕はメモ用紙を確認した。
豚ひき肉、玉ねぎ、玉子、パン粉、生姜、牛乳。箇条書きされた単語から察するにハンバーグだろう。
「さっさと済ませてくるか……」
そう呟き、買い物に向かうため踵を返そうとすると先程奈瑞菜が消えた階段脇の廊下から桃色の頭がひょこっと顔を出したのが見えた。
「マスターおかえりなさいです」
桃色の繊細な絹のような長髪を身に纏った背丈のあるスウェット姿の美少女は僕を見るとそう言って上がり框まで駆け寄ってきた。
小さい唇を横ににーっと伸ばし睫毛の長い目を細め笑っていてその表情からは活発発地といった印象を受ける。
「ああ。ん? そう言えば買い物って芹の当番じゃなかったか?」
「芹はストレスとは無縁の生活を送るため都合の悪い事は海馬から弾き出されるのです」
昂然として嘯く様は彼女の図太さを暗に示しているようで思わず失笑してしまう。何だよその機能羨ましすぎる。
「やはりお前か。アホな事言ってないで荷物持ちとして付き合え」
「え? マスターも一緒に行くんですか?」
「何にもしてないからな。本来はお前の仕事と言えど引き受けた以上すっぽかしたら奈瑞菜に殺される」
不思議そうに首をかしげる芹にそう答えると「あー」と呟き納得したように軽く頷いた。
「じゃあ仕度するので待ってて下さい」
「はいよ」
やはりスウェット姿で外出するのは嫌なのだろうか。
数分後玄関へと小走りで戻ってきた芹はノースリーブのワンピースに短パンといったラフな服装に着替えていた。その脇からは慎ましやかな胸が覗きそうでどうも落ち着かない。美少女の貧しい胸にスレンダーなスタイルは一揃いだと聞いたことが有るが芹も例に漏れず腰もくびれているし足もスラッと長くカモシカのようだ。出る所は出てないが引っ込むところは引っ込んでいる。取り合えず全部出てない。
「ん」
そんな芹はその膨らみのない純粋なシルエットを描く胸を張っていた。
「なんだ?」
「感想ですよ。か、ん、そ、う」
私を見ろと言わんばかりに何度もくるくると回る。自己主張の激しいやつだな。
「カワイイカワイイ」
「なんか適当じゃないですか」
「お前の私服なんて見慣れてるしな」
一緒に暮らしていればそりゃ嫌でも目に入る。
「そんなに私の事見てるんですか。キモいですマスター」
「満面の笑みでキモいとか言われても」
もっと、こう蔑むかんじで言われないと……ね?
「まぁ今回はそれで許してあげますよ」
「そりゃどうも。じゃあ行くか」
「はい」
芹の二つ返事を背に白塗りのドアを開ける。ドアの外から差し込まれる陽光に顔をしかめながら足を踏み出すと太陽が幾分か傾いているのが分かった。
そのまま家の門である菱形が均等に並べられ接合された黒の鉄柵を抜け歩道に出る。この辺りは人通りも少なく歩道の柵を越えた先にある片道二車線の道路には車は一台も走っていない。そんな閑静な道を芹と共に歩み出す。
買い物で向かう近くのスーパーは徒歩で十分程の距離に位置していて昔から僕達は足繁く通っている馴染みのある店だ。顔馴染みの店員だとかは居ないけどな。
「マスター何買うんですか?」
隣で歩調を合わせる芹はそう言って顔を覗いてくるのでほれと奈瑞菜から受け取ったメモ用紙を渡す。
「なるほど……今夜はそぼろですね」
「お前挽き肉と玉子しか見てないだろ、ハンバーグだよ」
適当に言葉を交わしつつ閑静な道から人通りの多い街道に移動する。すると芹の容貌のせいかやたら多くの視線を浴びせられているのに気付いた。
本人に気にした素振りは見られず堂々とした態度からはおおらかなイメージを受け、そのイメージはあらゆる所で効果を発揮しているらしい。彼女の通う学園には相当数の女性ファンが存在するといった風聞をよく耳にするがそれもまた一例なのだろう。
「ハンバーグですか…因みにチーズは入れますか? 入れますよね!」
因みに喋ると凄く残念。
チーズがインだとかアウトだとか話していると直ぐにスーパーに到着した。大型スーパー金蔓はその店舗名から勘違いされる事が多いが商品の価格は至って良心的だ。自動ドアを抜け軽く冷房の効いた店内に足を踏み入れる。
やたら五月蝿い店内BGMを右耳から左耳に流す作業に集中しながら野菜コーナーへ向かう途中よく見知った顔を発見した。
惣菜売り場の前で弁当を両手に悩んでいる中性的な顔立ちの少女に話し掛ける。
「御形何してるんだ?」
彼女は此方を見ると一瞬軽く驚いたような表情を見せたあと直ぐに平静を取り戻し口を開いた。
「僕はお腹が空いたので弁当をと。マスターは?」
御形もまたTシャツとジーンズといった軽装であったがポテンシャルの高さからこのままファッション紙の表紙を飾っても遜色無いくらい絵になっている。しかも僕っ娘。
「買い出しだよ。あんまり夕飯前に食べると奈瑞菜に怒られるぞ」
「あはは。気を付けるよ」
御形がはにかむと肩口までに切り揃えられた黒髪がさらりと揺れた。そこにメモ用紙と買い物カゴを持った芹がやって来る。
「あれ? 御形?」
「あ、芹ちゃん。二人で買い物?」
「そそ。御行は部活帰り?」
「そうだよ」
二人が横に並ぶとオーラが違いすぎて僕の付き人感が凄い。周りが二人には羨望の眼差しを向けているのだが僕にだけ嘲笑めいた含み笑いをしているのが分かる。
「弁当買うんならそのカゴに入れとけ一緒に買うから」
さっさと移動するため芹の持つ金蔓と青い文字でプリントされた籠を指差しそう促した。
「やっぱりいいや。マスター達は何買いに来たの?」
「ハンバーグの材料だ」
短く答えながら近くにあった玉ねぎを芹の持つカゴに入れる。その後スライスだのパルメジャーノだのカチョカヴァロだのハイカラ過ぎてよく分からないあらゆるチーズを放り込もうとする芹を止めたり、イチゴケーキが食べたいと言う御行にイカの塩辛を買ってやったりと可及的速やかに且つ大過なく買い物を済ませた僕達三人は金蔓を後にした。
***
やって来た道を戻っていく。帰り道は暮色の迫る空と相まって同じ道とは思えないほど景観に差があった。そんな事になんとなく趣を感じながら歩く帰路は僕を無心にさせてくれて、気がつけばあの閑静な道まで来ていた。
自宅である大きさだけが取り柄の一軒家が見えてきた辺りで御形は僕に質問を投げ掛けてくる。
「ところでマスター、経営の調子はどう?」
「何だ急に。何も変わらん」
自嘲気味にそう答えると御形はとても嬉しそうに笑う。その表情が意味する所は明解であるようで本質を理解できていないような言葉に言い表せない何かを包含していた。
「ふふ。進学も近いね」
楽しそうな御形とは裏腹に僕の気分は進学という言葉に反応して重苦いものとなっていく。
「未だ分からんぞ」
「決まったようなものだよ」
既視感を覚えるこのやり取りに思わず苦笑してしまった。
「奈瑞菜にも同じような事言われたな」
「奈瑞菜もマスターと一緒に学園に通いたいんだと思うよ」
それは分かっているがやっぱり、
「僕が嫌なんだよ。学園に通うこと事態が」
「強情だなー、もう」
譲らない僕に対して呆れるようにこめかみに手を添える御形。
「それより奈瑞菜『も』って言ったよな。御形お前はどうなんだ?」
「秘密。じゃあ僕は部屋に戻ってるから夕食時に呼んで」
そう言い残すと御形は小走りで門を開けて家の中へと去っていった。質問するだけしといてされたら黙秘かい。可愛いから許すけど。
「芹、これ奈瑞菜に渡してくれ」
そう言って振り向くと門の外で猫とじゃれあっている芹の姿がそこにあった。どおりで静かだったわけだ。
「にゃーん、ふふ」
声も届いていないようなので芹をその場に放置して家の中に入り内容物で重くなったトートバッグを玄関に置く。後で芹が持っていってくれるだろう。
何度も外出したせいか疲労感や倦怠感、徒労感、etc…を感じていた僕は靴を脱ぎ揃えるとすぐに汗を流しに風呂場へと向かった。階段脇の無駄に長い廊下を直進して突き当たりを左に行った所にある脱衣所の前で足を止める。脱衣所の扉に付けられているモザイクガラスが湯気で曇っていたからだ。どうやら先客が居たらしい。
それを見た僕はその場を後にしようと体を来た道へと向けようとするが―――ガチャリとドアノブを捻る音が鳴った。
「あら、おはようございますマスター」
「平子か。もう夕方だけどな」
脱衣所からバスタオル一枚で出てきた美女と挨拶を交わすと彼女の艶やかに湿った長い黒髪からはシャンプーの香りが漂い、僕の鼻孔を刺激した。そしてキューティクルの健康さが窺える綺麗としか形容し難い髪をかきあげるとほんのり上気した耳が覗く。
妖艶さを備えた彼女の仕草はひとつひとつが目の毒だ、自重して欲しい。
「マスターも入浴ですか?」
「ああ」
色香に惑わされないよう彼女を直視せず淡白にそう答える。それを聞いた平子は僕の耳元で囁いた。
「ご一緒しても宜しくて?」
予想だにしない平子の発言に内心戸惑うが表情を窺うと小馬鹿にしたように口角を上げ此方を見ていた。挑発のつもりなのだろう、小馬鹿にされたままというのも癪に障るので仕方なく挑発に便乗する。仕方なくだよ? 本当に、据え膳食わぬは男の恥だからね。
「構わない」
そう答えると平子は「では」と言い残し脱衣所へ戻っていった。今入ったのでは? なんて野暮な事は言わない。
脱衣所へ入ると僕の双眼には凄艶な彼女の姿が映し出される。
平子はバスタオルを体の前へと移動させており、後ろ姿を隠す物は彼女の長い黒髪のみだ。雫が滴る肢体もまた魅力的でついつい踏まれたいという欲が自身を蝕んでしまう。その姿はさながらアルテミスといったところだろうか。その場合状況的に僕は鹿に変えられ野犬に噛み殺される事になるのだが。
ともかく僕は服を脱ぎ洗濯カゴに投げ入れると、先に浴室へと入り白いタイル張りの床をみて心を鎮める。
「失礼します」
少し間をおいて背後から彼女のしなやかな脚が浴場のタイルを踏む音が聞こえた。後ろを振り返る。瞬間、僕の目に映る彼女の姿態はしっかりタオルで隠されていて先程と比べても然程露出度も変わらなかったが今程感じた物とは異質の興奮が僕を襲い心臓の鼓動の音は彼女に聴こえんばかりに高鳴っていた。
「マスター」
「へいっ」
極度の緊張の中、艶っぽい声で呼ばれたため変な返事をしてしまった。ここは落ち着くんだ。アレだ、手のひらに人と書いて飲むやつ。……何で飲むんだよ。
「エッチな女の子は嫌いですか?」
Hとは原子番号 1 、原子量 1.00794の非金属元素である。つまりは水素だ。そうだろう? そうなのだ。
「僕とえべしってくりょう(僕と付き合ってください)」
僕は甲州弁を使ってしまうまでにひどく混乱していた。
「ふふ、話し方がおかしいですわよ」
「お、おう」
上品に笑みを溢す平子に指摘され我に返る。何をするでもなく沈黙のまま刻々と進んでいく時を苦痛に感じ僕は重い口を開いた。
「背中を流してくれ」
「承知しましたわ」
言下に放たれた彼女の了承の言葉と背中へと押し付けられる豊満な胸、これはもしや巷に聞く「当ててんのよ」とかいう奴では…?
念のため恐る恐る平子に問う。
「その…胸が当たっているのですが」
「当てているのですわ」
「何やってんの」
悦に入り理想郷にトリップしていた僕をその声が呼び戻す。咄嗟にその声の主である闖入者が現れた方向へ視線を向けると浴室の扉を開け放ち呆れ顔をした水色の髪が目立つ少女が其処に立っていた。
「親睦を深めようと…」
「マスターいい加減にして、そんなサキュバスと親睦なんて深めたら吸い付くされちゃうよ」
「否定はしませんわ」
是非とも吸い付くされたいものだ。
「いいから此方へ」
「ちょっと待っ――」
水色の少女は僕の手を引き浴室から連れ出す。平子を残し脱衣所から出た後も彼女は足を止めず華奢な腕からは想像もつかない怪力で僕を担ぎ上げた。
やんちゃした子供のお尻を叩くかのように僕の腰を肩に乗せた彼女は玄関まで戻ると二階に続く階段に足を掛ける。揺れる視界の中、遠退いていく玄関を見ていると暗い空間に連れ込まれバタンと勢いよくその扉が閉ざされた。
どうやら僕は何処かの一室に連れ込まれたらしい。
その部屋は薄暗く、一つの照明がぼんやりと照らしていのみで内装もベッドしか見えない。有無を言わさず僕を自身のベッドへと押し倒すとその人形のような端整な顔を近づけてきた。
「あの…珠洲さん? 服を着たいのですが」
浴室からそのまま連れ出されたので僕は生まれたままの姿であった。そんな服を懇願する僕に珠洲はひとつの衣服を呈示する。
しかしそれは僕が着用するには不似合いの物だった。
「何故セーラー服を?」
無言でセーラー服を差し出す彼女に僕は素朴な疑問をぶつける。その衣服は本来であれば女性、それも幼け且つ穢れの無い少女が着用を許される物であって決して男が着るものではない。海軍の制服として使われる事も有るが日本ではセーラー服といえば専らそれを指すのだ。
「着て、大丈夫似合うよ」
「別にそんな危惧は全くしてない」
似合う似合わないはどうでもいい。心なしか息が荒くなってきている彼女から後退りしながら僕はそう言葉を返した。その後も珠洲の頬は上気して赤みが増していきそれに伴い理性が失われていくように感じられる。だがリスクヘッジに長けている僕はここで流されるような男ではない。
僕は手を珠洲の背後に回し履いているピンクのミニスカートを捲り縞パンへ捩じ込む。目には目を歯には歯を羞恥には羞恥で返すのが紳士の嗜み。
「腐へへへ」
しかしそんな僕の最善手を意に介さない珠洲は横腹を掬うように僕をひっくり返し俯きにさせると上半身をがっちりと脚で固定する。う、動けない。
「は~い、スカート履き履きしましょうね~」
「ちょっと待って! 自分で履く! 自分で履くから!」
赤ん坊を慈しむような声色を上げスカートを手にした珠洲を慌てて制止する。この体制で履かされるよりかは自分で履く方がまだ良い。
「ひとりで履ける?」
「……」
今僕はこの少女の眼にどう映っているのだろうか。珠洲の態度からは茶化した様子も感じられず嬰児と話すような恵愛染みた視線が僕に送られる。その視線に堪えられず首を縦に振ると珠洲は拘束を解いた。
「じゃあスカートから」
手渡されたのは全てのプリーツが一定方向へ向かい歯車のように巻いている一般的な膝丈くらいの紺のスカート。下着(勿論男物)を渡されないことに狼狽しながらもそれに足を通し腰の留め具をすると半裸にスカートというハイレベルな変態がそこに現れた。
「はい次は上着着て、そしたらスカーフはあたしが結んであげるから」
受け取った上着を直ぐ様身に装いハイレベルな変態から女装野郎にジョブチェンジした僕の頬を一筋の涙がなぞる。どうしてこうなった。
「男しての尊厳を失った気が…」
「次、スカーフね」
見え、見え……ない。この状況に価値を見出だすため僕の正面でスカーフを結ぶ珠洲のタンクトップの胸元を凝視する。しかしついにその二つの果実を拝む事は叶わなかった。珠洲は満足げによしと頷くと少し身体を遠ざけ僕をじろじろと見る。
「はぁぁぁ可愛い、いつもこうだったらいいのに」
「勘弁してくれ」
しかしやたら跨がスースーしてどうも落ち着かない。
「珠洲、パンツ履かせて欲しいんだけど」
端から聞けば変態的な台詞だがそんなことを気にしている状況ではなかった。既にセーラー服だしな。
「ちょっと待って今脱ぐから」
やはり絶対に他人にこの会話は聞かせられない。
「違う、お前の下着が欲しいわけじゃない、それと当たり前のように女物の下着を履かそうとするな」
「スカートがパンツに捲き込まれてる」
「気付いて無かったのかよ、てか話聞け……ん?」
薄暗くて最初は気付かなかったが目が慣れてきたのか10メートルほど先にぼんやりと何か機材の様な物が三脚に支えられているのが見えた。
「珠洲あれは?」
僕がその此方に向けられているそれを指差しそう問い掛ける。
「カメラ」
僕は扉を開け猛ダッシュで廊下へと飛び出していた。その後を珠洲が追い掛ける。あのまま力ずくで女物の下着なんて着用させられようものなら僕は社会的に死ぬ。
「マスター大丈夫、ネットに晒したりしないから!」
「昨今はリベンジポルノとか色々あるんだよ!」
「アルバムに加えるだけだから!」
アルバムの存在がとても気になるが今は彼女から逃げ切るのが最優先だ。階段を駆け降り一時的に珠洲の視界から逃れると玄関から見て左手にある扉が開き手招きしているのが見えた。
僕は誘われるがままに入室するとドアを背にしゃがみ込む。
「助かったよ菘」
呼吸を整え腰まで伸びた繊細な栗色に染まった髪を手で弄んでいる少女に礼を告げる。少女の気品が感じられる見目麗しい顔立ちや真っ白で華奢な四肢からは触ったら壊れてしまうような儚く可憐な深窓の令嬢といった言葉がよく似合っていた。
「……それより、服」
「ああ、色々有ってな。着替えたいんだけど…自室に戻るのはもう少し後にした方がいいな」
今出ていくと珠洲に鉢合わせする可能性が高い。少し時間を置いた方がいい。それまではセーラー服姿で堪え忍ぶ他ないだろう。しかしスカートが落ち着かない、この布防御力無さすぎるだろ風が吹こうものなら簡単に捲れ上がってしまう。やはり現実に鉄壁スカートなんぞ存在しないのだ。
「……服有るよ?」
「いや、菘のは着れないよ」
気持ちだけ受け取っておこう。男物に見える服なら一時的に貸して貰う事も出来るが彼女が現在着てる衣服は見るからに上品なボレロ、そんな菘が条件に合う服など持っていないだろう。なによりサイズが違いすぎる。
「……そうじゃなくて」
「?」
そうではないとはどういう意味だろうか。
「……マスターの服を何着か拝借してるから部屋に有るよ」
「な、何故」
「……持ってるとマスターを近くに感じるから」
顔を赤らめ俯きながらそう答える菘。可愛いいからまぁいいか。
「じゃあ着るから持ってきて」
「…分かった」
そして横開きのクローゼットを開け僕の衣服を探し始めた。ちらほらと見覚えのある服が並んでいるのが見える。僕の服を持っているという事は菘の服も拝借していいのでは? 用途は主に匂いを嗅ぐ事です。
そんな変態的欲求について沈思黙考していると、
「菘ー? 入るよー」
突然ドアの外から聴こえた。
その声に一瞬心臓が跳ねるがこの声は……。
「あれ? マスター何してんの? セーラー服着て」
「撫子か…」
部屋に足を踏み入れたのは珠洲ではなく胸元の開けたインナーにそれ履いてる意味あんの? ってくらい短いパンツを履いた頭の悪そうな格好をした痴女だった。
珠洲じゃない事に安堵していると撫子はヒラヒラと僕のスカートを靡かせる。
「止めんか痴女」
「マスターがスカート履いてるー。目覚めたの?」
「珠洲に着せられたんだよ。それより菘に用が有るんじゃないのか?」
「マスターを見たかどうか聞きたかっただけ。奈瑞菜が探してたから」
「奈瑞菜が?」
「うん、学園長さんが来てるみたい。客間で待って貰ってるらしいよ」
うへぇと思わず吐息を漏らす。ニートに来客をもてなすだけのコミュニケーション能力なんて存在しないぞ。
「……マスター、服」
既に探し終えていたのか僕と撫子の会話のタイミングを計らったように菘がそう声を掛けた。キスマークで埋め尽くされた僕のTシャツと短パンを抱えて。
「あちゃー」
それを見た撫子は額に手を当てる。個人的には有りなんだけどこれから客間に行かなきゃだし。でも可愛いからまぁいいか。僕は赤面する二人の前で着替えを済ます。
「着るんだ…」
「ああ可愛いからな」
「…」
「ちょっと客間行ってくるわ」
「え? それで行くの?」
「セーラー服よりはいいだろ」
「うーん、マスターがそう言うならいいけど」
唸る撫子を後にして僕は扉を開き客間へと向かった。客間は玄関から入って直ぐ右手にある一室の和室だ。因みに菘の部屋の真向かいである。
だから十秒と掛からず和室の前までやって来れたのだが凄まじく入りたくない。始めて職員室に入る時のような感覚だ。
嫌々ながらゆっくりと襖を開けるとそこには頑固一徹、因業親父といった言葉を体現したような老人が鎮座していた。僕は側まで寄り軽く会釈して足の低いテーブルを挟んで向かいの座布団に腰を降ろす。
「進学ならしませんよ。学園長」
「違うわ、依頼だ依頼。便利屋始めたんだろ?」
「まぁ、そうですけど」
僕の開口一番に発した言葉に学園長は眉をひそめ若々しい口調で言下に否定する。どうやら『春の七草』の客としてやって来たらしい。僕はこの男と顔見知り程度の間柄で中学に在学していた時はよく逆推薦を推してきたものだ。
少しの沈黙をおいて僕と対面する初老の男は会話の端緒を開く。
「依頼内容は俺の学園……『桜ヶ丘学園』で行われる『球技大会』これを盛り上げる事だ」
「断る」
不可解な依頼を即座に棄却するが僕の答えを予測していたのか気にせず彼は続けた。
「報酬は成人男性の平均年収若しくは君の学園への入学権だ」
「平均年収ですか。ずいぶん太っ腹ですね」
「そうでもないぞ。恐らく払わないですむからな」
自信ありげにそう告げるとニヤリと口元に笑みを浮かべた。この男は僕が球技大会を通して学園に関わる事で遠回しに説得を試みているのだろう。
「結局進学の話じゃないですか。………依頼は受けますよ、報酬は勿論支払いでね」
「交渉成立だな。期間は準備を含め三日だ」
「分かりました。その間僕は学生すればいいんですね?」
「ああ。それと盛り上げると言ったが普通に学園生活を過ごしてくれればそれでいい」
学園生活……『翠感』と呼ばれる人間の潜在的な能力が発見されて久しい現在、人間の尺度は『翠感』で測られ人としての優劣さえも決められてしまう。スクールカーストなるものも例外ではなく、学園生活を謳歌出来る者が先天的に決められているため、青春という言葉に胸を踊らせる者は少ない。その中で僕は一握りの『学園生活を謳歌出来る者』に所属しているはずだった。
『翠感』とは発見される以前第六感と呼ばれていたらしく、今ではメカニズムさえ分かっている。単純に言えば植物一種辺りに存在する『精霊』を介する事でその植物の花言葉から来るイメージを具現化させたり、モチーフとなる植物の特性を使用する事を可能としている。中には民話や神話等の伝承と同じ効力が期待できるものも有るらしい。
その『翠感』の中で最上位とされる『召喚形』。これは『精霊』を文字通り召喚する能力だ。現在『召喚形』の能力者はただ一人。
僕だ。七人の精霊を従える主。それが世間の僕に対する認識。
それを考えると期間が短いということや母親の件を考慮してもこの依頼を受けた事に自分自身で不思議に感じる。
「……分の悪い賭けですね。人間そうそう心変わりなんてしませんよ」
「君はまだ若い。今からでも矯正するのは遅くはない」
矯正という言葉に僕は怪訝の色を露にすると学園長は苦笑いして発言に訂正を入れた。
「矯正と言ったが別に今の君を悪く言ったわけじゃあない。この機会にもう一度学園に触れてみて考え直して欲しいんだ」
「……」
その日、それ以上僕達は言葉を交わす事はなく依頼を引き受ける状で話は終えた。
これから僕は三日限りの学園生活を送る事となる。
「……服着替えよう」