一話
私は常に闇の中にいた。言葉の通りの、暗黒の世界の中で育ってきた。だから、自分がどんな容姿なのかも分からない。きっと見るに堪えないブスなんだろう。じゃなきゃ、十数年もこんなところに閉じ込めないでしょう。
けれど、暗い部屋の中に閉じ込められていても、手錠をかけられたり監禁されている訳ではないので、それなりに不自由ない暮らしをしている。暗黒だけが包むこの部屋は照明がない代わりに、日常生活で使うある程度の物は揃っていたし、食料はあの人が届けてくれるから私は普通に成長していた。
そりゃ、最初の頃は見えない中で料理するのは不安定で何度も指に裂傷を作ったけれど、今では揚げ物から炒め物まで何でもいける。勿論、あの人が教えてくれた範囲内でなら、だけど。
それに本もたくさんある。童話から辞典まで、どれも全てに点字がふってあるから、私は読める。点字の読み方をあの人が教えてくれたのだ。
あの人は不思議な人だわ。幼い私を暗闇に放り投げたと思えば、きっちりお世話までしてくれるもの。お陰で、ここから出たい。とも、外の世界を見たいとも思わずにここまで大きくなった。
それは今も変わらない、のに。
ある日の二回目の食事の後、私はベッドに身体を預けたまま天井を見ていた。
勿論、何か見える訳ではないけど、一度あの人が見せてくれた(実際見えてないから、教えてくれた)猫を思い描いていた。柔らかい毛並み、温かい体温、ぴょんと跳ねる耳、小さな身体、私にくるりと絡み付く長い尻尾。猫にもう一度会いたい。最初は怯えてしまってほとんど触れなかったから、今度は抱きたい。
と、寝返りを打った時。ベッドのスプリングにしては鋭く、激しい音が耳をつんざいた。初めて聞く音に恐怖で身を震わす。そして、あの人の『何か異変が起こったらすぐに隠れるんだよ』という言葉を思い出してすぐに布団にくるまった。
もしかしたらこないだ読んだ本に出てきた鬼ってヤツなのかもしれない。あの鬼もこんな風に酷い音を鳴らしていた。だとしたら、鬼にすぐに見つかってしまうんじゃないかと思う程心臓がドキドキして、痛かった。こんなのは、初めてだ。
そして、また初めてが。ぎゅっと、固く閉ざしたはずの眼瞼の隙間から、淡く鈍い明るいものが差し込んできた。きっと照明か日差しだ。あの人は私に明るいことを教えてくれなかったけど、本で学んだから知っている。それらが明るく皆を温かく包んでくれるものだってことを、私は本によって学んだ。
あの酷い音の後、鬼の次の様子を伺っていながら身を縮ませていると、再び音がした。しかし、それはさっきの音とは違い、意味を持った声だった。
「っ、あいててて……失敗した……」
がちゃがちゃと、何かを鳴らしながら鬼は大きなため息を溢した。
声は私よりも低いけれど、あの人じゃないことはすぐに分かった。どうか、私に気づきませんように。と、布団を握る手の力が強くなった。
「あれぇ。俺のデータによるとここにいるはずなんだけどなぁ」
鬼は歩き始めた。時折、物音を鳴らしながら「こんなとこにいる訳ねぇか」と一人笑う声が聞こえてきた。
鬼は暗闇に慣れてないのか、転ぶ音や突っかかる音が何度も聞こえてきた。この鬼は外の世界のヤツなんだろう。
あの人がよく口にしていた言葉を思い出した。
「外の世界の奴等は、汚いんだよ。だから、純粋な君は綺麗なままでいて欲しいからここに閉じ込めているんだ」
憎々しげに何度も、何度もあの人は言った。何回聞かされたかは数えられない程に。そして、私の頭の中に刷り込まれてしまった。
外界の生物は恐ろしく汚いんだって。
そんな汚い鬼に見つかって捕まってしまったら、私はどうなるかは分からない。殴られる? 蹴られる? 殺される?
どれも嫌よ。
「ああ、もう。手っ取り早くもう少し壁壊して光入れた方が早いかな」
鬼は一人言を言うと、大きな音をならした。ボクッ、ガスッ、ドコッともどれとも似つかない初めて聞く音だった。
「……っ!!」
布団の中で固く目を食いしばっているのに、光が、明るさが目前に広がった。初めての光に喜びが沸くと共に怖くなった。
私にまで光が分かるのなら、この部屋は酷く明るくなっているはずだ。なら、私はすぐに見つかってしまう。
心臓は速く動く。ドクドクドクと、これまで以上に活動しても頭に酸素が回っている気がしない。
ふと、鬼の物音が消えた。どこへ行ったの? もしかして、帰った、とか?
恐る恐る布団から顔を出してみると――
「みーつけた」
「んぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!!!!!!」
鬼が、私のいるベッドのすぐ横にいた!と、状況を理解した時には鬼は頭から地面に落ちていった。軽く鼻血のアーチを作りながら。
え、何で? と、私の手を見ると殴る目的に特化した握りこぶしがじんじんと熱を持って痛んだ。
あ、私。鬼のこと殴ってしまったんだ。
驚きと申し訳なさでいっぱいになりながら床に落ちた鬼を覗くと、赤い鼻を押さえながら涙を流していた。
「あっ、ごめんなさ……」
「俺のデータによると、弱っちい娘ってなっているんだがなぁ。グーパンチをかます娘だとは思わなかったぜ」
いてて、と顔をしかめた鬼は鬼ではなかった。と、言うと変なことになるけど、つまりよ、つまり。
鬼は角と金棒を持つはずなのに、この鬼は持ってないから鬼ではない。
金色のぴょんと跳ねた髪。白い肌。鋭い牙。もこもこの服。……もしかして。
「アナタ、猫さんなの?」
「は?」
「猫さんよね。その顔立ち。ふわふわの毛触り。こないだ触った子よりもちょっとサイズは大きいけど、猫さんなのね!」
ぎゅうっと抱きついた。猫、猫、私は猫さんを抱いている。あの人に見せてもらった時は怯えてしまったけど、こうしてみると可愛いじゃない。でも、この子は親猫なのかしら? こないだの子よりも全然大きいし。
「なに、勘違いしてるか分かんねぇが、この調子ならイケそうだな……おい、娘」
「娘……私のこと?」
「以外いねーだろうが。じゃ、なくて。あんたさ、俺と一緒に外に出てかねーか?」
「外の世界……無理よ」
「どうしてそんなにすぐ答える」
だって、あの人が悲しむもの。私をここから離さない人だけれど、今までずっと私を育ててきてくれたのはあの人だ。今更出てくなんて恩を仇で返すことは出来ない。
それに、あの人が言ってた。「外界は危険」と。ずっと触りたかった猫さんの言葉だけど、あの人の言葉の方がずっと大事だもの。
「無理なものは無理なの。分かって、猫さん」
「っち。しっかり洗脳されてやがるな……じゃあ、無理矢理でも出してやるよ」
猫さんは私を簡単に抱き上げると、光に向かって飛び出した。あまりの眩しさにぎゅっと目を閉じたが、すぐに開けた。
全身を浮遊感が襲ったからだ。
「えっ、きゃっ、きゃぁぁぁぁっ!!!!??」
「ああ、もう。耳元で騒ぐな。ちょっと塔から落ちてるだけだろうが」
「こ、こ、こ、んな高さ。ちょっとな訳ないでしょう! そ、それに、このまま落ちたら私達痛いことになるんじゃ……!!?」
「大丈夫だ。俺、『猫さん』なんだろ?」
猫さんはニヤリと笑うと、塔の壁に何か鋭利な細長い物を刺した。ソレはずががががと私達に酷い音と振動を与えたが、暫くするとしっかりと固定された。
宙に浮くような状態で、外に投げ出されているこの状況なのに、猫さんはニヤニヤ笑っていた。
不細工な私がきゃあきゃあ騒ぐのをアホらしく思ったのだろうか。
「ずっと、身体固くしてたらつまらないだろ。ちょっとくらいは外を見ろよ」
猫さんはそう言って私の顔を無理矢理、外界に向けた。思わず息を飲んだ。
綺麗だったのだ。一面に広がる色。黒じゃない。色がついている。なんて色なのかは分からないけど、あれは多分木だ。木、なんて初めて見た。
「なんだ、楽しそうじゃん。ほら、見ろよ。森の向こうに見える城。あれがあんたの帰る場所だよ」
「私の帰る場所……?」
猫さんが指差したのは木の遥か奥に見える、建物だった。明らかに他の建物とはサイズが違う。なんだっけ、確かあれは……
「お城さ」
「なら、違う。私の帰る場所じゃない。お城はお姫様が帰るところだもの」
「はぁ? あんた、自分のこと分かってないのか?」
「知らないわ。知らなくて良いし……だって、私のいるべき場所はお城じゃなくてあの人の側だもの」
「……はあ。あんた、相当刷り込まれてるな」
可哀想に。と、猫さんは呟いた。
私の何処が可哀想なの? 私が一度も外に出たことがない、不細工だから?
「まあ、また来るわ。そん時はあんたの気持ちも変わってるだろうよ」
すると、壁に宙ぶらりんだったはずなのに、ひょいひょいと簡単に壁を登り上がると、部屋のベッドに私を放り投げた。
「じゃあな」
猫さんは言い残すとまた、外界の世界へと飛んでいった。あんな高さをぴょんと飛んでみせるなんて、やっぱり猫さんは猫さんだ。
そういえばあの人が猫は身体能力が高い生き物だと教えてくれた気がする。
……だけど、それは良いんだけど。猫さんが壊していった壁はどうしよう。あの人は三度目のご飯をここで食べるから、この壁のことも猫さんのこともバレてしまう。
もしかしたらそれで、あの人に怒られたり、嫌われたりするかもしれない。
それだけは嫌だ。
私は必死に部屋にある物を使って、壁の前に置いたりぶら下げたりして、証拠隠滅を図った。