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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

言葉にできない

作者: 近蔦凛是

 諸国を渡り歩く吟遊詩人達はよくこの屋敷を訪れた。

 

 我が家は詩人の後援家として結構名が知れていた。

 たとえ目に入れてもいたくないほど可愛がっていた愛娘が吟遊詩人と駆け落ちしようとも。

 自分の妻が見目のいい詩人と寝台を共にしていようとも。

 歓待した吟遊詩人が家宝を奪い去ろうとも。

 父は彼らを家に招くことを止めるつもりはないらしい。


 生まれる前から詩を聞かされ続けた僕の耳は肥えている。

 正直に言ってしまえば食傷気味で、いっそ彼らの美しい声の届かないところへ行ってしまいたいとすら願うけれど、それこそ詩の途絶えることの無い家で育った僕には耐えられないことだろう。

 母と姉の件でさすがに父も少しは懲りたのか、僕は少年の格好をさせられていた。

 髪は短く、服装も少年のものだ。子供の性別なんてものは、案外着ているもので誤魔化されてしまう。

 教育こそは良家の子女としてふさわしいのものを受けていたが、普段は放任もいいところで、僕はふらふらと屋敷の中をさまよい歩いては、詩人たちのうたう詩に耳を傾ける日々を送っていた。


 僕の耳がその声を拾ったのは偶然だった。

 庭の木陰で転寝をしていた僕はその声に誘われて現に帰って来た。決して僕のために詠われているものではないはずなのに、その声は僕を優しく包み込み心を静かに波立たせた。

 僕はその声の主を探した。

 彼はすぐに見つかった。誰に向かって歌うでもなくただ心のままに言葉を紡ぐ。

 闇のような純粋な黒。彼の背に流れる髪と虚空を見つめる瞳は夜よりも暗かった。

 飲み込まれそうなほどに深い闇。

 言葉ですらない旋律は哀しげで憂鬱で。まるで僕の心のようだった。

 僕の足音を聞きつけてか、ぴたりと声がやんだとき僕はどうしようもない焦燥感に襲われた。

 僕は彼の歌に、声に、戀をしていた。

 

 僕の姿を認めると、彼はにこりと微笑んだ。

 

「何を歌いましょう?」


 彼の言葉に僕は黙った首を振る。

 何かが、違う気がして。

 僕は黙ったまま彼に背を向けて、一刻も早くその場を立ち去りたい衝動に駆られた。

 けれど実際にしたことといえば、消え入りそうな声で囁いただけ。


「そのまま、続けて。邪魔して悪かった」


 僕が謝る必要は欠片もなかったけれど。けれど、何か神聖な儀式を邪魔してしまったような罪悪感があった。謝る僕に彼は少し困ったような微笑を浮かべ小さく首を傾けた。


「お名前をお聞きしても?」


 母と姉の醜聞は知れ渡っていたし、僕はこの家に出入りする詩人たちに紹介されることもなかったから、彼は僕を客人連れてきた子供だとでも思ったのだろう。


 滅多に口にすることのない名前を名乗った僕に彼は少し驚いたようだった。大抵僕の名前を知った人はこういう反応をしたから、特に気に留めることもなかった。

 不遜なことに詠うことのない僕の名前は詩歌音曲の女神の名前で、普段はまるで貴族の子弟のように少年の格好をしているから尚の事。


 さすがに滅多に姿を見せないこの家の次女の名前に聞きおぼえがあったのか、彼はすんなりと僕の立場を理解した。


「お嬢様でいらっしゃいましたか」


 そう囁く声すら耳に優しい。

 だから僕は先ほど詩を中断させた罪悪感も忘れ、少し調子に乗って滅多に言わないお願いというものをしてみた。


「何でもいい。僕のために歌って」


 彼は僕の言葉に優雅に一礼をして浪々と歌いはじめた。

 

 

  私の心はご存知でしょう

  貴女に一目で心を奪われた この哀れな詩人の

  貴女のために歌いましょう 貴女がそれを望む限り

  全ての歌も 全ての声も この心さえ

  貴女に捧げましょう 私の思いの証として

  貴女に愛してもらおうとは思わない

  ただ 貴女のために歌うことだけを許してください

  私を殺す事は簡単 ただ拒絶の言葉一つで事足りる

  貴女を思う私を哀れと思ってくださるならば

  どうか どうか 私の歌を望んでください

 

 

 大昔に実在したという詩人の生涯を綴った有名な古詩だ。高貴な姫君に報われない恋をした詩人が捧げた愛の詩。

 いつもなら、そんな詩はただ嫌悪しか呼ばないはずだった。

 機嫌をとる為だけに愛を囁かれても嬉しくはない。ただイライラとしたやり場のなに怒りだけが湧き起こる。

 愛ゆえに隠され、愛ゆえに遠ざけられ、愛されたいと常に願っている僕には、偽りの愛の言葉は唾棄すべき穢れたものだった。

 

 最愛の二人を吟遊詩人に奪われた父は人を、家族を愛することに疲れてしまったらしい。ただ一人残された僕を決して愛してはくれなかった。真綿でくるむように大切にされている自覚はある。

 けれど、僕の言葉は父に届かない。父はただ美しく優しい彼らの言葉にしか耳を傾けなくなってしまった。

 母も、姉もいない。父は僕を見ない。館にあふれる吟遊詩人たちは僕が後援者の子供だと知ると機嫌ばかりをとってくる。それまでは見向きもしないくせに。

 人々に囲まれて、僕は孤独だった。

 愛してくれるというならば、悪魔に魂をうってでも悪魔の愛を乞うただろう。

 けれど僕は君に出会ってしまった。

 君の声は僕の耳にやさしく響く。

 君の言葉は僕の心を揺さぶる。

 だから、僕は君の詩に微笑みかける。うっとりと愛しさをこめて。

 君は僕の心を寸分の狂いもなく読み取るだろう。

 

 こうして僕らのままごとのような恋は始まった。


    ■ ■ ■ ■ ■


 それから、僕と彼の生活が変わったかというとそうでもない。

 ただ、彼が不定期にふらりと訪れる一日の25分の1時間だけ詩を聞くようになった。

 それが僕らの逢瀬の全て。

 その他の時間、彼がどこで何をしているのか、僕は何も知らなかった。

 ただ、彼は放浪の吟遊詩人ではないようで、いつまで経っても旅立たず頻繁に館を訪ねていた。

 

 彼は歌う。僕はただ黙ってそれを聞く。

 時には目の前で見つめあいながら。

 時には窓越しに顔も見ないで。

 二人の恋に未来はない。

 それでも、刹那の幻だったとしても。

 僕はそれで構わなかった。


 けれど、貴方はそうでなかったのかもしれない。

 だんだんと哀しげに曇る貴方の表情に気づけなかった。

 気づいたとしてもどうすることもできなかった。

 貴方は僕に愛の言葉をねだる。

 けれど、それが一体何の意味を持つというのだろう。

 久しぶりに交わした会話はただ貴方を傷つけるために用意された刃だった。


「貴方を愛しています。

 そう言って、何か益があるのですか?

 愛の言葉を囁いたところで、僕らの関係が変わるわけではないでしょう」


 僕の言葉に貴方は笑った。

 

「そうですね、けれど貴方の言葉を聞きたいと願う。

 私は弱いものなのでしょう」

 

 穏やかに穏やかに。僕の心を侵食し続ける。

 貴方の詩が、声が言葉が僕の心を蝕んでいく。

 それはまるで呪のようで時々怖くなる。

 それほどまでに愛されていることに。そしてそれを喜んで受け入れるほどに貴方を愛している僕に。

 だからこそ、僕は突き放した言葉で貴方を傷つける。

 この言葉にできないほどにあふれる愛を貴方に伝えることなんてできない。

 どんな言葉を持ってしても、到底伝わるとは思えない。

 

「どうしたら、貴女への愛を謳うことができるのでしょう。

 貴女への愛は計り知れない。言葉にすらできない」

 

 麗しい旋律に乗って彼の語る言葉が僕を幻惑する。

 

「ならば黙ればいいでしょう。

 言葉を失った詩人には沈黙のみが友となる」

 

 僕の言葉に酷く傷ついた顔をして彼がうつむいていた顔を上げた瞬間を狙って、僕は彼の唇を奪った。

 心は別ちがたいほどに寄り添っていても、体の接触は数えるほどしかない。それだって、手をとられ口付けをされたとか、偶然に手が触れたとかその類の接触でしかなかった。

 驚いて思わず身を引いた彼の首に腕をかけ、懇親の力で引き寄せた。耳元で囁く言葉はただ一つ。

 

「愛しています。

 貴方を愛しています。

 貴方を、貴方だけを。

 愛しています」

 

 彼の体から抵抗が消えて、僕の背に腕が回る。苦しいほどに抱きしめられて、それでも僕は恍惚と同じ言葉を何度も何度も繰り返し囁いていた。



 あの出会いの日から、何度季節が巡ったのだろうか。

 愛されたい子供だった僕は妙齢の令嬢というものになってていた。

 結婚話が浮上して、今までの日陰暮らしが一変した。

 相手は父の若い仲間で館には詩人楽人がひしめいているという。ただ、そこに彼がいないだけ。

 むしろ僕の扱いは今よりも良くなるくらいだ。

 反対する理由なんて何一つない。

 ただ、諾々と流されていく。残された時間は少ないというのに。


「結婚することになりました」

 

 そう告げても、貴方は穏やかに微笑んだまま。

 

「おめでとうございます。ですが寂しくなりますね」

 

 祝福の言葉に言い添えられた控えめな言葉こそが、貴方の本心であると私は信じたい。

 

「詩って。

 私の為に。

 貴方の愛を」

 

 私の言葉に頷いて紡がれる言葉。これが、最後になる。

 

 

  愛しています 愛しています

  世界がこんなにも輝かしいのは貴女がいるから

  風よ 私の心をあの人に届けよ

  星よ 私の心を永久に記憶せよ

  この想いは もう 言葉にできない

  何度となく繰り返しても 言葉は空転する

  海よりも深く 空よりも広く

  貴女を 愛しています

  言葉を失った詩人に 何の価値がありましょう

  この心とともに 私は去り

  貴女へ捧げた私の詩だけが残る

 

 

 最後に優雅に一礼して、彼は去った。

 その後姿にかける言葉すらなく、私ははじめてこの恋の為に涙を流した。

 

 

 

 夫は優しい人だった。前触れどおりに詩歌音曲を愛し、ついでに美しい歌手の愛人を隠し持っていた。

 別段、怒る筋合いのことではないと私は黙っていたが、誠実な夫は結婚後たった数日で良心の呵責に耐えかねて私を糾弾した。

 

「お前だって結婚前、吟遊詩人の恋人がいたのだろう」

 

 けれど、それがなんだというのだろう。私の幼い初恋とあなたの愛人に何の関係があるというのだろう。私は夫が家財を食いつぶさず私の老後が安泰であるならば、愛人がいようと構わなかった。むしろ、それを奨励したいくらいだったというのに、この人は一体何をそんなにも恐れているのだろうか。

 もちろん、話は私の持参金という酷く世俗的なことに由来するのだけれど。

 けれど、そんな些細な事は彼女の歌声の前には塵のようなもので自分の夫の趣味のよさに感心したほどだった。可愛らしく歌う事だけが全ての純真な娘。それが彼女だった。自分よりも5つ年上だということすら信じられないほどの無垢さ。これらなば大切に囲って保護したい気持ちもわかるというもの。

 夫以上に彼女の才能と人柄にほれ込んで、彼女の親友という位置を確保した私に夫は最初こそ疑いの眼差しを向けていたけれど、そのうち疑うことを諦めたらしい。

 それからというもの、私と夫はよき理解者であり芸術の特に音楽の後援者としての盟友となった。

 結局のところ、私達は似たもの夫婦なのだ。

 

 夫が友人を連れて帰宅した夜、私達は再会した。

 親友なんだと笑いながら紹介したその人は私が愛した吟遊詩人その人だった。

 呆然と立ち尽くす私を不審に思った夫が優しく気遣うような声をかけてくるが、その内容を聞き取ることもできない。ただ、ありえないはずの現実に眩暈がした。


「彼に君のことを紹介されたんだよ。

 彼は趣味で詩を創っていてね、詩人として君に家にも出入りしていたんだ」

 

 そう言って微笑む夫に私は上手く笑い返すことができただろうか。何もかも、仕組まれたことだったなんて。私にはほんの少しの夢さえも許されないのだというのか。


「君はもう、詠わないのかい?僕は君の詩が好きだったのに」

 

「ああ、もう詠うことはないだろうね。詩への情熱は私の中にもう欠片も残っていない。

 これからは大人しく、後援者に徹することにするよ」

 

「そうか、それは残念だね」

 

 目の前で交わされる会話を空虚な微笑を浮かべてきいていた私は、自らの手であの美しい思い出をガラス細工のようなあの日々の記憶を粉々に打ち砕いてしまいたい衝動に駆られていた。けれどそんな事は思うまでもなく、私の心は冷え切りあのほのかに暖かい日々は永遠に凍結された。

 忘れることもなく、砕け散ることもなく、永遠に凍りついたまま。



 夫と彼はとても仲の良い友人でよくお互いの家を行き来していた。仕事上でもよき相棒であるらしく二人は順調に思惑通りにその駒を進め着実に権力の中枢へと近づいていた。

 それでも芸術の音楽の後援者であり続け、彼と夫と妻である私と愛人である彼女と四人で囲む食卓は何故か心地よく、各々の音楽や詩へ対するそれぞれの情熱は常に食卓をにぎわす話題だった。

 彼女に子供が生まれ散々迷った挙句に私と夫の正式な子供として認知し、私と彼女が母と呼ばれるようになり、彼は若くして宰相の地位に納まり傀儡の王を操り始めた頃、夫が不思議そうに彼に訊いた事があった。


「君は結婚しないのか?」

 

 彼は少し困ったように笑った。何時だって不敵に微笑んでいる彼にしては酷く珍しい表情で言った。

 

「私は音楽の女神にこの心を捧げたからね、一生結婚はしないつもりだ。

 かつての私は打算的で野心家で臆病だった。今の私では手遅れにもほどがある」

 

 けして私を真っ直ぐには見つめなくなった彼の後悔がほんの少しだけ私には理解できた。

 けれど私の凍てついた心を溶かすほどのことはなく、私は微笑んでそれを聞き流した。

 たとえその言葉が本心であったとしても、そのとき私は選ばれず、だからこその今がある。

 夫はいい人で、権力者の妻という立場も手に入れた。

 血の繋がりはなくても子供は可愛いし、彼女という親友も手に入れた。

 愛すべき詩歌音曲を庇護し、後援者としての名声も得た。

 今、私は間違いなく幸せで。


 貴方を愛しています。

 そう言って、何か益があるのでしょうか。

 愛の言葉を囁いたところで、私たちの関係が変わるわけではないでしょう。

 全ては手遅れで、今更だというのに。

 それでも私は気づいてしまった。

 私はまだ、彼を愛していると。

 そして、その想いはきっと久遠と悠久の狭間で永遠にたゆたうのだと。



 結婚して10年、諦めかけていたというのに子供ができた。

 

「きっとお姫様が生れてくるよ」


 生れたら砂糖菓子のように甘やかしそうなほど夫は嬉しそうに笑った。

 娘なら、いいと思う。

 彼女と夫と私の可愛い息子は7歳でやんちゃ盛り。けれども優しくて聡明な子供は私のまだ膨らんでもいない腹を撫でて妹でも弟でも僕はいいお兄ちゃんになるよと宣言していた。

 この愛らしい子供が彼の跡継ぎであり続けるためにも生れてくるのは娘がいい。

 きっと息子だったならば、彼女とこの子供は身を引いてしまうのだろうから。

 それでも、夫も彼女も子供も新しく増える家族を心待ちにしていた。もちろん、私も。

 だからこそ、気づかなかった。気づけなかった。

 彼がそれを快く思っていなかったことに。

 

 私の腹がずいぶんと大きくなった頃、夫が執務中に突然倒れそのまま帰らぬ人となり、あわただしく執り行われる葬儀の中で予定よりもずいぶん早く子供は生れた。

 望んだとおりの娘は産声をあげる事はなかった。死産だった。

 愛され甘やかされて育つはずだった娘は父親とともに葬られた。

 

 けれど二重の哀しみに打ちひしがれている暇は私にはなかった。

 若くして権力の階段を駆け上った夫には敵が多かった。

 頼るべき実家の父は既に亡く、夫の親戚は遺産を掠め取ることにしか興味がなかった。私は私達の権利を守るために戦わなくてはならなかった。

 疲れ果てた私に手を差し伸べたのは唯一の見方といっていい彼だった。

 世間では実しやかに双頭の鷲が自ら頭を一つ切り落としたと囁かれていたけれど私達はそんな噂を信じてはいなかった。ただその差し伸べられた手にすがりつくように彼を頼った。

 そんな私に彼は一つの条件を出した。

 

「貴女が私の愛人になってくれるのなら、私はあなた方を庇護しましょう」

 

 それを聴いた瞬間に、私は理解してしまった。

 彼はまだ私を愛していると。

 私が夫の子供を孕んだ事を快く思っていなかったのだと。

 親友であり盟友であった夫を殺すことすら厭わないほどのことだったのだと。

 彼にならば、夫に毒を盛る事は簡単だったのだ。

 慌しく行われた葬儀。証拠は全て土の下。

 私にだって毒を盛ったのかもしれない。娘の死ははっきりしないことだけれど。

 夫も娘も彼によって殺されたのだ。

 それも、私への愛ゆえに。

 それでも、私は彼の手をとらないわけにはいかない。

 私にはまだ守るべき存在があるのだから。

 そう言い訳しながらも、私はまだ心のどこかで彼の手をとることに喜びを感じている。

 脅迫されていると言いながら私は嬉々としてその手をとるのだ。


 夫を毒殺し権力者の愛人に納まったと世間は私を悪し様に罵る。

 それを気にするのは彼女であって私ではない。私の境遇に涙をこぼすのは心優しい私の親友である歌姫で、実のところ私はなんとも思っていない。


 考えることなど、とうに放棄してしまった。

 夫の死の真相を彼女に話すこともできず、彼の手を振り払うこともできず。

 彼の用意した離宮でただ静かに暮らしている。

 

 彼女は私の決定に哀しげな痛ましい表情をしたけれど黙ってついてきてくれた。彼女が傍にいてくれてよかったと心の底から思う。そうでなければそれからの日々は耐え切れなかったに違いないのだから。


 子供は全寮制の学校に入れられた。貴族の子弟の集う名門校で夫も彼もかつては通っていた。夫が生きていても通うことになっただろうから、それはそれで構わなかった。ただ、醜聞の渦中にいる身では色々と悪意や好奇の視線を受けることになるだろうと思うと不憫だった。


 彼は私は真綿にくるむように大切に扱った。彼の真意は私にはわからない。ただ私は人形のように諾々と彼に従った。彼が私に優しければ優しいほど私の中の罪悪感は雪のように降り積もり、そう遠くない未来に私はきっと押しつぶされてしまうに違いないと思っていた。

 無責任にも私はそれでいいと思っていた。そんなことを考えるときは彼女のことも子供のことも彼のことすら頭になく、ただただ私自身の安息を求めていた。


 その腕の中に私を閉じ込めているというのに何が不安なのか、以前とは打って変わって彼は熱に浮かされたように愛を囁く。そして、私に同じ言葉を求める。

 けれど、それが最後の矜持なのか私はその言葉を返せない。

 そんな私に彼は苛立ち、けれどよりいっそう私に優しくなる。

 それは私にとって息がつまるほどの重圧となる。

 

「貴方を愛しています。

 そう言って、何か益があるのですか?

 愛の言葉を囁いたところで、私達の関係が変わるわけではないでしょう」


「それでも貴女の言葉が欲しいのです」

 

 かつてと同じように彼はそう言って悲しげに微笑んだ。

 

 

 

 子供ができたと彼に告げた時、彼は一瞬表情をなくしそれから酷く喜んだ。

 毎日顔を見に来てはまだ膨らんでもいない腹に話しかけている。

 襲い掛かってくる悪阻にぐったりとしていた私は、ただ眠りたくて彼に詩をねだった。

 

  おやすみ、おやすみ、愛し児よ。

  眠り誘う歌に導かれ、

  真綿の夢に包まれて、

  おやすみ、おやすみ、愛し君よ。

  私の腕のその中で、

  心安らかに眠るがいい。

 

 全盛期とは比べ物にならないほどにたどたどしい歌声はけれど確かにかつて私の愛した吟遊詩人の声で。

 あれ以来、一度として聴いた事のなかった彼の歌声に私は安心して眠りについた。

 うつらうつらと夢の中で彼の声を聞いた気がした。

 

  愛しています 愛しています

  暗く淀んだ世界の中で

  貴女だけが光り輝く

  私を導く希望の星よ

  愛しています 愛しています

  たとえ苦しむだけの恋だとしても

  貴女を手放すことはできない

  私を破滅させる愛しき君よ

  愛しています 愛しています

  言葉を失ってなお

  貴女に告げるために紡ぐ詩

  私を愛さぬ孤高の華よ

  愛しています 愛しています

  どれほど言葉を紡いでも

  足りぬ想いがもどかしく

  貴女への想いは 言葉にできない

 

 

 近くて遠い昔に彼が私のために詠った詩が最後の言葉。

 私はそれ以降、彼の詩など聞いてはいないのだと。

 それでも哀しくなるほど幸せな夢を見る事は許される。

 だから、これは全て夢。


 生れてくる子供はきっと愛されて。

 幸せだと思える日がきっと、いつか。

 私にも、貴方にも訪れる日が来るのでしょうか。


 陽だまりの中で私は未だに混乱しながら、

 それでも祈らずにはいられないのです。

 

 貴方を愛しています。

 

 それはけして変わらぬ真実。

 けれど私は。

 言葉にできない。

 

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