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群青海月(一)

 最後。

 最後だ。

 如何なる理由があり過程を経たとしても必ず末端にあるから、最後という。

 終わりとは何時になってもどんなものにでも訪れ、頭と胸を締め付けるような実感のない痛みを伴う。人と物によって痛みの程度は様々だが、此度のそれは多大な質量で以て心を支配した。

 惜しい。

 別れるのが惜しい。

 惜しいからこそそれは痛みとなり、終焉という惜別の確かな証となる。

 正確には当面の別れでありこれが永別というわけではないが、再会が約束されているわけではない。個人的にそうするつもりはないが、現状で先行きが見えない以上、その覚悟を以てこの場の儀式に臨むべきだ。

 さらば、と今伝える為に。

 いずれ、と今言う為に。

 この場は盛大に別れと再会を祝おう。

 さぁ人が来る。

 宴の始まりを伝える、天上の使いが悠然と来るぞーー。


肉鍋(ししなべ)一人前・大になります」


 ようこそ肉よ。

 そして肉よさらば。




     **********************




 武家総領による封建社会の終わりを告げた政変から二十年を越えるだけの時間が経過した。

 閉ざされた世界を開くに足る力はあまりに強く、その余波は中核を担う体制だけでなく末端である庶民の生活をも変質させた。

 中でも最たる物は食だ、と当時を振り返って人は言う。

 かつての食事と比べ豊満で芳醇な味わいと質量の変化。

 その象徴の一つがこの鍋であり、肉食だ。


「うまい」

 左手の小皿で僅かな休止を経て、鮮やかな黄色の糸を引きながら味噌茶の薄切りが口中を幸福に蹂躙する。

 溶き卵に包まれた牛肉、そのまろやかな下地とたれの強い味わいがもたらす美味と言う名の悦。

 呟きはほとんど無意識だった。

 白と赤の味噌二種類を混ぜ合わせた専用のたれと、鍋の内周をなぞるように塗りこまれた牛脂は煮込み合わさることで鍋の上、舌の上で極楽を演出する。

 今回はこの国での肉食の始祖である味噌風味だが、これは現在並と称される安価なものであり、この上には醤油の刺々しさを砂糖の甘みで包み込んだ割下と呼ばれる混合調味料で各種野菜や豆腐を一緒に煮込んだ牛鍋と呼ばれる上物が存在する。

 肉だけでは腹への負担が大きく味も濃厚過ぎる為、それを緩和する為の色鮮やかな野菜と淡泊な豆腐で両者に緩急を与えるのだ。

 野菜の味わいがタレに溶け出し、また肉の旨みも野菜へ加わり、これがまた肉単品では到達できない食の境地であると思う。

 本来ならその上物で盛大に弔いたかったが、それでは量の保証がない。

 ただでさえ酒……こちらも海外伝来の麦酒を我慢しているのだ。どうせならそれなりの量を頂きたい。

 以上酒やら量やらを引き合いに出しているのだから別れの理由も至極簡単、単純に金欠なのだ。

「うまいなぁ」

 我ながら染々とした響きだ。別れは何時になっても人を情緒的にさせる。

 ここ一年の心労はそれまで二十四年の積み重ねの一切を無に帰すほどの傷となっており、未だに出血止まぬ重態。特に後の半年は痛み止にと食と酒を毎日のように浴び倒すこととなり、百姓十年の稼ぎと比べて尚余りあった貯蓄は底穴の開いた水樽が如く目減りし、金の水流が生み出す放物線は各飲食店に収支の結果で見事に笑顔の虹をかけた。

 その引き換えが今の惨状である。

 流石にこの一ヶ月は後々のことを考えて控え目になりはしたが、控え目になっただけで一般的な食事内容と比べて豪勢であったことに変わりなく、心許なかった懐は今日この卓を最期に肉鍋一回分の余裕も残さず素寒貧へと堕ちるに至る。


"我慢すれば良かったのに……"


 などと幾度考えたか知れず、実際翌日には軽くなった財布を抱えて鬱々と沈むことになるのだが、そこから快復する為の薬として肉酒が必要となり、一時の酒池肉林に痛みを忘れてまた沈下、浪費を経ての上昇を繰り返す。

 麻薬の抜け出せない螺旋か蟻地獄とは正にこうなのだろう。

 ……仕方ない。

「うまいんだから」

 仕方ないじゃないか。

 肉と共に煮込まれた厚切りの葱から染み出た純度の高い甘味がタレに果てしない深みを生み出し、咀嚼する今この瞬間に忘我の域へと自分を誘う。

 葱という奴はその辛さで薬味としての優秀さを評価されても、同時に辛さ故主役であることを許されない脇役を宿命づけられた食物だと思っていたが、徹底して火を通すことにより生まれる砂糖もかくやという甘みは今鍋の中で肉にすら負けんとばかりに意気を奮っている。

 鍋から立ち上る湯気のせいか、視界だけでなく思考にも薄白い靄がかかったような感覚。

 もう何度箸を口元に運んだか、朧気にすら覚えがない。

 夢心地。

 天上楽土。

 三千世界に祝祭の極み。

 不確かな世界唯一、味覚だけが幸いを高らかに叫んでいる。

 これだ。

 この為の俺だ。

 そして、この為の人生だ。




 酒も入っていないのに味に酔う己の本能へと理性の呼びかけが聞こえる。


「減っていく肉を直視できないだけではないのか俺よ」


 大丈夫だ。

 分かってる。

 だから今暫く黙ってろ。




     **********************




 砂を踏む己の足音が連続する。

 じゃり、じゃり、と遅めながらも小気味良い拍子だ。

 冬を過ぎてまだ間もない時期と言えど、昼頃の陽気は昼食後の体温と合わさって汗ばむ程度の熱気となる。身軽で空きの多い作務衣はこういう時に有り難い。

 胃袋は笑いながら限界を訴え、舌も口中に残る後味の余韻に痺れている。

 甘みを含んだ味噌の匂いを漂わせる己の身体は昼飯を食い損ねた忙しない連中にとっては本能をこれでもかと刺激する劇物のようなものだろう。

 昼から肉を食し、その匂いを纏いながら味の幸福に酔いしれ悠然と歩く姿は庶民の幸福をこれでもかというくらいに体現した姿だ……その自覚は自分にもあるが、それでも頭の芯では後悔が黒い渦を巻いている。

 渦の内側は単純だ。


"何故肉を食った"


 である。


 今や市井の末端にまで広まった肉食という贅沢であるが文字通り贅沢品の趣は今なお強く、思いつきで足を運ぶには高級品の輝き強くそして重い。少なくとも素寒貧に限りなく近い男が記念だ儀式だと手を出していい代物に非ず。

 ただ食うだけなら簡単だが、今日食って明日は関係なしと行かないのが庶民の無常。先の鍋一回がどれだけの日数の食費と賄えるか、分かっているが直視したくはない。

 ……かつての粋でもあるまじ、宵越しの銭無しというわけではないから考え無しで暖簾をくぐってない。が、その代償に数刻後相応には自尊心を傷付ける結果が待っているだろう。

 じゃ、しゃ、しゃり、さり、砂噛む足音も擦れるような軽音へと堕ちぶれていく。

 暗澹とした内面故か、足音から力が無くなり歩みも左右にぶれている気がする。

 頭の中身が目玉と一緒に後ろに引っ張られている感覚を覚える。

 溜め息も吐く。

 自分はどこまで落ちるのか、何時になったら下り坂は終わるのだろう。

 嫌だ嫌だと考えて、何時までも着かなきゃいいと思っていても、思っていたから覚悟の前に足は止まる。幸福も後悔も、時間の感覚を望まぬ方向へ加速させるのは同じだ。

 顔を上げれば、視界にはまだ新しさの抜けきらない横に広い西洋建築。

 背の高い格子門扉の前にぴしりと青い詰襟を着こなす直立不動。

 門の端には木製の看板で『警備保安支局』と黒く記されている。

 警保局と略される、政変後に組織された公的な秩序保全機関。

 見飽きるほどに眺めた目的地の光景、それは官憲の巣だ。

 何時も訪れるのが昼過ぎくらいだから、門前当番の職員も自然同じような顔ぶれになる。

 馴染みと言ってもいいくらいには顔を合わせている筈なのだが、向こうは何時も無表情か眉を顰めて不快感を伝えてくれる。しかも今日は殊更だ。して、今回の原因が自分の漂わせている芳香だと気付くには少しかかった。

「昼時の任務は辛いよなぁ」

「分かってるなら自重しろ糞野郎」

 吐き捨てられた。

 しかし原因が分かれば見下す、というより怨嗟に近い視線や口調も得心がいくというもの。

 他人の仕事を邪魔する趣味はないし同情もするので身分確認が済めばとっとと邸内へと足を入れる。

 己を見送る視線を軽々受け流しながら前へ進む。せめて自分の残り香で無聊を慰めて欲しい。

そうして門前の見習いに対し僅か抱いていた優越も、外観と同じ西洋拵えの戸前に至っては道中の後悔を思い出して鬱々と泥沼に沈む。

今回はどれだけ頭を下げればいいだろうか。


サブタイはLAST ALLIANCEの『群青海月』から。



暫く色気の欠片も御座いませぬ。

食い気で許して下さいませ。

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