聴覚障害者の日常 〜幼児会話〜編
子供たちの幼児期は主に保育園や幼稚園にお世話になった。
その頃は2年おきの転勤だったのだが実家には近くはなく、ほとんど一人育児だった。
一人でもどうにかしてきたが、孤独な育児は精神的にキツいものがあり、アタシはインターネットで、多胎育児を頑張るお母さんたちのホームページを探し、情報交換することで、どうにか社会生活ができていたように思う。
子供たちとの会話は声をかけながら、簡単な手話、身ぶりをつかった。おそらく、ベビーサインというものに近い。(ベビーサインがどんなものか知らないので、勝手に見当をつけているのだが、ひょっとしたら違うかも知れない)
「おしっこ」、「ウンチ」は、手のひらを股の前にポンポン、お尻をポンポン。
「お腹がすいた」はお腹をてのひらで押さえる。
「のどがかわいた」はのどをてのひらでなでる。
そんな簡単な動きは、幼児でも容易にできるので、そんなには困らなかった。
困るようになったのは、保育園や幼稚園に預けるようになってからだ。
社会生活は、たくさんの言葉を覚えていく大切な場所だが、逆に私との会話に支障が増えていくことにもなった。
時間や経験を共有していると、だいたい、このことかなぁと見当をつけられるが、預けている間は当然何があったか知らないわけだ。
さらに、細かい動きが難しい幼児には手話は難解で、なまじアタシがしゃべるので手話より口話に比重が傾いてしまったように思う。
3人はまだまだ幼くてそれぞれにしたい放題だから、手話で制止するにも1対3では無理があり、声で制止せざるを得なかった。
九州にいたときは子供たちは3才、近くに頼れる人がおらず、福祉課に訊ねて市の聴覚障害者協会の会長さんにあうことができたのだが、その会長夫妻には本当にお世話になった。
夫妻は手話オンリーの聴覚障害者だった。彼らはいつも様子を見に来てくれて、孫を可愛がるように接してくれた。お陰で、子供たちの手話が少し増えたのだ。可愛がってくれる夫妻には、手話でないと言いたいことが伝えられない、と肌で感じたからだろう。その後は手話のある環境に恵まれず、退行することになってしまった。残念だ。
今は、娘だけ指文字と簡単な手話を使う。男組は幼児期に覚えた手話のみであるが、思春期まっただ中、手話はあまりつかいたがらないようである。
でも、まぁ、それなりに親子でコミュニケーションがとれていれば、どんな形でもいいか〜、と思ってはいる。
聴覚障害者の家庭にいるから必ず子供や家族が手話が出来るとは限りません。様々なケースがあると思ってくださるとありがたいなぁと思います。
夫は手話サークルに行ったことはありませんし、子供たちを手話サークルに連れていったこともそんなにありません。
私自身は、両親が手話に否定的で、手話を覚え始めたのは両親から離れて独り暮らしをはじめた学生時代からです。厳密にはネイティブサイナー(手話を第一言語とする人)ではありません。
聴覚障害者夫婦のお子さんは両親二人ともがネイティブサイナーだと、自然と手話ができるようです。そうした子供たちをコーダと呼ばれているそうです。
手話は言語だと認められたのはつい最近で、まだまだ認識は低いそうです。
まだ過渡期ではあるようです。
説明していくと本文より長くなってしまうので、ここまでにしましょう(汗)