4.
パタパタと走っていく二人の足音を聞きながらガウディアは微笑みながら鎧戸を閉め、ふと、棚の上に置かれたこじんまりとした鏡台に目をやった。
宿のおかみが女三人なのに鏡もない部屋なのを気にして、わざわざ貸してくれた物である。
ブラシ程度しか置かれていない鏡台に、一つだけ娘らしい物が置いてある。
丸く磨き上げた水晶に、花を閉じ込めたペンダント。
透明な水晶の中で、小さな黄色い花が色あせる事無く咲いている。
不思議な石は、邪眼の魔導士の手によるものらしい。
公子から送られたお守りだと、真維が言っていたのを思い出す。
真維に良く似合う日の光そのもののような花。
五月という奇妙な名前の花を見るに付け、セイルロッドが真維をグリフに赴かせた事を不思議に想う。
この花を贈った公子が彼女をどれだけ大切に想っているのか、僅かでもカリストの内情に詳しいものなら良く知っている事だ。
仮にも一国の世継ぎが、何の官位も持たない一介の女魔導士を婚約者にしてのけたのだ。貴族達や元老院の反対にすら、耳を貸すことは無かったという。
それほどまでして手に入れたはずの少女を、彼はなぜ手元から飛び立たせたのだろうか?
真維が自分の意志を押し通したのだと聞かされても、釈然としない疑問が残る。
あの少女の笑顔を手に入れて、手放せる者がいるのだろうかと……
セリフイスに心酔し、忠誠を密かに誓っているガウディアですら、真維の笑顔には弱い。
太陽のような笑顔を裏打ちする、真っ直ぐな心。機転の利く聡い目と鋭い洞察力。
そして何より、己の信じる道を突き進む強い心。もしセリフィスの前に彼女に遭っていたら、自分もまた信奉者の一人になっていたかもしれない。
グリフに入って三日目の晩が思い出される。
セリフィスから、イ・コルネというガウディアの本当の名を聞かされながら、あくまでガウディアと呼びつづける真維に、彼女は元間者としての疑いを解かれないのだと落胆していた。
なにせ相手は筆頭魔導士代行なのである、白鴉の名は闇の世界では知れ渡っている。
白鴉がとれほど狡猾に立ち回り、必ず目的を遂げる非情さを持ち合わせているのか、真維は知っているはずであった。
交替で火の番をする旅の夜。起きてきた真維に、ふと自嘲気味にそう漏らした。
しかし返ってきた言葉は、予想にもしていないものだった。
「あたしがあんたの本当の名を呼ばないのは、その名前が、フィーにだけ教えられたものだからだよ」
驚き見詰める彼女に、真維はにっこりと笑って見せた。
「フィーに呼んで貰いたいから、本当の名前を教えたんでしよう? あたしが呼んでいい名前じゃないもの」
そして真維は、きっぱりと言い切ったのだ。
セリフィスが信じている人を、自分が疑う事は無い。と……
ふと悪戯心が首を擡げ、裏切られたらどうするのか? と聞いてみる。
栗毛の少女は簡単に答えてきた。
「それはしょうがないよ、信じたのは自分だもん。裏切られたからって相手を恨むのはお門違いでしょ? 自分の見る目が無かったって事だよ。でも、人から信頼された人が、それを裏切るのって、なんか大変な理由があることだとも思うんだ」
甘いかな? と笑い。次いで気遣わしげに、白鴉がグリフに来ても大丈夫なのかと聞いてきた。寝返った間者である彼女がどれほどの危険を冒しているのか、真維にはその方が気がかりのようであった。
白鴉の素顔を知るものは、ここに居る二人しか居ない。だから気に病む事はないと安心させながら、ガウディアは今までの人生で二度目の衝撃を受けていた。
自分を許したセリフィスの純粋さに打たれた衝撃と似ていた。
こんな年の少女が、何故ここまで達観した物の見方ができるのだろう? どうしてここまで強く心を持てるのだろう?
自分とはまったく異質の魂をもつ少女。しかし、惹かれずには居れない。
ガウディアはあの夜から、この稀なる二人の少女を守ろうと心に決めていた。
たとえ、自分の命と引き換えにしても。
「真維……わたくしは、貴女にも、イ・コルネと呼んでもらいたいのよ……」
五月の花に向かってそう呟いてガウディアは、賑やかになってきた階下へ降りるべくそっと部屋のドアを閉めた。
少女は、声にならない悲鳴を聞いていた。
一日に数度この時は訪れる。
命を貪り喰われる激痛に影がのたうつ。
碧玉の瞳が、その様を静かに見詰める。
やがて動かなくなった影に、少女はふわりと歩み寄る。
「死んじゃった?」
答えはない。
「今夜はお月様が出てるよ」
答えは待たずに、天井にある明り取りから差し込む僅かな光の柱へ、足音も無く駆け込んでいく。
光の中で、少女が踊る。
金色の髪が月光を反射しながら拡がる。
「赤い赤いお月様……あんたの恋人だね」
影がゆらりと起き上がる。
少女に向けて首を振ったようだが、光の中で踊る少女には闇に沈んだ影は見えなかった。