精神科で見た、無法地帯
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見習いだったころ、
定年前のベテラン看護師がプリセプターについた。
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口は悪いが、
育てようとしているのは伝わっていた。
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「おい、神谷。今日空いてるか」
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断る理由はなかった。
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そのまま家に呼ばれ、
晩酌の相手をすることになった。
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「お前は大人しいが、ちゃんと話を聞く」
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男はグラスを置いて言った。
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「それでいい」
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「でも、もっと話のスキルを――」
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「違う」
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言葉を遮られた。
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「説得なんか医者に任せろ」
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「看護師はな、聴くことだ」
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少し間を置いて、
続けた。
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「それと、“観る”ことだ」
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視線が、こちらに向く。
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「患者は嘘をつく。自覚があっても、なくてもな」
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「だから、神経を張り巡らせろ」
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「小さな変化でも、命取りになる」
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男は、ゆっくりと昔の話を始めた。
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「昔は夜勤、2人だった」
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「巡視も2人でやる決まりだったがな――」
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苦笑した。
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「回らねえから、1人でやってた」
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「ある日の夜勤だった」
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閉鎖病棟に入った瞬間――
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「いきなり、飛びかかられた」
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複数人だった。
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抵抗する間もなかった。
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「リンチだ」
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短く言った。
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「巡視が遅いってな」
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その病棟には、
リーダー格の患者がいたらしい。
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周囲を従えて、
問題を起こしていた男。
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「普段から、きつく言ってたからな」
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「恨みだろう」
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応援が来て、
なんとか収まった。
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その後、
リーダー格は保護室。
他は分散された。
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「それからだ」
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「2人巡視が徹底されたのは」
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グラスの氷が、
静かに音を立てた。
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「おかげでな」
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「今は、ある程度読めるようになった」
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男は最後に言った。
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「もう一つだけ、覚えとけ」
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視線が、刺さる。
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「距離感を見誤るな」
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あの言葉は、
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今でも、
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忘れていない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
現場では、ほんのわずかな判断の違いが
大きな結果につながることがあります。
あのとき聞いた言葉は、
今でも強く残っています。
距離を間違えないこと。
それがどれだけ難しいかを、
日々感じています。




