3.後ろ歩きで逃げる
お正月というのは、あんまり好きじゃない。私は墓参りも、お年玉をもらいにも行かずにベッドで一人、不貞腐れていた。
思い出したのは今朝のことだ。おせち料理を食べて――これもあんまり好きじゃない――いると、当然のようにお婆ちゃんの家に行く話になる。
母は断られると思っていなかったようで、私が「行きたくない」と言えば困惑し、母の十八番の「なんで」攻めに合った。
私は一貫して、「行きたくない」で通した。母にとっては本当に心に染み付いた、当たり前とさえ思わないものだったようで困惑していた。やがて私がおかしいような気がしてきて、私は部屋に閉じ籠った。
「お婆ちゃんに顔をみせてあげないと」
私の感情を顧みない声に苛立った。祖母にあったら何か言われるに決まってる。たとえそれが責める言葉でも、叱ることでなかったとしても年寄りの考え方は気持ち悪くて吐き気がする。
お年寄りといえば、6年生の時に、ご近所さんから赤飯を貰ったことを思い出した。私が「お股から血が出てる!」と近所に聞こえるくらいの大声で泣きじゃくっていたことが原因だけど、それでも気持ち悪い。嫌なことを思い出してしまった。
だから、機嫌悪く私は言い放った」
「もう放っといてよ、家にいちゃいけないの?頭が痛くて、それを理由に休んだら、それは駄目なことなの?」
「そうだけど……でも、お墓参りも、初詣もしないと――」
「仏様も、神様もいない。祈って解決するなら、私はもう元気になってる」
「でも、もしかしたら、神様にお願いしますって頼んだらなんとかなるかも」
なんとなかなる、母の座右の銘か何かなんだろうか。そうじゃない、そうじゃないよ、お母さん。神様はいないとか、そんなの本当は関係ない。
神様でも、仏様でもなくて私は母に救ってほしかった。顔も知らない、雲の上にいるような上位存在よりも、身近な人にわかって欲しいのに。
でも、私の口はそんな言葉を発しない。共感から遠い言葉を我武者羅に吐き出すだけだ。
「そういう甘ったれた所が嫌い、嫌い!お母さんなんて嫌い!どっか行ってよ!」
しまったと、そう思った時にはもう遅い。はぁ、と、その溜め息は学校に一切行っていなかった時に聞いたもので、失望したような、諦めのような吐息。
何も言わず、母の遠ざかる足音が聞こえた。
やめて、やめて。私を一人にしないで。ごめんなさい、その六文字が遠くて、私は涙する。
「いかないで……」
矛盾だらけの自分の心が嫌で、もどかしくて、叫びたくなるような気分に襲われる。
窓を開けたのは自分を傷つけるためだった、凍てつく冷気が首筋を撫で、鼻の奥をつつく。
「っくしゅん」
くしゃみをして、自分は何をしてるんだろうという気持ちになりながら布団に避難する。そうすると、頭は寒くて、首から下は暖かい。ペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱いて、目を瞑る。
凍ったような頭は思考を停止させ、ぬいぐるみから帰る命の熱の反芻はそっと私の体を包み込む。
可哀想だろうと、布団にくるまっている私は悲しく見えるだろうと、誰にも見られていないのに、そんなことを思う自分が嫌で、私は目を閉じた。
*
自分の部屋のドアが内開きだった、ことに心の底から感謝したい。お陰で現在外敵を防げている。
ドアの向こうでおばあちゃんが何か言っているけど、耳を塞いでいるので聞こえない。無理矢理開けようとしているけど私が頑張って踏ん張っているので開くことはない。
まさかあっちから来るとは思わなかったと考えていると、スマホが鳴った。お母さんからだ。
[おばあちゃんに顔くらい見せてあげて]
[顔を見せたらまた嫌なこというでしょ?]
[おばあちゃん心配してるから]
話が通じている気がしない、顔を見せたらなんだっていうのか。
でも、悪い子だって思われるのは嫌だった、もう手遅れかもしれないけど、嫌なものは嫌だ。
勇気とは言えない感情、強いて言うなら逃げで私は扉を開いた。
すると祖母に肩を掴まれた。しわくちゃの手からは沢庵の匂いがした。
「楓夏!どうして出ないの、心配したじゃない」
「ごめ――」
「ちゃんとご飯は食べてるの?またちょっと痩せたんじゃないの?ねえ、何とか言って」
言おうとしたのに矢継ぎ早に話すから言葉も出せないのだ。そんなこともわからない祖母の頭の構造は理解し難い。
イライラを抑えつつ、幾分か冷静に答える。
「大丈夫だよ、ちゃんとしてるから」
「そう?学校は?ちゃんと行けてるの?」
「終業式には行ったし、保健室登校だけど行ってたから、大丈夫」
「勉強は大丈夫?ちゃんと、ついていけてるの?」
「それは……」
「無理だったら家庭教師でもなんでもつけるからね、付いて行けなくなったら馬鹿にされて、大変だからね。おばあちゃんが子供の頃なんて――」
「わかった、わかったから」
私は祖母のしわくちゃの手を振り払った。そうしたら「まぁっ」といつも通りの反応をするのは至極予想通りで、わかっていても心が痛い。
「楓夏――」
「全部わかってるから大丈夫!」
顔は見せた、だからもういいんだ。そう言い聞かせながら部屋のドアを勢いよく閉めた。
「手を挟んだらどうするの!?」
祖母の怒る声が聞こえる、知らない、どうでもいい、鼻の奥に残った祖母の匂いが気持ち悪くて吐き気がする。
肩を掴まれたパーカーは着替えないとなとか、祖母がいなくなったら手を洗いに降りよう、それまで何処にも触れちゃいけないなとか、そういうことを考えて嵐が過ぎ去るのを待った。
昔は祖母ともっと簡単に、楽し気に、嬉々として話せていた気がする。しわくちゃな手に頭を撫でられるのを好んでいた気がする、ワンパターンな善意に素直に喜んでいた気がする。
いつから私はあの人が嫌いになったんだろう、いつから、あの漬物の匂いを忌まわしく感じるようになったんだろう。
どんどんいろんな人が嫌いになって行く。そんな自分のことも急速に嫌いになって行く。
拒絶する自分が嫌いだ、だからって全てを迎え入れることなんてできなくて、そのギャップからまた心に繭を作っている。
どうすればいいのと、考えたって答えは出ない。
*
冬休みのワークは答えを見ながら終わらせた。最初はきちんとやろうとしていたけれど、だんだんわからなくなっていって答えを見ながらそれを理解しようとし、最終的に頭痛が酷くて何にも考えられなくなったので丸写しした。
頭痛が悪いんだ、難しいことを考えていたら邪魔をしてくるから勉強もまともに集中出来はしない。
始業式には行くと、母に伝えた。朝ごはんを食べて、歯を磨いたり顔を洗ったり寝癖を直したり、諸々終えて部屋に戻ってベッドに寝転がり、カチ、カチと音を立てる秒針をじっと見た。
あとは制服を着て冬休みの宿題の入った鞄を持って外に出る、それだけだ。
行きたくない、けれど行かないと後悔するともわかっている。このまま何もしなかったら休める、制服を着てしまえばもう逃げられない。
頭痛?勿論痛い。この状態で体育館に立つという地獄はもうこりごりだった。
カチ、カチ、時間が過ぎる。残り5分、私は立ち上がった。
明確に決断したわけでもなく、ただ流されただけだった。母に「なんで着替えてないの!?」と言われるのが嫌で、私はワイシャツのボタンを留め、ブレザーに袖を通すのだ。
行きたくない、あの目をもう向けられたくない、もうあの頭痛に耐える地獄に身を置きたくない。
そう思いつつも鞄を持ち、姿見で身だしなみを整えている。鏡に写った自分は普通の女子中学生に見える、誰も気が付かないだろう、これが不登校で、毎日頭痛に耐えている女の子だって。
一階に降りると母は眠そうな目で歯を磨いていた、すれ違った時に「ちょい待ち」と言われたのでもう逃げられない。そう思ったらお腹まで痛くなってくる。
靴を履くとき、わざと靴紐をほどいて結び直し、さっさと車に乗ればいいのに、ゆっくりとした動作でドアノブを掴み、そのまま静止する。
これを開ければ学校に行かなければならない、これを開ければ、地獄に足を踏み入れなければならない。
それだけじゃない。今日行って、また明日は?保健室登校になって、「あの日は来てたのになんで来ないのかな?」なんて噂されて、しまうんじゃないの?
そもそも、終業式の日行ってしまったのだから、私はもう大丈夫だって、そう思われてるんじゃないだろうか。母だって、当たり前のように私が学校に行くと、教室に行くと言えば「了解」と返事した。私にはもう普通が求められているんじゃないだろうか。
保健室登校というぬるま湯に浸かっていると、責められるんじゃないだろうか。その中途半端さに、周囲の視線に、声に、私は耐えられんんだろうか。
怖い。そう思った時、私は部屋に引き返していた。
「楓夏?忘れ物?」
「行かない」
「え?」
階段の下、母は驚いた顔をしている。
「ごめんなさい、学校行かない」
「……そう、わかった」
なに、その沈黙。
ねえお母さん、何を思ったの。
ねえお母さん、なんでそんな困った顔をしたの。
なんで、追いかけて来てくれないの。なんでそんな簡単に許せるの。
怒って欲しいわけではない、でも怒らないと失望されたみたいで悲しくなる。
どっちに転んでも不幸しか生まない二択、それを作ったのは私だ。
廊下に座り込んでいると、母が学校に電話している。ごめんなさいと、急に嫌になっちゃったみたいと、そんな声が聞こえてくる。
急ではないのにと、微かな反抗心が胸の内に燻るのを感じつつ、自室に戻り、私服に着替えてベッドに倒れ込んだ。
ああ、私が少し勇気を出していたら嫌な顔をしながらも今頃車に乗って学校に向かえていたんだろうな。なのに今私は何をしているんだろう、どうして横たわってしまっているのだろう。
私は泣いた、静かに泣いた。やがて足音が聞こえ、顔面を枕につけた。
「楓夏、先生はいつでも来て良いって。お母さん仕事行くけど、自転車で行ける?」
「行かない」
「え、泣いてるの?」
「行かない」
「どーしちゃったのほんと」
「触らないで」
「えー……何か食べたいものある?」
「ない」
「別に今日行かなくたって明日、また明日があるから、ね?」
私の選択を、私の苦しみを蔑ろにされた気がして涙か溢れて、嗚咽が漏れた。
それを母がどう解釈したのか知らないが、そっとベッドの縁に座り、私の頭を撫でた。
母はずっとそうしていた、私が泣き止むまで。
「お仕事行かないの?」
「娘が泣いてるのに行けるもんですか」
いつも隠私がれて泣いてる時はお笑い番組で高らかに笑っているくせに。
「大丈夫だから、行っていいよ」
「大丈夫に見えないんだけどなあ」
「お母さん居ない方が安心するから」
本心であり、嘘でもあった。
一人の方がありのままでいられるから楽だ。母がいた方があったかいから楽だ。
傷つける言葉だとはわかっていた、現に母は僅な沈黙で、また言葉を飲み込んでいた。
「わかった」
なら一人で泣いていろと、そんな言葉が言外に込められた声音。
母が居なくなるのに安心する自分がいる、母が居なくなるのに寂しがる自分がいる。
一つ確かなのは、布団が暖かかったことだけだった。
*
明日は行く、明日は行くと決意してはドアの向こうに行けることはなかった。不思議な話だ、前は簡単に保健室登校できていたのに今はできないのだから。
彼処は安全な場所のはずだった。視聴覚室だったり空き教室だったり、コンピューター室だったり、会議室だったり……朝陽朔也君とその他不登校がペンを動かしたり、顔を俯かせる場所は安住の地のはずだったのに、そこの子達にすら、姿を見せるのが怖い。
日に日に精神は磨耗していった、他ならぬ私の手によって。勝手に妄想して、目線を想像して、非難の声を幻聴で聞いて、気が狂いそうになったし、日中疲れないせいで夜は眠れず、暗闇は私の濁った思考を掻き立てた。
こんな時和奏が来てくれてきっかけをくれたらよかったけど、特に連絡してくることはなかった。
こんな時、魔法みたいに誰かが助けてくれるような展開も、何もなく、自尊心を擦り減らしながら毎日を過ごした。
お小言というか、叱りというか。なんにせよ母に呼びつけられたのは1月も終わろうとした頃だった。
「ねえ楓夏、これからどうするつもりなのか、教えてくれない?」
ほんの少しの苛立ちを抑えきれていない母の声は、私を傷付けるのに十分すぎた。
リビングに父はいない、彼は優しすぎると自室に帰らされていた。リビングにテレビの間抜けた声は無い、だから沈黙さえ私を責めているようだった。
「どうするって、言われても」
「このまま学校に行かないつもりなの?それとも、もう一回頑張ってみようって、そう思ってるの?」
もう一回?もう一回じゃないでしょ。一回やったら二回目を要求するんでしょ、期待するでしょ。そうやってそれは一年になって、高校になる。
わかっている、母が言っているのはきっかけだって。一歩踏み込んだなら体が自ずと前に出るように、そうして二歩目が出るような、そんな一歩を求めているんだって。
「頑張ろうとは、思ってる。でも行こうって思ったら、体が竦んじゃう」
「でも前は行けてたじゃない」
「うん。……一回教室に行っちゃったら、なんていうか……ずっと、それを求められちゃうんじゃないかって」
「なぁんだそんなこと、大丈夫、前みたいに保健室登校で大丈夫だから」
違う、そんなこと言いたいんじゃない。違うよ、そんなこと私だってわかってるんだよ。ちょっとずつで良いんだって、牛歩の歩みでも進んだ方がマシだって、今のままじゃだめだって、そんなのわかってる。
でも上手く言葉が出なくって、喉の奥にドロドロしたものが詰まったような気がした。
「大丈夫って、そうじゃなくて。そんな風に割り切れたら、私だって……」
「どういうこと?」
「だから……誰かが私を責めるんじゃないかって、そう思っちゃう」
母が、父が、とは言わなかった。そんなの否定されて両親の中で終わる、私の中では終わらないのに、勝手にあっちでなかったことにされてしまうから、言わなかった。
私は続ける。
「勇気が出ない、っていうのもある。学校っていうのが一個の恐怖の溜まり場みたいになっちゃってて、足が竦む。でもいくら勉強しても辛いばっかりで、頭痛くてなんにも考えられなくて……このままじゃだめだってわかってても何にもできない」
「う~ん」
母は考える仕草をした。浅い浅い考え事、たぶん脳構造が根本から違う、だって母の出した結論は小学生みたいだったから。
「人も目が怖いなら見なきゃいいし、頭が痛くないときに勉強を頑張ったらいい。楓夏のペースで頑張ってみよう、ね?」
ああ、そうか。この人はなんにもわかっていないんだ。
私がそんなに演技が上手かった?そんなわけがない、いっぱいいっぱい、辛い顔を見せて来た。母は何もわかってない、自分の娘を見れていない。
言葉を飲み込んで、でも吐き出た言葉は鉄の味がした。
「頭が痛くない時なんてない、毎日四六時中痛い。今だって痛い、マシな時間だって、普通の偏頭痛くらい痛くて、それがずっとずっと続くの。それに人の目は見て認識するんじゃなくて、心の話。お母さんみたいに私は割り切れない」
「じゃあ、このままで良いって言うの?」
「良い訳ないって言ったでしょ」
「じゃあ学校に行く、それだけでいいじゃない。休み休みでもいいし、午前中だけとか、午後だけとか、そうやってゆっくり行けばいい。それじゃだめなの?」
ああ、そっか。見ている場所が違うんだ。
私は心の話をしている、心があって、行動が出る。でも母は行動の話をしている、行動があって、その裏に言葉がある。
目線の違いだ。母は私の行動しか見れない、でも私は私の心ばっかり見ているから、私達は同じ話をしているようで、テーブルにもついていないんだ。
泣きそうだ、私は母に何を期待していたんだろう。私の気持ちを理解してくれて、その上で頑張ってて、そうやって背中を押してほしかったんだ。
きゅっと唇を結んだ、そうしないとあらぬことを言っちゃいそうだった。
「お風呂、入るから」
「ちょっと楓夏、まだ話は終わってません、座りなさい」
「それで、私が学校に行くって言うまで続けるの?」
「そんなこと言ってない」
「言ってるよ、顔がそう言ってるもん」
「このまま不登校を続けてたら楓夏の為にならない。いきなり教室に行けって言ってるんじゃないけど、もうすぐ3年生だし、それまでになんとかしないと内申点が――」
「そんなの私が一番よくわかってるよ」
バンと扉を閉めて自室に戻った。
まあなんとも実りの無い議論だった。幸いにも母は追ってこなかったので一人自室に入って、あらかじめ涙がある程度枯れるまで泣いて、お風呂に入った。
お風呂は悪魔だ。声が響くのにスマホや本などの暇つぶしの道具もなく、自ずと思考が回って涙が誘発される。
だからシャワーだけで済ませてさっさと自室に戻った。湯船で暖まっていない体は芯まで暖まっていなくて、布団に入ってブルブル震えた。
電気ストーブをつけ、橙色の温もりに布団から顔を出した顔面を焼かれながら一人、考え事をした。
学校に行かなきゃいけない、ほんの少しでも成果を出さないと私はこの家に居られない。
時間が経てばたつほど一歩の距離は遠ざかる。玄関から道路までの道が日に日に大きくなり、気づけば大きな谷になっているような感覚だった。
ああ、どうしよう。どんな理由で学校に行こう。どんないい訳を自分に用意すれば学校に行けるだろうか。
母は頼れない、アレだから。父は頼れない、あの人は私がニートになるって言ったら許しそうだ、共働きだけど妹も弟もいないからそれなりにお金は溜まってるだろし。
和奏はどうだろう、彼女はちょっと住む世界が違うと言う認識があって私がだめだ、光に妬かれちゃう。
浮かんだのは一つの紙切れだった。本当はローファーを履いていきたいけど校則によって縛られた、白いスニーカー、泥に汚れていないそれに入った、皺の入ったしわくちゃな紙。
何故、あれはしわくちゃだったのだろう。彼なりの葛藤で、恐怖で、あれを書いたのだろうか。
ああ、私は悪い子だ。1ヶ月以上その想いを蔑ろにしたのだから。
気づけばスマホに手を伸ばしていた、きゅっと握り、けれど電源ボタンに手を置いて、やめた。
だってそれがもう、理由になっていたのだから。
*
「ふぅ」
白い息で霞んだ視界の先には青空に向かって背伸びする校舎が見えていた。
遠く過ぎ去る車の音、まどろむような頭痛、首筋を撫でる北風。全て知った物、これから何度も味わうであろうもの。
勇気が出たわけではなく、私は学校に来ていた。
ただ逃げただけだ、母の糾弾から、家の重圧から。逃げる方向を指定した、それは恐怖を孕んだ学校に向かって逃げたのだ。
どうせ地獄だなとそう思った。100点の安住の地なんてなくて、どっちも30点くらいなんだって、後の70点は苦しいことばっかりだって。
だから30点の在り方を決めた。家にいるときの布団の暖かさや好きな絵を描くときの鉛筆を動かす音か、友達と過ごす時間か。
学校には私の友達がいる。和奏は時々私の様子を見に来てくれる。もしかするとそれをクラスに変に伝えているかもしれない、本当は私のことなんて馬鹿にしているかもしれないけど、それでも、和奏と会うのは嬉しくて、話すと楽しい。
あとは、朝陽君。彼と私は友達なんだろうか?それなりに話はできるけど、親しいかって言われたらそうではないかもしれない。
けど彼は、私の靴の中に連絡先を入れて来た。生憎使うことはなかったけれど、彼は私と仲良くなりたかったんじゃないだろうか。紙にはこう書いてあった、[勉強とか、何かあったら連絡して]、これは彼なりの照れ隠しで、ただ「仲良くしたい」それを言うのが気恥ずかしくてあんな風に書いたんじゃないだろうか。
私は生真面目なんだろう、だから裏口に手をかけてシューズに履き替えて、冷たい冬の廊下を歩くのだ。
ああ、怖い。すれ違う人はいないけど、何処からか誰か出てきたらどうしよう。「学校に来れたんだ」そんな風に言われたらどうしよう。「やっと来たんだ」呆れたように言い放たれたらどうしよう。「なんで来たの?」責めるように吐き捨てられたらどうしよう。
勇気なんて出なかった、ただ後ずさっただけだった。家から逃げて、友達になろうと彼に会いに来ただけだった。滑稽で、優柔不断な私はこうやってしか前へと踏み出せないのだと、そう思う。
今日の場所は視聴覚室、そのドアノブを握る。
勇気ではなく、強さではなく、弱さから私はそれを開くのだ。
開いた先、文庫本を読む彼の姿が目に入る。彼は驚いていた、それも一瞬のこと、すぐにそれは安堵か、歓喜か、なんにせよその表情は笑みに変わった。
「おはよう、江藤さん」
「おはよう、朝陽君」
久しぶり、とは言わなかった。ただいつものように、日常の延長線上にここは在るのだと、ここは不登校のたまり場で、たとえ時間が飛んでも昔日は昨日のようで、そこにいるだけで存在を許される場所なのだと、そう信じていたからだ。




