2.だあれも知らない
不登校仲間ができた。名前は朝陽朔也君、話すのが苦手な、あの日の少年だ。
勉強を教え合う――なんてできればよかったけど、私は教えてもらうばっかりだ。
彼の教え方はあんまり好きじゃない、答えを訊いているのに解き方ばっかり教えてくる。不満を洩らすと、彼は理路整然と、当たり前のように言った。
「その場しのぎの知識は未来まで続かないよ。どうやって答えを出すのかわかってないと将来困るし、丸暗記だとテストはいい点かもしれないけど、テストが終わったら全部忘れる」
正論の暴力にうぐぐと頭が痛くなりつつも、全くその通りだった。
私は頑張った、そりゃあまあ頑張った。痛む頭を必死に動かして、シャープペンシルを動かした。
様子を見に来た数学の先生に褒められた。「いい感じですね江藤さん、この調子で頑張りましょう」と。でも、ずっと先までこの地獄が続いていると考えると、まだまだ大きな山の麓にいるだけのようで、遠い気持ちになった。その日の給食が揚げパンで本当によかった。
12月になった。木枯らしも枯れた風が吹く頃、私は別室登校も出来なくなっていた。
疲労が貯まったのか、それとも『11月30日』という節目を越えたことで糸が切れたのか、猛烈な頭痛が襲って、ベッドから動けなくなっていた。
学校に行こう、再びそう思っても足は玄関を飛び出してくれない。頭痛をある程度無視して今まで動けていた自分の体が信じられなくて、ああ、もう一生学校には行けないかもな、なんて考え始めている。
父は言った、「頑張ってるね」と。母は言った「大丈夫、なんとかなる」と。
私は頑張ったようだった、けれどそれで皆との差は全く縮まることはない。同じ不登校の朝陽君ともどんどん学力に差が生まれる。元々朝陽君は勉強ができるようだ、でも人付き合いが苦手で不登校に、という感じ。
私は勉強も、人付き合いも出来ない。何にも出来なくて、自分の長所が無いかって思ったけど、特に無かった。
「はぁ……」
枕に顔を埋めて、ラジオを聞く。前まで濃密な『私』の臭い、つまり引きこもりの臭いがしていた枕もベッドも今は冬の匂いがしている。さっきまで窓を開けていたからだけど、これも学校に行っていた成果だって思いたい。
頭は痛い、ベッドに寝そべっても正直悪化するばかりだけど、だからといって座ったり立ったりするとそれはそれで辛い。
簡単なことじゃないのだと、何度も思う。「しんどいならこうする」という絶対的なマニュアルが無い。Aをする方が楽なこともあればBの方が良い場合もある。そしてどちらも正解な時もある。どちらを選ぶのか、何処で妥協の線を引くのか、そんなくねくね曲がった迷路を歩くのは自分でもわからないくらい難しいのだ、あの母にわかるわけがない。
私がしんどいと言うと、母は休めと言う。私は少し元気になったと言うと、母は、なら動けと言う。1か2でしか判断出来ない母のことが私は嫌いで、父もあまり踏み込んで来ないから、ありがたいけどなんだか嫌いだ。
休日なのに、何処かに遊びに行くこともない。そもそも友達が和奏しかいなくて、そんな和奏は友達が多いから、きっと私に構っている暇なんて無いのだろう。
――和奏にとって私はステータスでしかない
そうかもしれないし、きっとそうだろうと幻聴に似たものに思う。私達は本当の友達じゃない、和奏が上で、私が下だ。
そんなネガティブなことを考えていると電話がかかってきた。和奏はメッセージアプリよりも電話を好む。
「もしもし?」
思ったより嬉しそうな声が出てしまった、でも和奏は気にした様子がなさそうに言う。
『楓夏、今暇?』
「うん、ずっと暇だよ」
『そっか。実は今日先生が来れなくなったから練習無くなっちゃってさ。楓夏の家に遊びに行ってもいい?』
そついえば、和奏はソフトボール部だったと今さらながら思い出す。
「え、あ、うんっ。良いけど……たぶん私の家は、あんまり面白いことないよ?」
思えば、友達と遊ぶ、なんてこともあまりしてこなかった。
普通はどんなことをするのだろう?わからなくて訪ねた問いに、和奏は笑った。
『楓夏がいるってそれだけで十分だよ。それとも外に行ってみる?楓夏の好きな甘い物食べに行ってもいい、逆に私に付き合ってくれるなら服を買いに行ってもいい、化粧品なんかを見に行ってもいいかもね。本当になんでもいいよ、そういえば、もうすぐクリスマスだし、外を歩くだけで楽しいかもしれないよ?』
「それは……誰か知り合いに会ったら怖いから、嫌だ」
『どうして?』
「それは、だって……」
和奏にとってそれは本当にどうでもいいこと、和奏はあの目を知らない。別室登校をしていた間何度か顔見知りくらいの相手とすれ違った時の「あれ?」みたいなつぶらな目が怖い、ほんとに、どんなホラー映画とも違う怖さだ、胸の内で蛇が蜷局を巻くような気持ちの悪さだ。
でもそれとは別に、ただ人と話すのが苦手というのもある。
――言っちゃえばいいのに、和奏と話すのも苦痛だって。
それはちゃんと違うって言える、和奏と話していると少しは楽しいから。
「ごめん、電話だけでもちょっと元気もらえたから、大丈夫。気遣いいつもありがとう」
『そう?でももう家の前に来ちゃってるから、このまま入ってもいい?』
「へ?」
私は慌ててカーテンを開けた、するとジャージ姿の和奏が手を振っていた。
行動力があるというかなんというか、ここで拒否すると嫌われてしまいそうで、私は楓夏を家に入れることにした。
――迷惑だけどね
それでも、そうしないと私は本当にだめになってしまうから。
*
「ちょっと早いけどクリスマスプレゼント、どうぞ」
和奏はそう言ってハンドクリームをくれた。肌馴染みもよく、良い匂いもしたし、結構高い物に見えたけど、値段は聞けなかった。
「ごめん、私は何にも用意してなくて」
「大丈夫、見返りが欲しくて贈ってるわけじゃないから」
「えっと、また何か買うから何か欲しい物とかある?」
「んー、さっきも言ったけど服が欲しいかな、かわいいの。ねえ楓夏、一緒に選んでくれない?ついでに楓夏の服も見繕いたい」
強引に手を掴まれ、引き攣った笑顔で外に連れ出されてしまった。
和奏は一度家に帰り、それから駅で合流しようと言う。私はそれを承諾しつつもまだ迷っていた。駅に行くのは遠くに行くからで、私が誰とも会わないように配慮してくれた結果だ。和奏は私のことを考えてくれている、それなのに、どうしてだろう、足が竦んで動かない。
――嫌なんだよきっと、本心からね。私はいつも一緒、誰かに手を引っ張ってもらえないと前へ進めないの
防寒着を着て、バッグには財布も入れたのに、ぶるぶると寒さ以外から震えている。
駅に行くって言ったって、そこで出会うことだってある。遠くに行ったって、それでも誰かに見られることはある。学校には行っていないのにそんなことはできるんだ、そう思われてしまう。
ぶるぶるぶるぶる震えていた、もはや衝動的に私は和奏に電話をかけていた。
『どうかした?』
「ごめん、行けない」
『え?どうして』
「やっぱり怖くなっちゃって、……ごめんなさい」
『そっか、ならやめとこうか。ああ、プレゼントはどっちでもいいからね、買いに行くのもしんどいだろうし』
一言一言冷たく聞こえた。言葉に僅かな空白が生まれるだけで一歩一歩電話の向こうの和奏が遠くに行ってしまうような、そんな感覚。
行かないで、そう思ってしまった。断ったのは私の方なのに。
『またね』
そう言って和奏は電話を切った。
私は部屋でたくさん泣いた、自分が嫌いだった。
*
冬休み前の、二学期終業式。
私は父の車に揺られ、頭痛薬越しに脳を刺す頭痛に顔をしかめつつも、学校への道を進んでいた。
今日は教室に行ってみよう、そう決意していた。自分を少しでも変えたかった、友達と遊びに行くことさえできない自分が大嫌いで、嫌いくらいには変えたかった。2限で終わるし、明日からは冬休みという大きな休憩が挟まるのだから、1日くらい大丈夫――と、割りきれればよかったが、現実はそうもいかない。
私の手はプルプル震えていたし、頭痛は酷いし、お腹も痛い。正直、行きたくない、ずっと布団にくるまっていたい。
大きな決意をした訳じゃない、そりゃ、ちょっとはしたけれど、大義があるだけで動けるほど私は強くない。
ただ、車という鉄の塊に運ばれて、制服に身を包んでいればもうなんか自棄になる、それだけだ。なんとかなるさ、なんて割りきれる訳じゃないけれど、心の何処かで私は楽観的だ。
「今日のお昼は外食にしようか。楓夏の好きな物を食べていいよ」
赤信号で止まった時、運転席の父が言った。有給を取ったらしい父は、いつものスーツ姿ではなく部屋着で、パジャマ亜種みたいなラフな格好だ。
「え、なんで?」
「楓夏は本当に頑張っているから、お父さんも何かをしてあげたいと思ったんだ」
「今送ってくれてるだけで充分だよ?」
「僕が納得していないからね。だから、楓夏が食べたい物を言ってくれたら、お父さんも嬉しいよ」
揺ったりとした父の子守唄のような口調に合わせるように、青信号に変わったと同時、ゆっくりと車が直進する。
楽しげに並立走行する中学生が後ろに流れているのを後部座席で見ながら、私は自分の舌に相談する。
「じゃあお寿司がいい。回転寿司」
「わかったよ」
やがて、グラウンドが見えてくると、朝練をしている運動部の人達が見えてくる。その体操服、紺色に混じった白い線が妙に目立って見えた。長い間来ていないからだろう、体育の時間は思い出の中、ずっと遠くにある。私にとって、9月の終わり頃から12月中旬までの時間は、相当に長かったらしい。
やがて、表の方の駐車場についた。校門から少し離れた所にあるそこに入れば、タイヤが砂利の絨毯を踏みしめてジャララと音が鳴る。
シフトレバーを動かして、揺ったりと後ろを向いた父は口を開く。
「何かあったらすぐに連絡していいからね。お父さんはすぐに迎えに行くから」
「うん。ありがとう」
学校に携帯電話やスマホは持っていけない、親に連絡するには職員室の「生徒用」とシールの貼られた、黄ばんだ固定電話を使わなければいけない。勿論職員室に入るにはクラスと名前と用件を言わなければならないから、私にはとんでもない重労働になってしまう。
車が止まって外に出ると、ブレザーの上から着た――というより母に着せられた――コート越しにも、北風が冷たかった。耳が冷たくて、今すぐにでも暖かい暖房の効いた社内に戻りたくなってしまう。
でも、私はそんなことしない。和奏が信じてくれたみたいに、前に進みたい。
「いってきます」
そう言ってドアを閉じて、校舎に向かって歩く。
校門を潜って振り替えると、フロントガラス越しに丸眼鏡をかけた父が見える。
父なら私が引き返したって怒らないだろう、でも、そうすると私は私を、きっと許せない。
私は一歩踏み出した、勿論学校の方へ。
思い出したみたいに襲ってくる頭痛、脳みその周りの血管を血液がトクトク鳴りながら流れるそのリズムがなんだかテーマソングみたいで、私は乾いた唇でちょっとだけ笑った。
下駄箱に向かうまでのちょっとした道、前を走る運動部の影があった。ジャージと、それから白いキャップ。ソフトボール部がランニングをしながら、私の方に来る。「イーチニー、イチニー」みたいな掛け声をしながら走ってくる集団に気後れして、そそそと壁際に寄った。
「おはようございまーす!」
ソフト部の先頭を走る人が、そう言った。この時ばかりは私の学校の馬鹿みたいな運動部の礼儀の良さを恨んだ。
私は「おっ、おはっ」みたいな声にもならない声を漏らして、うつむくように頭を下げて、通学カバンをきゅっと自分の方に寄せた。
その中の一人、真ん中辺りに和奏がいて、笑顔で手を振ってくれた。でも私が手を振り替えすと、他の人に向けていると勘違いしていると思われたらどうしようと思い、目を合わせることしかできなかった。
彼女らが去っても、女の子達の高い声の挨拶が耳の奥に残っていてくらくらして、頭痛が酷くなった。
少し早歩きしながら下駄箱に向かって、その匂いに驚いた。ずっと裏口からコソコソ出入りしていたから、木でできた此処に来るのも久しぶりだった。
皆の靴下の匂いの染み付いたシューズとか、運動靴の匂いが漂っている。砂と汗の匂い漂うそこにいると、「みんな人間なんだな」なんて馬鹿みたいな感想が湧いてくる。
白い通学用の靴をコトンと置いて、シューズに履き替えて、皆みたいに私は靴を履き替えた。
吹奏楽部の音の響く廊下を抜けて、私は図書室の方に入った。ホームルームまで余裕のある時間に来て、ここで時間を潰すと先生に言っていたからだ。「誰かに迎えに言ってもらうか?」と言われた時は、一人でも行けると思ったが、念のため和奏を指名しておいたことを今になって心底安心する。
不登校中、ここに来ることも少なくなかったので、漂う本の匂いと、石油ヒーターのちょっと甘い匂いが混じった空気は嗅ぎなれたものだ。
ゴォーと鳴るヒーターを気にも止めず、一人の少年が本を読んでいた。私の到来に合わせて、栞を挟んで彼は少し驚いたような顔をする。
私はなんだか、なんて言っていいのかわからなくて突っ立っていると、彼は痰の絡んだ咳をして、言った。
「おはよう、江藤さん」
「うん。おはよう朝陽君」
彼には何回かわからない所を教えてもらったので、初対面みたいにおどおどはあんまりしなくなった。
図書室はもわっと暖かくて、私達不登校の居場所が用意されてるみたいでなんだか嬉しい。朝陽君の斜め向かいに座り、コートを畳んでカバンに詰める。私もなにか読もうかな、そう思ったけど微妙に気分が乗らなくて、ぼーっと石油ヒーターの音に耳を傾けた。耳がもう聞き飽きたよと言わんばかりに妙に熱くなってきたころ、「江藤さん」と朝陽君が言った。
「今日、何か雰囲気違う?」
「え、そう?」
「うん。緊張してるみたいな」
「今日は教室に行ってみようと思ったから。……でもいざとなると緊張する」
私はだらんと案外冷たい机に突っ伏した。目を合わせて話すのは少し苦手だし、こうした方が頭痛が楽だ。頬を冷たい机に接していると、「すごい」と少し嫉妬の混じったように朝陽君が言う。
頭が揺れないようにゆっくり顔を上げると、朝陽君は何か考えるように顎に手を置いていた。やがて私をちらっとみて、また本に目を落としてしまった。
すごい?私はそんな風には思えない。だって今体が内側からバラバラになりそうなくらいに緊張している、ホームルームをして、体育館に行って、また帰ってきて成績表を受け取る。
不安になって来ると、悪魔のささやきみたいなのが頭の中に木霊する。「帰った方がいいんじゃない?」って。そっちの方が楽だって私の心は逃げ道を必死に探している。けれどそうしたら裏切りになる気がした。きちんと協力してくれる和奏にもそうだけど、何より自分自身に。
過呼吸になりそうで、ふーっと長く深呼吸をして無理やり肺を落ち着かせる。大げさなことだなと自分で自嘲気に思う。
本を読んだら気が落ち着くと思って適当に取ってみても、字が滑って落ち着かなかった。
あっという間にホームルームの5分前になっていた。
秒針が天を指すと同時にドアが開いた。
「楓夏、行ける?」
少し前のことを何も気にしていないような声音に私はとても安心した。
「うん、行くよ」
大きな決断をできたわけじゃない、でも言葉にしたら案外すんなり立ち上がれた。図書室を出る前、朝陽君と目が合って、でもなんて言ったらいいかわからなくてちょっとだけお辞儀をして私は寒い廊下に出た。
いろんな学年の生徒たちがわあわあ騒いでいるのが聞こえる、私は今からその中に入るんだ。そう思ったら手が震えて来た。それを見て、和奏は優しく微笑んだ。
「不安なら手繋ぐ?」
「い、いや、いい。大丈夫」
「そう」
スタスタと、でもたぶん私に合わせて和奏は歩き出して、私はその後をおどおど追った。
ただ、その前を歩く背中さえあれば、それで大丈夫だった。
*
「準備はいい?」
「ちょ、ちょっと待って」
教室のドアの前、和奏の背に隠れるように身を屈めて、私は深呼吸する。当然廊下には出入りが普通にあるので、「お、江藤」とか「やっと来たか」みたいな声がたびたび聞こえてくる。勿論嬉しいとかそういうわけじゃなくてうんざりしたような声。教室に入ったらもっとひそひそと、でもきっと聞こえるくらいの音量で不協和音が響くんだろう。
なんだろう、これ、めちゃくちゃ怖い。
「大丈夫?楓夏。顔色悪いよ?」
「大丈夫……」
私が言うと同時、ガラガラとレールを滑って教室の扉が開いた。皆の視線が集まる中、私は下を向いて歩く。皆和奏に向かっておはようと言っている、私に気が付いているはずなのに、案外なんにも言ってこない。
「ここ、楓夏の席ね」
「あ、うん」
後ろから二番目の、真ん中あたりの席。木と鉄でできた妙にひんやりする椅子に座るのが久しぶりで、なんだかぎこちない仕草になった。
和奏は自分の席の方に行って、友達たちと話している。私の方をちらちら見る視線はあるし、「なんで来た?」「さあ?」みたいな会話はある。それは辛い、視線が嫌で、事務的な作業、筆箱やクリアファイルを出す作業に従事する。でもよく考えたら今出しても駄目だな、そう思って机の奥に押し込んでいく。
なんとなく、もっと寄って来ると思っていたけど、案外すんなり行った。皆思ったより、私のことなんて気にしてない。
まあ、そうか。不登校なんて空気みたいなものなんだろう、もともと空気みたいなものだったし。私は、何かを期待していたのだろうか?妙に虚しい、奇妙な気分だった。
そして、苦しみは思ったよりも辛い。何より五月蠅い、ぺちゃくちゃと話されると、頭が痛い。匂いも濃密な人の匂いがして気持ち悪い。視線が気になる、何も言ってこないその変な距離感がとても嫌だ。ぎょろりと動く、その黒い瞳たちがおぞましい。吐きそうになったのをなんとかこらえた。
ふと、一人と目が合った。ライトブラウンに染めた髪、短いスカート、机に座って人を見下ろす、面白い玩具を探すような目線。沢渡、小学校の同級生、私のいじめっ子。絶対何か言ってくる、そうおもったけど彼女はぷいと目線を反らして、私に興味なんてないようだ。
意外、こういう時からかわないと気が済まない性格だったのに。……沢渡も、何か変わったのだろうか。
「ホームルーム始めるぞー」
先生もまた、私をちらっと見ただけだった。ああ、私って、
――存在が案外小さいんだな
そう思った時、頭がズキリと痛んだ。
*
久しぶりに体育館に並んで、校歌を歌って、ふらふらする頭でなんとか倒れないように校長先生の話を聞く。
人が、人が五月蠅い。並んだ黒い頭、一つ一つの旋毛に吐き気がする。でも私は人形のように立っていた、鳴り響く頭痛と耳鳴りに耐えて、耐えて。
ここで倒れたら、注目を浴びてしまう。そんなの嫌だ、恥ずかしい、死んでしまいたくなってしまう。
誰か、誰か助けてと、そんな声は頭痛にかき消される。
長い地獄、「次は生徒指導部からです」なんて司会の声にうんざりする、いいって、紙で配ってよそれで充分でしょ。
頭が痛い、寒い。手先の感覚が無くなって来た、久しぶりの体育座りにもうお尻が痛い、足がだるい、さっきまで立っているのが嫌だったのに今は立ちたいと願っている。
かさかさと音が聞こえる、隣の女の子がカイロを持っていた。名前は何だっけ、忘れた。お、から始まった苗字のはずだ。大?大橋?大谷?まあ、なんでもいいや。
私の視線とプルプル震える手先に気付いたようで、オオなんとかさんはカイロを差し出してくれた。
(使う?)
(あ、ありがとう)
かさかさとカイロに入った黒い粉を動かしていると、暖かい熱と共に指先が感覚を取り戻す。
カイロを返しても、その余熱を逃がしたくなくてきゅっと手を合わせてその指先の感覚を愛しんだ。
これで隣の少女は私を救えたことになっているんだろう、でも頭痛は寒さなんかよりずっと辛い。頭痛もカイロみたいにポイと渡せたらいいのに、そうしたら皆もっと私を理解して気遣ってくれるのにな。
*
1と2の並んだ通知表を見る。授業に出ていないし、期末はそもそも受けてないから仕方ない。寧ろ2がちょっとでもあるのが奇跡だった、頑張った数学は1だったけど、美術とか技術家庭科みたいなテストのない実技教科は9月中にも出ていたので、きっとそのおかげだ。
それでもショックで、頭が痛い。出席番号が早いことを呪った、こんなの生き地獄みたいなものだ。元々成績が良かったわけじゃない、でも美術とか、あとは暗記の社会なんかは4になることがあるのが誇りだったのに、今回社会は1だ。
周りを見れば、成績に満足する人もいれば、不満を漏らす者もいる。「親に見せれないよー」と呟く女子は、当然自分より良いのだろう。
頭が痛い、頭が痛い、頭が痛い。
*
何事もなく、2学期の最後の日が終わった。私の苦しみはだあれも知らないから、何事もなかったのだ。
とぼとぼと階段を下りる、笑いながら降りる皆の頭に、頭痛はない。
「楓夏っ」
肩に手を置かれてびっくりした。和奏は私のそんな反応に少し不思議そうな顔をしていた。
「すごいじゃん、一日ちゃんと来れたね」
「……2時間だけだよ」
「それでもすごいよ、誇っていい」
「うん」
もうなんか、どうでもよかった。早く何処か行って欲しかったけど、和奏は隣を歩いた。
「昼一緒に何か食べに行かない?打ち上げみたいな感じで」
「あー」
その時になって昼は回転寿司に行くと父が言っていたことを思い出した。……いや、自分で言ったんだっけ。
「お父さんと回転寿司に行くから、ごめん」
「そっか、帰りは車?」
「うん」
「そっか」
和奏は私と何かしたかったんだろうか?何だか申し訳ない気持ちになる内に、下駄箱についていた。朝緊張していたのが嘘みたいに、帰りはすんなり靴を履き替えられた。私はどうしちゃったんだろう、何だかすごく変な感じだ。強いていうなら疲れた、だろうか。今すぐベッドに飛び込みたい。
「あれ?」
靴を履いた時、違和感があった。脱いで異物を取り出すと、白い紙が入っていた。そこにはこう書いてあった。
――勉強とか、何かあったら連絡して。朝陽朔也。
その後にメッセージアプリのIDが綴られていて、私の背には悪寒に似たものが走った。
「楓夏?なにそれ?」
「う、ううん。なんでもない」
「えー、みせてよ」
「やだ」
私はスカートのポケットに紙切れをくしゃくしゃにしながら入れた。話すのが苦手な彼にはこうしないと連絡先も教えられないんだろうが、それでも気持ちが悪い。そして、「気持ち悪」と和奏に言って欲しくなかったから和奏には隠した。あの少年の評価をそんな風にはしたくなかった。
私は『これは彼の善意だ』と言い聞かせながら駐車場まで歩いた。駐輪場の所で和奏と別れて、父の車へ向かう。父の匂いのするシートに背を預けると、どっと疲れが襲ってきた。
「ただいま」
「おかえり。頑張ったね」
「うん、めちゃくちゃ頭痛い、割れそう」
「帰ったらすぐ休もうか、それと薬も飲もうね」
「まだ6時間経ってないよ」
7時頃に飲んで、今は11時くらい。そもそも薬の効果なんてあんまりなかった。
車に揺られて、目を閉じたらもっと頭が痛くなってきて、視線を外の景色に這わせた。
何処までも続いて行きそうな青空、土手に聳え立つ葉を落とした桜並木。裸の田んぼ、ビニールハウス、溝に入り込むシロサギ。つまらない田舎の景色を見て、私はため息と共に思った。
――死にたいな
耳の奥に自分の声が聞こえる、流れるラジオの音楽よりずっとずっと鮮明に。
だあれも知らない、私の苦痛。
だあれも知らない、私の悩み。
だあれも知らない、私の心模様。
和奏という友達がいて、送り迎えをする父がいて、無遠慮だけど私を想う母がいて、気持ちが悪いけど頼ってと言ってくれる朝陽君がいて、不登校の居場所がある学校に通って、お寿司を食べるお金があって、悩むだけの時間も余裕も環境もあって。
でも、私は一人だ。
*
「楓夏、大丈夫?」
夕食の時間、母が言った。お寿司を食べに行ったことに拗ねたようで、ピザを何枚も買ってきて、お腹いっぱいなお腹にさらにチーズまみれのピザを詰め込んでいた頃だった。
「大丈夫、残すの勿体無いから」
「そうじゃなくて学校。何かあった?」
何かあった?そう尋ねられても特別なことはなかった。ただ私が弱いだけだ、私の苦しみは誰にもわからない、それだけ。
だんまりしていると、母は「ねえお父さん」と父の方を向いた。
「あなたは?何か楓夏から聞いてない?」
「聞いていないよ。疲れただけだろう、そっとしておいてあげよう」
「いや、絶対何かあったって。ねえ楓夏、お母さんで良かったら話してみて。誰でもいいから相談しないとぜっったいしんどいよ」
知ってるよ、そんなこと。お母さんに言われるまでもなく知っている。
じゃあなんて言えばいいの?頭が痛い、しんどいよ、学校行きたくないよ。そう言ったらまともなことを返してくれるの?
お母さんはAかBでしか考えられない――いや、お父さんもそうか。私をご飯で釣れると思ってる節がある。いや、ご飯に限らず何か報酬というか、ご褒美や休暇を与えればそれで全部回復すると思っている。
人間の感情はそんな単純じゃない。寝て全部解決なんてしない、楽しいことをしても苦痛は解消しない。
話してなんになるの?それでお母さんが勝手に勘違いして「そうすればいいんじゃない?」って上っ面な意見を言うだけでしょう?
私の感情は、言葉にできるものじゃない。言葉にしたいものじゃない。
「ごちそうさまでした、美味しかったよ」
「ねえ楓夏!」
食べ掛けのピザを残して、自室に戻ってベッドに伏せた。変に勘の良い母が嫌いだ。
誰かに話すと楽になる。それはどうやら本当らしくて、私は和奏に相談をしようとして……やめた。
人は他人の気持ちを100%理解できない。それは和奏だって例外じゃない、彼女の左右対象の綺麗な黒い目に、謝った私の苦しみの色彩を映して欲しくない。
誰かにぶつけたい、私のモヤモヤした心の暗い部分。でも誰も見つからない、祖母なんて母の上位互換に駄目が吹っ切れてるし、朝陽君はまだそんなに仲良くない。
ふと、一つの案が浮かんだ。喋るのが苦手なら書けばいい。シャーペンの黒に近い銀の筆跡に想いを残せれば 、ふと私が自殺した時に遺書にもなってくれる。
「日記書こ」
電気をつけて、予備のノートに「日記」と書き込んで、パラッとページを捲る。
頭が痛くてその日は3行しか書けなかった、苦痛だってその3行で表すことなんてできやしない。
私はベッドに倒れ込んだ、明日から冬休みか、そんなことを考えていると何故だか泣けてきて、私は一人、枕を濡らした。




