1.北風に帆を立てて
私は朝が嫌いだ、カーテンの向こう側から差し込む光がまぶしすぎるから。そして、私にそれを閉める手段は存在しない。
そして、意識の目覚めと一緒に飛来する頭痛もまた、同じだ。
「んぐっ……」
脳髄の揺れる感覚と寝返りをうって、目覚まし時計を見ると午前5時35分。
頭の奥でモヤモヤと頭痛の種が燻っている。私は体を起こした時、これが牙を向くと知っている。
だからそっと目を閉じる、寝ていても、それでも痛い頭痛と、それから鳥の声に耳を塞いで。
寝れることなんてない、でもそうしないとおかしくなりそうで、私はまた、目を閉じた。
トタ、トタと足音が聞こえて来るのは決まって朝の7時頃。ノックも無しに入って来るのは朝食のお味噌汁の匂いを漂わせた母だ。
「おはよう楓夏。あさだぞー」
シャアッとカーテンがレールを走り、布団を被った私に日光が襲いかかる。私はそれをじっと耐える、いつものように。でも今日は何か言ってやりたくて、水も飲めず乾いた口で言葉を紡ぐ。
「起こしに来るのやめて。眩しいと頭痛くなる」
「どうせ痛いでしょうに。それにお医者さんも言ってたでしょ?日光浴びないと元気にならないよ」
そんなの嘘だ、だってあれから2週間、頑張って窓際に座って日光浴してみたけど、なんにも解決しないから。
でもなんだか、それを指摘すると「次は~、次は~」と母が言って来そうだから言わない。母はずっとそうやって楽観的に思っていればいい、私の苦しみなんて誰にもわからない。
吐き気を催す頭痛を、誰も知らない。
かさッ、机に山積みになった欠席連絡に母が手を置いた。
「これ捨てちゃって大丈夫?」
「ん……置いといて」
「なんで?置いてても邪魔でしょう」
「いいから、置いといて」
私はなんで、そんなこと言ったのだろう?なんだか捨てられるのは悲しいことだと思った、それってなんでだろう?
ただの紙だ、どうせ行かない時間割りを示したゴミだ。でも私はそれに期待しているのかもしれない、学校に行こうって、ほんの少し背中を押してくれるかもって。
奇妙な沈黙があった、頭痛が主張を強める。それは母が困る時間、呆れるような大嫌いな時間。罰として、私はそれを受け入れるけれど、そのせいで頭だけじゃなくてお腹まで痛くなる。
「じゃ、お母さん仕事行ってくるね」
それは良いことだ、変にペチャクチャ話す母がいなくなる、それは楽なことだった。
でも、行かないでと、そう言いたい。放っておかないでと、そう言いたい。
ガチャ、ドアが閉められる。安堵と、それから寂しさ。それを上書きするようなモヤモヤとした頭痛。
起立性調節障害という病気がある、私が罹っているのもそれだ。思春期の子どもに多く見られ、主に寝起き時にめまい、頭痛、或いは失神なんかが起こる。
これは血圧の関係で起こるらしい、たしか脳に十分な血が行き渡ってない、みたいな。
私の場合、朝が一番血圧が低いが夜まで普通に続く頭痛、それからめまいだ。たまに幻聴もあるが、それは関係あるか知らない、たぶん精神的なもの。
尤も、これには個人差がある。ちょっとしんどいな、それくらいの人もいれば、私のように朝1~2時間ほどは儀式に使わなければいけない人もいる。前述のように頭痛以外にもある、これといった治療法もなく、普通の人間からすれば怠けているだけのように見えるのだろう。
ちょうどそろそろ起き上がれるだろうか、私の長い髪の下には兎のぬいぐるみが置かれている。勿論これが無いと寝られないわけではない、頭の位置を上げる為に必要なのだ。
ちょっとずつ頭の位置を上げていく、そうしないと起きた時倒れてしまう。倒れるととてもしんどいし、何よりうるさくて迷惑がかかる。それはだめだ。
こうやって少しずつ起きる苦労を必要とされている、もう慣れてきた。
2つ目にペンギンのぬいぐるみ、これを兎と枕の下に挟むと車のシートを倒したくらいになる。
今までずっと静寂、一人静かなところで一人ぼっちというのはとても気が滅入って狂うと私は知っている。だからスマホでラジオを流す、優雅な朝に見えるだろうが、全然そんなことはない。起きれるなら起きたいに決まっている。
「ふぅ……」
溜め息に混じって頭痛が何処かへ消える、なんてことはない。でも長く吐いた息はジメジメした部屋の空気を少し甘く感じさせる気がした。
なんでこんなことになったんだろう、私はずっとそれを考える。
学校にも行けなくて、友達とは全然連絡取らなくなって、勉強には置いて行かれる。
「文化祭行きたかったな」
中学校の文化祭、調べ物の発表ばっかりの別に楽しくもない文化祭。でも1年生の頃は名前の響きだけでなんだか特別感があった、皆でモザイクアートを作るのもなんだか楽しかったし、プレゼンを作るのも楽しかった。
涙が出てきて、ヘッドボードの棚に置いていたティッシュでそっと水滴を吹く。
「ひくっ、……っ」
私は啜り泣く、陽気な声で笑うパーソナリティーの声が邪魔で、ラジオを止める。
泣くのは邪魔されたくないし、それに泣いているとそれはもう暇じゃない。
横から差し込む朝日を隠す、長い前髪の奥で私は一人泣いた。泣いて、泣いて、泣いて。それで何か変わるわけも無いのに。
*
8時頃になるとお腹が空いてきて、頑張って起き上がる。壁を伝いながらなんとか下りて、用意された朝ごはんを食べる。
静かなリビングに頭痛を抱えた私という異物が入る。
保温されてるお味噌汁を置いてあった木のお椀に入れる。豆腐、ワカメ、玉ねぎ、それからサツマイモ。
お茶碗にご飯を入れる。ホカホカした白米に鮭のふりかけをかけて、ゴミはきちんと分別してポイ。
その二つをコトンと置いて、お箸もカチャと置いて、お茶もコポコポとコップに注ぐ。そこまでできれば一旦休憩だ、起き上がるのはとても辛いから。
「はぁ……」
椅子を二つ並べてベッドにして、LEDライトの眩い白光をパジャマを纏った腕で遮る。
最初の20秒くらいが一番楽になり、そこからはゆっくりにしか変わらない。だからって起き上がれるわけもなくて、1分くらい私はそのままだ。
頭痛を無視できるくらい私の忍耐力があればよかった。でも私は別に強くない。というか弱い。
だからのっそり起き上がり、手を合わす。
それと同時、血が揺れ動いて脳が揺れた。吐き気をお茶で流しこみ、濡れた喉が声をより鮮明に届ける。
「いただきます」
静かに私はご飯を食べて、休んで、また食べる。
食べるのは好きじゃない、けれど生きるために食べる。
それが終わったら部屋に戻って、ときどきトイレに階下に降りる。
夜になったら家族でご飯を食べて、何もしないまま寝る。
ずっとそれを繰り返す。無駄で空虚で生きる意味が見つからない、そんな毎日だ。
*
時々祖母が訪ねて来ることがある、母方の祖母は私の頭痛をどうやら怠けるための口実だと思っているらしかった。
だからノックもせず入った来て、布団を被ってもそれを捲る。
「楓夏、頑張らないと駄目よ」
「うるさいからどっか行って」
「そうやって逃げても何っっにも良いこと無い」
「……」
「お友達が仲良くしてくれなくなったらどうするの?勉強について行けなくなったらどうするの?」
「……頭、痛くなくなったら大丈夫だもん。ちゃんと学校行けるもん」
「そうやって今だけって逃げたって、後で楓夏が困るだけよ?」
祖母は諭すような声、自分が気持ちよくなるためだけの声を、私の後頭部にぶつける。
正論ではあるのだろう、確かに私は逃げている部分もある。だからって、それを祖母が言う資格なんて無い。
祖母は私を見ていない。理想の『楓夏』に怒鳴り付けて、矯正しようと彫刻刀でガリガリ削ってるだけだ。
「この勉強の遅れのせいで高校に行けなくなったらどうするの?中卒なんて何処も雇ってくれないわ。それにお嫁さんにも行けない、一生独身でいるつもり?」
一瞬何を言っているのかよくわからなかった、お嫁とか、どうでもいいのに。だからこの人は理解できない。きっと孫娘のことより、自分の血が続くことを想っているんだ。
「…い」
「え?なぁに?」
「嫌い、おばあちゃんなんて嫌い」
「まぁっ。……そんな酷いこと……」
心底傷ついたような、その声。自分が加害者だなんて微塵も思っていない声だ。
そうわかっていても、私は自分が悪い子になった気がする。
その後祖母は何か行っていたけれど、私は耳を塞いだ。肩を揺すられ始めた時、誰かが部屋に入ってきた。
「お義母さん、もうやめましょう」
そう言ったのは父だ。その日は休みの日で、書斎に入って何かしていたので来るとは思わなかった。
父は寡黙な人だった。眼鏡をかけていて、あまり喋らなくて、いつも言葉を飲み込んでいるような人だ。
「洸一さんも何か言ってあげてください!」
「楓夏は頑張ってますよ、僕らが思っている以上に」
「でも……」
「僕達の娘です、貴女よりは理解している」
それはない、お父さんはあまり私と話すことはない。
上辺だけの言葉だと思った、実際そうなのかもしれない。でも父がそうやって庇ってくれたのは嬉しかった。
祖母は怒った、激昂という程ではない、それでも自分が可哀想という気持ちがたくさん湧いてさぞ良かっただろう。
祖母は父に連行されて行った、気分が良かった。
けれど、頭はずっと痛い。
*
祖母がそうやって家に来るのは珍しいことではなかった。だから家の前に車が来るエンジン音は忌まわしかったけど、その日窓の向こうから聞こえる、去る為のエンジン音はいつもと違った。
安心感があった、それもいつも以上の。それとあとは愉悦感があった、してやったりという気持ちがあった。
コンコン、ドアがノックされる。
「はい」
「おばあちゃんがレモンティーを持ってきてくれたよ。飲む?」
父の優しげな声。それを持ってきたのが祖母というのは嫌だけど、少しは感謝してやろう。
*
父は落ち着いた手付きでお茶を淹れる。背中を向けたまま父は私には声をかける。
「頭痛は平気?」
「まあまあ。お昼はちょっと元気だよ」
「よかった」
父はなんだか、単純に私の健康を気にしてくれているみたいだ。私は父が嫌いじゃない、寧ろちょっと好きだ。
父の淹れたお茶は美味しくて、頭痛も少しマシになった気がした。
「おばあちゃんのことを悪く思わないで欲しい。あの人も楓夏を心配しているだけなんだ」
「でも見栄とか、そればっかり考えてるみたいに見えるよ」
「確かにその気持ちが大きいかもしれない。でもあの人も楓夏をちゃんと愛してるんだ」
「……」
父のこういう所は少し嫌いだ、皆に期待するみたいなそういう所。例えば犯罪者のニュースがあった時、父はそれを犯罪者として扱わない、一人の人間として見ている。
優しいといえばそうなのだろう、でも私はもっと決めつけた方が楽だ。
私の嫌な空気を察知したのだろうか、父はフッと笑って話を変える。
「何かやりたいこと、食べたいもの、行きたい場所。何かあるなら、遠慮なく言いなさい」
「そう言われても……すぐには思い付かないよ。遊びに行くより家にいた方が楽だし、食べたいものもあんまりない」
「今すぐ言えなんて言ってないよ。何か欲しいと急に湧いてくることもあるだろうから、その時はお父さんに言いなさい。高価すぎるとあれだけど、ある程度なら買ってあげるよ」
父は世間的に見たら良い父親なんだろう、でも私はあまり物欲がないから持て余している感じがある。
だからこういう話をされると少し申し訳ない気持ちになる、もっとちゃんとした子が生まれるべきだったと。
「もし、もしだけどね」
そう告げるときなんだか泣きそうになった、胸の辺りがきゅうっと締め付けられて痛んだ。
「うん」
私は机に突っ伏した。その方が楽だったから。頭痛と、あとは申し訳なさそうから目を反らした。
「私が一生ニートみたいになっちゃったら、どうするの?」
「責めはしないよ。でも待期的にハローワークに誘うかな、仕事をしないのは辛いからね」
「お金が無いってこと?」
「いいや。やることが無いのは辛いよ。学校に行けないのも辛い、違う?」
「んん……そう、かも?よくわかんない」
確かに辛い、確かに暇ではある。でもお父さんの伝えたいこととは少し違う気がした、だから変に首を捻った。
父は笑った、何が可笑しいんだろう。
「無理しなくていいよ。頑張ったら勿論応援する、でも逃げても僕は責めないよ」
「……ありがとう」
心の何処かに叱って欲しいという気持ちがあった、でも優しい気持ちが嬉しいという気持ちもあって、複雑な気持ちが心の中を取り巻いて心臓を隠しているようだった。
*
起立性調節障害を無くすのに有効なのは、というより健康な生活をおくることらしい。
きちんと朝日を浴びて、きちんと運動して、それからちゃんと水を飲む。
定期的に母は私をそれに誘う、その日もそういう日だった。
夕暮れ、鴉と人々が自分の家に帰る時間。黄昏時も終わった頃、部屋がノックされる。
「楓夏、今日こそお母さんの散歩に付き合ってもらうからね」
行きたいなら行くよ、でも行けないんだよ。
母はそれをわかってない。自分の娘のことを、なんにも。
「やだ」
「でも頑張んないと元気になれないよ?夕方なら頭イタもちょっとはマシなんでしょ?」
「痛いのはいたいよ、ほっといてよ」
「体力無いとしんどいばっかりだよ?学校行こうと思っても行けないでしょう?」
体力、確かに最近階段を乗り降りするだけでも疲れる。それに、お腹を揉むと確かに太っているのがわかる。
でも仕方ない、だって頭が痛いんだから。病人に運動を強制する?しないでしょ?
「やだったらやだ」
「好きなお菓子買ってあげるから」
「それじゃ意味ないでしょ?」
「じゃあどうやったら行くのよ」
「行かない」
こんな会話無意味だ、早く終わってほしい。
あと数ヶ月もしたら、きっと頭痛もマシになってる。その時頑張ったらそれでいいんだ。勿論勉強はたいへんだろうし、体力もないだろうけどきっと大丈夫。
――でももし、その時も変わっていなかったら?
そんな想像に、悪魔に背中を舐められたように汗が滴る。
――もし一生このままだったら?
そんなはずはない、個人差はあるけど、大人になるまで続く人はあんまりいないって、お医者さんは言ってた。
――もし、私がその少数派だったら?
「だまれっ……」
「……楓夏?何か言った?」
「なんでもない!」
嗤い声が聞こえた気がした。幻聴、なんでこんな時に。いつも一人の時に来るのに。
藻の匂いが漂ってきた。ホースの水の音、濡れる体。何よりうるさい嗤い声、愉悦に歪んだ悪魔の笑顔――
ピンポーン、私を救う音は階下から聞こえた。母がドタドタと下りていく、私はそれに安心する。
誰が来たか、それは奇妙な予感があった。だいたいこの時間にポストが鳴るから、そして私は自転車が去って行くのをカーテンの隙間から見てるから。
でも今日はどうして?もしかして私に会いに来た?
スマホを確認するけど、1ヶ月前に止まった履歴しか残ってない。前に彼女が心配して1ヶ月、私たちは話してない。
「楓夏ー、和奏ちゃんが来てくれたよー」
母が大声で私を呼ぶ、私はほぼ反射的に靴下を履いて扉を開けていた。
和奏は友達だ、小学校の頃から一緒で、友達の少ない私に仲良くしてくれた人。
でももし、私を責めに来たら、どうしよう?
学校に来いって、そういわれたらどうしよう?
あれ?そもそも家族以外と話したの、いつだっけ?
がたん、私は音を立てて2階の廊下に座り込んだ。
「楓夏?」
母が上がってくる、あれ、なんで私怖いんだろう?
ああそういえば、私パジャマだ。怠けてるって、思われたくないのかも。
母がひょっこり顔を出す、なんだか顔を見られたくなくて、私は顔を伏せる。
「楓夏?」
私はふるふると首を振る、困ったような沈黙があった後、母は降りる。
ああ、こんなことしてるから私は友達も少ないんだ。
人付き合いが苦手だ、人と会うとどうしても顔色を窺って、いろんな妄想をしてしまう。
だから和奏の顔を見たくなかった。ずっと優しい彼女でいてほしかったから。
階下、二人が話している。
「ごめんね和奏ちゃん。あの子最近塞ぎ込んじゃってて」
「大丈夫です、今日はこれ届けに来ただけですから」
「なに?これ」
「文化祭の写真です。学校だとスマホ持っていけないからデシカメで撮って、さっき写真屋さんで」
「まあありがとう。ごめんね手間とお金かけちゃって」
「いえ、全然、私達が勝手にやったことなので。それじゃあ楓夏によろしくって伝えておいてください」
模範生みたいな、綺麗事を形にしたみたいな声。私と違って友達が多くて、私なんてその一人でしかない。
彼女がただ優しいだけなら、それ以上はいらない。でもある程度外向けに優しいキャラクターを演じている部分も、きっとあるはずだ。
私は夜、一人その写真を眺めていた。皆が笑ってて、勿論その中には和奏もいる。
本来なら、ここに私が混ざるはずだった。そんな妄想から、いるはずのない私の影を気付けば目で追っていた。
ただの記念写真だ、校舎前の階段で撮っただけの、文化祭なんてあんまり関係ないんじゃないかと思えるような写真。
写真屋特有の、奇妙な感触のする写真が忌々しかった。無機質な電球の白を写す光沢を、私は日焼けを知らない指で押し潰す。
私はローテーブルに置いた頭痛薬をカシャリと握りしめ、中身を取り出して水と一緒に流し込んだ。
こんなの気休め程度しか効かないけど、今はそれが必要だった。私は人と話すのが苦手だ、それは勿論、友達とも。
スマホを弄る手つきは案外自然だった。その手で私は和奏に電話をかけた。
ほんの少しのコール音の後、何も変わっていない声が優しく耳を撫でた。
『楓夏?久しぶり』
「うん、久しぶり。あの、今日は出れなくて、その、ごめん」
『なんで出なかったの?』
その言葉が酷く鈍く、私の胸を打った。
処刑人にギロチンのレバーを握られた心地で、私は答える。
「責めるんじゃないかって……その、怖くて……」
『私が?何を』
「学校行ってないこととか、文化祭のこととか」
『あはは、責めないよ。確かに「ずるい」っていう人はいるよ?「学校に来てって伝えて」って私に頼む人もいる。でも私は楓夏の味方だよ』
胸がキュッと痛む、でも幻聴を無理矢理振り払って、私は言葉を捻り出す。
「頭が痛いんだから、仕方ないのに……」
それはたぶん、自分に言い聞かせた言葉なんだと思う。本当に滅茶苦茶頑張ったら行けないこともないのに、早退覚悟で行くことは無理じゃないのに、私は行けない。いや、行かないから。
わかってる、自分が怠け者ってこと。和奏なら私みたいに頭が痛くたって学校に行く、私は人が怖いんだ。
久しぶりに学校に行ったらきっと問い詰められる、それで陰口がたくさん聞こえてくるだろう。それに、私は耐える自信がない。普通の時でも無理なんだから、頭が痛かったらきっと割れるように痛むだろう。
『ん?頭?』
「……?うん。……あれ、先生から聞いてないの?」
『いや何にも聞いてないけど。楓夏の不登校って沢渡とかのイジメが原因じゃないの?』
どうやら変な勘違いがあったみたい。あの担任に少し期待しすぎた、教師は頼れないって知ったはずなのに。
「起立性調節障害っていって、ずっと頭が痛くなる病気があるんだ。人によって症状は違うんだけど、私は朝が一番酷くて、夕方は、まあ、ちょっとはマシになる」
『それでずっと休んでたの?』
「うん、でもそれで長く休んじゃって学校行きにくいっていうのもあって。……あ、でも今も頭は痛いよ」
『そっか。大変だったね。でもそれなら相談してくれたら良かったのに』
「ごめんなさい」
確かにどうして他人に、家族以外に言わなかったんだろう。今和奏と話して、ちょっと頭痛が楽になった気がするのに。
ああでもやっぱり話すのって苦手だ、ずっと嘘をついてるみたいで嫌だ。
私は性根から変で、でも和奏は話してくれている。
嬉しい、偽善でも、嬉しい。
電話の向こう、椅子が転がる音がする。勉強中だったのだろうか、だとしたら迷惑だろうか。
『友達なんだからちゃんと頼ってね。学校なんて抜きで、私は楓夏の友達だから』
「……うんっ」
大粒の涙が集合写真に落ちた。私のいない集合写真、そこに跡を残すように、水滴が光の玉を作っている。
嗚咽が洩れた、この1ヶ月できっと一番熱く喉が鳴った。
『泣いてるの?』
「ごべん、なんか最近涙脆くって……」
電話の向こうで、和奏は気まずそうに笑ってた。
友達に全部救われた、なんてことは全然ない。1割も問題は解決してない。
それでも、この時私はこの時確かに嬉しかった。友達、その言葉に大きな意味を感じていた。
だからその日は珍しく、悪夢を見なかった。
*
11月の中ごろ、私は少しずつ努力をするようになった。具体的には運動だ、勉強もしたかったけど、机に向かうのは運動より辛かった。
運動してわかったのは、汗をかいているとほんの少しだけ頭痛が収まるということだった。そもそも運動する筋力も十分になかったけど、それでも母と一緒に夜、二人でウォーキングしていると、一歩一歩が自分を前に進ませてくれていると実感させてくれて、楽しかった。
それに副次効果として、母と話す時間が増えた。なんでもないことだけど、私には効果があったらしい。だって近頃、頬が痛いから。
「そろそろ学校復帰してみる?保健室登校してみないかって言われてるんだけど」
何にもない暗闇を懐中電灯で照らしながら、母が言う。私の住んでいる地域は何にもないって言われるくらい田舎だから、夜は二人っきりみたいな気分だ。
夜闇は部屋の壁より強固に、私に安心感を与えた。
「実は私もそれ考えてた」
「おっ、ほんと?」
母の言葉の始めは嬉しそうに弾んでいた。
「うん。和奏に誘われて……。でも誰かが見に来たりしたら、怖いなって」
「来ない来ない、来ても気にしなきゃいいよ、石だと思えば大丈夫」
そんなことを簡単に言えてしまう母は、やはり私と違うんだろう。人と話しているのに何も気にしないなんて、そんなの人間としておかしい。
私は人と話すのが苦手だ、母と話すのだって、いつも傷つきながら話している。
「ちょっと、頑張ってみる」
それは宣言だ、私は自分がダメ人間だって知っているから、そう言った。
ここで変に甘えると、きっと一生何もできずに終わりそうだった。ニュースでやってた引きこもりニートみたいになりたくなかった、だからあえて追い込んだけど、でも行ってしまうと後ろの足場が全部消えたような絶望感が襲ってきた。
でも同時に大丈夫って、そんな気も湧いてくる。私は楽観主義者らしい。
頭痛は治ったわけじゃない、一生このままかもしれない。でも古くさいかもだけど、結局は気持ちなのかもしれない。
だって慣れた。1ヶ月以上の時間で、もう頭痛は体の一部になった。
辛いけど、頑張ってみたい。巣から蹴落とされた燕みたいに、私は一歩踏み出していた。
**
あれは小学生3年生の頃だ、私はイジメられていた。
元々自分の意見を言うのが苦手で、少し怒ったような顔で黙りこくる子だったから、イジメるには格好の的だったのだろう。
クラスの男子達に工作で作った粘土細工を壊された。放課後、教室に呼びつけられて目の前で踏んで、ちぎって、壊された。
私は暫く助けを求めるように泣いた、泣いて泣いて泣きじゃくっても先生は来なくて、私は泣き止んで、糊で自分の作品をくっ付け始めた。
図画工作の時間に作ったそれは『将来の自分の姿』という題材だった。人の形を作るのは難しかったが、それなりに達成感があったのを覚えている。私の場合は当時漫画家だったから、適当にベレー帽と万年筆をくっ付けたそれが、シューズの靴跡と、乱雑にちぎった傷口でボロボロになっていた。
それは紙粘土だったから、一度乾くともう粘性を失う。だから水のりを塗っては取れて、塗っては取れて、それをひたすら繰り返した。
暗くなってきた頃、一人の少女が私を見つけた。
「楓夏ちゃん?」
私はぱっと顔を上げた。嬉しかったわけではない、変な罪悪感、見つかってしまったという気持ちがあり、粘土細工を咄嗟に隠した。
「わ、和奏ちゃん。どうしたの?」
「私は忘れ物を取りに来たの、算数ドリル、今日は文章題だったから」
「あ……」
「もしかして忘れてた?」
「う、うん」
「じゃあ早く帰らないとね、何を隠してるかは知らないけど、早く帰らないとママとパパも心配しちゃうよ」
見てみぬふりをして、和奏は帰ろうとした。それは確かに彼女の生き方の通りだったのだろう。正義に染まりすぎるわけでもない、悪に染まりすぎるわけでもない。適度に見逃して、公衆の面前だと優しく人に当たる。
和奏は優等生だった、勉強だってできる、友達も私よりたくさんいる。
住む世界が違ったのだ、でも私はそこに強引に足を踏み入れた。
「待ってぇっ!」
「え?泣いてるの?」
「うぅ、ひぐっ、うぇぇえん」
「ふふっ、よしよし、泣かないで」
和奏は困惑したような声を出しつつ、困ったように私の背中を撫でた。
母とは違う、接地面積の少ない控えめな撫で方。父とは違う小さな手。
知らない感触だった、その感触に私は泣いて、いっぱい泣いた。
先生は来ない。
「あれ、それ図工の?」
「うん……」
「壊されたの?」
「うん」
「はぁ、またアイツら、ちゃんと注意しないと。それより立と?これはそのまま証拠にして、アイツらを吊るし上げないと」
「やだ、やだぁ……これは大事で、それで、えっと……吊るし上げるとか、したら、また……」
「そっか、じゃあそれは明日考えよ?とりあえず今日はそれ持って帰ろ。学校に閉じ込められちゃうよ」
「ひぅ……」
私は恐怖から、のっ反りと立ち上がった。壊れた粘土細工を両の腕で大事に抱えて、ポロポロ大粒の涙を流しながら。
和奏はハンカチを取り出して、その涙を脱ぐってくれた。鼻水が出たらそれも。綺麗な花柄で、いい匂いがするハンカチが汚れるのはいい気分ではなかったけれど、嬉しかった。
和奏と一緒に学校を出た。先生は最後、こう言った。
「気をつけて帰るように」
泣いていることもこの時間まで私が学校にいたことも、彼は何も言及しなかった。
*
その帰り道はとても不思議な感覚だった。
他の地区の子供と帰る、誰にもからかわれない。和奏は前を歩いているのに、私を置いて行かない。こっそりランドセルのロックを外されもしない。
後ろには誰もいなくて、少し前には和奏がいる。それがとても、とても心強かった。
「楓夏ちゃんの家に行ってもいい?」
「へ?な、なんで?」
「一緒に勉強しよって思って。駄目?」
「え、あ、良いけど……ああいや、嬉しい」
なんだか偉そうに聞こえると思って言い直すと、和奏は可笑しそうに笑った。不快ではなかった。
「ふふっ、楓夏ちゃんって面白いね」
「お、面白い?」
「うん、話してて楽しい」
「そんなの初めて言われた……あ、私の家遠いけど大丈夫?」
「何分?」
「45分くらい」
「私よりずっと遠いね、疲れないの?」
「疲れるけど……でもなんていうか、楽しいよ?」
通学路は長かった、だがなんとなく、季節の風を感じながら歩くのは楽しかったし、運動が苦手な私でもマラソン大会じゃ中くらいに入れるくらいには足腰だって強くなる。
「楽しい?どうして?」
「それはえっと、わかんないけど……あ、でも、遅くなっちゃって和奏ちゃんのお母さんとお父さんは?」
「大丈夫、遅く帰っても怒られないから。さあ行こ」
そう言って何かを隠すように、和奏は私の手を握って走り出した。
自転車に乗った中学生と反対方向に進みながら、私はひたすら和奏の綺麗に結われたハーフアップと、そこに留まった蝶のようなリボンを追いかけた。
カタカタと紙粘土がランドセルの中で跳ねたって、私は不思議と気にならなかった。
はぁはぁと息を切らして走りつつ、信号に来た所で、暗くなった夜空に和奏が指を指す。
「見て、一番星。綺麗だね」
「え?うん、そうだね」
ただの星だ、私はそれより、沈んでいく夕日に照らされる町並みの方が綺麗だと感じた。
今ならわかる、あの時は夕日よりも、星よりも、がらくたの粘土細工よりも、その手から伝わる熱が美しかったと。
沈む町の中で私は確かに、その笑顔から幸せを見いだしていた。
**
久しぶりに学校に行くからだろうか、和奏と仲良くなった日のことを思い出した。
その日は一緒にドリルの文章題を解いた、初めて勉強が楽しいって思えた日だった。
今は随分差が開いてしまった。また教えてくれるかな、そう思って私は窓の外、並立して走る自転車を眺める。
顔は見られたくないから少しでも目立たないように後部座席に座っている、でも正直これでも十分見られている気がして全然落ち着かない。
母は運転席で少し楽しげだ、私が学校に行くのが嬉しいんだろう。
「確か、会議室に行ってって言われてるんだっけ?」
母の事実確認に、私は頷く。
「うん。保健室はサボる子とか来るし、怖い」
「大げさだと思うけどね」
「人間は怖いよ……」
「楓夏も人間でしょ」
「まあ、そうだけど」
私は他人と会いたくない、できるなら学校なんて行きたくない。
でもこのままじゃ嫌だ。少しずつ慣らして、いつか和奏に追い付きたい。
学校の裏手の方に母が車を停めて、私は久しぶりの教科書の重みのする鞄を肩にかける。
制服越しに当たる北風の冷たさは、何処か懐かしかった。この日の為に母に髪を切ってもらったけど、何かおかしい所は無いかと思わず思って前髪を弄ってしまう。
「じゃあ何かあったら連絡してね」
「うん、いってきます」
いってきます、いってきますかぁと、私は妙に感慨深くなる。
母の車が去っていくのを私は名残惜しく見つめた。ああ、ここからは私は一人だと。
朝練をしている運動部の声が怖い、びゅうびゅう吹く北風が怖い。曇天が逃げ場を塞いでいるようで、怖い。
逃げるように私は進む、通学用の白い靴がアスファルトを叩く音が妙にうるさい。
裏口みたいな所のドアノブに手をかける、冷たいドアを開けて、久しぶりの学校の匂いを嗅ぐ。
人の匂いだ、それにちょっと木が混じった独特な匂い。いつもは気にならないのに、今はそれが新鮮だ。
シューズに履き替えて、静かな廊下を歩く。
途中で知らない先生とすれ違う。
「おはようございます」
「……よう……ございます」
小声で返すことしかできなかった。鞄の持ち手をぎゅっと握って、私は会議室に急いだ。
倒れないように一歩一歩進んだ、目眩は酷かった。
*
がらんとした会議室、私は一人不安に震えていた。
鞄をおいて、そこから取り出した水筒を飲む手が止まらなかった。
無機質に並ぶ灰色の椅子が恐怖を煽る、場所を間違えていたらどうしよう。
何度も何度も確認したのに間違えたら、恥ずかしいなんてものじゃない。
頭が痛いし、お腹も痛い。
もう帰りたい、しんどい。机に突っ伏すと、ドアが静かに開いた。
ゆっくり顔を上げると、そこにいたのは男の子だった。たぶん私と同じくらい、見覚えはない、でも私みたいな陰のオーラを放っていて妙に親近感があった。
ペコリ、少年は頭を下げた。
ペコリ、私も頭を下げた。
少年は私から随分離れた位置に座って、小説だろうか?本を読み始めた。
不登校は皆ここに集められているのだろうか、そう思いながらも話すことはしなかった。
*
会議室だったり視聴覚室だったりコンピュータ室だったり、コロコロ変わる不登校が集められる教室での生活は私にとって楽しいものでは決してなかった。
この学校の不登校者全員が集まることはないが、予想では5人前後だろうと私は推測している。
私が初めてその不思議空間――学校ではあるが雰囲気が独特――に行ってから5日経った。
月曜日に行って、火曜日は休んだ。水曜日も休んで、木、金と続けて行った。
学校に行くというのは苦痛を伴うものだった。学校に行っている間は奇妙なアドレナリンのようなものが出ているのだろうか?頭は痛い、確かに痛い。でも何処か抑え込まれているような感覚があった。その代わり家に帰ると疲労と頭痛が襲ってくる。ガンガンと叩かれるように痛いのではなく、もっと内側をまさぐられているような気色の悪い内部破壊。
尤も、やっていることは大したことがない。時々授業の無い先生が見守る中、教科書を読んで、少しずつ勉強をする。
初めは、というかこの3日はずっと数学をやっていた。一番遅れを取り戻すのが難しいと思い、復習から始めた。
練習問題や、ワークの問題を解き直して、レールの上をゆらゆら揺れながら歩くみたいにゆっくり、でも着実に私は頑張ったと言えるだろう。
実際言われた、「頑張ったね」と母に言われた。でも私はそうは思えなかった。こんなの初歩の初歩、全然差は埋まっていないし、私が1日で一生懸命進んだ数ページを皆は1時間で終らし、さらに他の教科も進めている。
もっと頑張らないと、そう思っても頭が痛い。だから私は仕方なく、いや、甘えて教科書をちょっとした枕にして、そこにさらに腕をのせて重い頭を預け、目を瞑る。
今日は頭痛薬を飲んでいなかった。飲み過ぎて効き目が悪くなっては困るから、普段から飲まないようにした。
でも、随分しんどい。ガンガンと頭が悲鳴を上げている。鞄の中に救済はある、でもそれは一時的なもの。
どうしようか、どうしようか。そう思っていると、しがれた声が聞こえた。
「難しい?」
いつもいる少年の声だった。視聴覚室の並んだ机のずっと左、頭をそっちに向けつつゆっくり顔を起こすと少年は咳払いした。
私は随分嫌な目をしていたのだろう。少年は気まずそうに視線をそらし、咳払いをした。それで気持ちを整えたのだろう、「あの」、というその声は少し高く聞こえた。
「数学、良かったら教えるけど」
「あ、いや、大丈夫です」
「あ、うん。ごめんなさい」
拒絶されたと思ったのだろう、少年の声は尻すぼみだった。というか自分でも随分誤解を招く言葉だ自覚し、少し赤面する。
「あの、私、頭が痛いだけで。それでえっと、いつか数学は教えてもらえると……嬉しい、です」
「あ、なるほど。邪魔してごめんなさい」
私たちはどちらも話すのが得意ではないのだろう、ここに今誰もいなくて良かったと、安堵の息を吐き出した。
沈黙が落ちると、頭痛が再臨する。
そんな脳みそを動かして、頑張って質問を作る。話すのは苦手だ、でも嫌いじゃなかったから。
ぐるぐると、或いはポツポツと浮かんだアイデアは、ありきたりで、そして何より少し踏み込み過ぎかな?そう思うものだった。
でも変に回りくどいよりは良い気がして、言おうと思い、けれど私は口を閉じる。だから話すのが苦手なんだ、傷付けるのが怖いから。
けれど、嫌いじゃない。だから私は勇気を出した。
「どうして、ここに居るんですか?」
少年はシャープペンシルを置いた。
「なんで不登校か……そういうことですか?」
「はい」
「なんだっていいでしょ、そんなこと」
「あ……ごめんなさい」
やっぱり、私は話すのが苦手だ。傷付けてしまうなら、そもそもこんな質問しないか、進み続けるしかなかったのに、私はどちらでもない方に逃げ込んだ。
涙が出てきそうで、眼窩を腕に押し付けていると、「いや」と、少年が呟いた。
それはたぶん独り言だった、白くて薄い髭がほんの少し生えた顎に手を置いて、言葉を探しているようだった。
彼は生真面目か、或いは誠実なのだろう。私の質問に、一度は拒否した質問に答える。
「学校っていうのは勉強をする場所で、だから別に先生の授業を受ける必要なんて無い。グループワークなんてなくても問題は解ける」
「……教室が怖いんですね」
「……まあ、そう。そっちも?」
少年は私も同じような不登校だと思ったのだろう、実際それは当たっていると言える、私だって教室のドアを開けるのは怖い。その恐怖はずっと胸の置くに溜まっていて、ずっとずっと大きくて、小さくなるなんて決してない。
時間じゃ解決できない恐怖に私は囚われている、でも私はこの人と決定的な違いがある。
だから、私は心の中で訴える。
――ねえ、四六時中頭が痛くて耐えられる?朝起きられなくて、トイレに行きらたくても必死に我慢して、1時間経って起き上がったり、ふらついて転んでも誰も助けに来ない孤独を知ってる?今も痛いんだよ?どう、隠すの上手でしょ?
そんな思考は1秒もなかった。そして何より伝える気なんてなくて、心の一片で私は返事をする。
「うん」
仲間意識が出来たのか、少年は微笑んだ。
――わかってないのに、私のこと
他人は、皆嫌いだ。私の苦しみを本当に理解している人は一人もいない。
*
皆がホームルームをする間に、私は駐輪場に逃げるように駆け込んで鍵を開けて、自転車に股がった。
一人、冬の高い青空を眺めながら堤防の上を走る。
冷たい風が耳を赤く染める、けれどずっとこうしていたいような気分になった。
真っ白な鳥が飛んでいる、鷺だろうか、翼が大きい。
「いいなぁ」
頭痛も、学校も、全部捨てて何処かへ行ってしまいたい。そんな風に思って、そんな風に思えるくらい自分が元気だって気が付いた。
これから少しずつ、なんとなりそうな気がした。頭は治らなくたって、なんとかなるかも。母の言う「なんとかなるさ」、それが輪郭を帯びたようだった。
私はギアを3から4にしてたち漕ぎし、自分の体を北風を受け止める帆にした。
寒空の下、冷たい空気で喉を潤して、私は疾走した。




