93杯目「帰還—束の間の安らぎ」
ノクトの背に揺られながら、俺は王都の方角を見つめていた。
赤い光の柱は、消えている。
空を裂いていた巨大な亀裂も、もう見えない。
二つの月は、いつものように穏やかな光を放っている。
「……終わった、のか?」
呟くと、隣に座っていたリリアが顔を向けた。
「アル、どうかしましたか?」
「いや……」
俺は首を横に振る。
「なんでもない」
でも、胸の奥に引っかかるものがある。
「アル」
後ろからルーナの声が聞こえた。
「大丈夫? 顔色、悪いよ」
「ああ、疲れてるだけだ」
そう答えたが、本当にそうだろうか。
ミアが、ノクトの首を撫でながら言った。
「もうすぐ王都です。見えてきました」
前方に、王都の城壁が見えてくる。
街は……静かだった。
パニックに陥っていた時の混乱は、もうない。
人々が通りを歩き、商店が営業している。
日常が、戻りつつある。
「良かった……」
リリアが、ほっとしたように呟いた。
「街が、無事で」
ルーナも安堵の表情を浮かべている。
「うん……本当に良かった」
ノクトが、城の中庭にゆっくりと降下する。
着地の瞬間、砂埃が舞い上がった。
「お帰りなさい!」
城の入口から、マリアが駆け寄ってくる。
その後ろには、マーカスの大柄な姿も見えた。
「マリア、マーカス……」
俺たちがノクトから降りると、マリアが心配そうに俺たちを見回した。
「みなさん、無事で良かった! 怪我は?」
「大丈夫です」
リリアが答える。
「少し疲れているだけです」
「そう……」
マリアが、ほっと胸を撫で下ろす。
マーカスが、俺の肩を叩いた。
「よくやったな、アル」
「……ああ」
俺は頷く。
「でも、まだ——」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
まだ、終わっていない。
でも、今は言うべきじゃない。
みんな、安心している。
この束の間の平和を、壊したくない。
「父上!」
リリアが、城の入口に現れた人物に向かって走る。
そこには——。
魔王ゼクセル・クマガワが立っていた。
「リリア……」
魔王が、娘を優しく抱きしめる。
「無事で何よりだ」
「父上……」
リリアが、父の胸で泣く。
その隣には、人族の王も姿を現した。
「ルーナ!」
「お父様!」
ルーナも、父親のもとへ駆け寄る。
二人の王は、娘たちを抱きしめながら、俺たちに視線を向けた。
「アルよ」
魔王が言う。
「報告を聞かせてもらおう。一体、源流で何があった?」
俺は、深く息を吸った。
そして——。
源流での戦い。
守護者との出会い。
災厄との戦闘。
そして、煙が語った真実。
すべてを、話した。
「……なるほど」
魔王が、腕を組んで頷く。
「お前が、選ばれた存在だったのか」
人族王も、深刻な表情で言った。
「試練……そして、選択」
「もし、アルが失敗すれば……この世界は滅びる、と」
「……そういうことになります」
俺は答える。
謁見の間に、重い沈黙が落ちる。
マーカスが、腕を組んで唸った。
「厄介だな……」
マリアも、不安そうな顔をしている。
「でも、災厄は一時的に退けたんですよね?」
「ああ」
俺は頷く。
「裂け目の奥に逃げた。でも、完全に消えたわけじゃない」
「また、来るということか」
魔王が、低い声で言った。
「ああ……おそらく」
俺の言葉に、全員が緊張した表情になる。
その時だった。
「すみません……」
か細い声が聞こえた。
振り返ると、守護者が壁に寄りかかっていた。
「守護者様!」
ミアが慌てて駆け寄る。
守護者は、顔色が悪い。
額に汗が浮かんでいる。
「大丈夫か!?」
俺も駆け寄った。
「ええ……少し、疲れただけです」
守護者は、弱々しく微笑む。
「私の力では……完全に川を安定させることは、できませんでした」
「そんなことない!」
俺が言う。
「あんたがいなかったら、俺たちは災厄を退けることすらできなかった!」
「ありがとうございます……」
守護者が、静かに言う。
マリアが、守護者の容態を確認する。
「……魔力が、ほとんど残っていません」
「すぐに休ませましょう」
守護者は、マリアに支えられて部屋へと運ばれていった。
俺は、その背中を見送る。
守護者は……弱っている。
何百年も、一人で源流を守り続けた反動だろうか。
「アル」
リリアが、心配そうに俺を見ている。
「あなたも、休んだ方がいいですよ」
「ああ……そうだな」
俺は頷いた。
確かに、体は限界に近い。
でも——。
休んでいる場合じゃない気もする。
「とにかく、今日は休め」
マーカスが言った。
「明日、これからのことを話し合おう」
「……分かった」
俺は、城の客室へと向かった。
部屋に入り、ベッドに倒れ込む。
天井を見つめる。
体は疲れきっているのに、眠れない。
胸の奥の違和感が、消えない。
「……まだ、終わってない」
俺は、呟いた。
窓の外を見る。
二つの月が、静かに輝いている。
でも——。
その光が、微かに揺らいでいる気がした。
まるで、何かが近づいてくるように。
「次は……いつ来る?」
俺は、月に問いかける。
もちろん、答えは返ってこない。
ただ、静寂だけが部屋を満たしていた。
その夜、俺は悪夢を見た。
裂け目の奥から、無数の手が伸びてくる。
その手が、街を、仲間を、すべてを飲み込んでいく——。
「うっ……!」
俺は、飛び起きた。
汗が、全身を濡らしている。
「……夢か」
深く息を吐く。
窓の外を見ると、もう朝だった。
太陽が昇り始めている。
二つの月が、沈んでいく。
その光は——。
やはり、どこか不安定に見えた。
「今日も……頑張らないとな」
俺は、ベッドから起き上がった。
顔を洗い、服を着替える。
階下に降りると、食堂から美味しそうな匂いがしてきた。
「おはよう、アル!」
ルーナが、明るい声で手を振った。
「おはよう——って、え!?」
俺は思わず目を見開いた。
ルーナが、いつもの冒険着ではなく、薄手の部屋着姿だった。
肩が見える緩めのネックライン。柔らかそうな生地が、体の曲線を優しく包んでいる。
「な、何よ! 変なところ見ないでよ!」
ルーナが顔を赤らめて、クッションを投げてくる。
「いや、その……いつもと違うから驚いただけで……」
「朝ごはんの準備してたら、服が汚れちゃったのよ! 悪い!?」
ルーナがぷくーっと頬を膨らませる。
その表情が、いつもよりも幼く見えて——可愛い。
「おはようございます、アル様」
背後から声がして振り返ると——。
「うわっ!?」
リリアが、薄手の寝間着姿で立っていた。
長い紫色の髪が少し乱れていて、眠そうな目。普段のきりっとした雰囲気とは違う、無防備な姿。
寝間着は白いシルクのようなもので、朝日に透けて——。
「ど、どうかされましたか?」
リリアが首を傾げる。
「いや! 何でもない!」
俺は慌てて視線を逸らした。
「リリア、あなた……それで歩き回ってたの?」
ルーナがジト目でリリアを見る。
「はい。朝食の準備をしていたので……何か問題でも?」
リリアは全く気づいていない様子だ。
「問題だらけよ! もっと自覚を持ちなさい!」
ルーナが説教を始める。
「おはようございます」
今度はミアが入ってきた。
ミアは……いつも通りの黒い服装だが、髪を下ろしていて、どこか柔らかい雰囲気だ。
「ミアまで……今日はどうしたんだ、みんな」
俺が呟くと、ミアが答えた。
「城の使用人の方が『朝はゆっくりしてください』と言ってくださったので」
「それで、普段着のままです」
「なるほど……」
テーブルには、リリア、ルーナ、ミアの三人が並んで座っている。
普段とは違う、リラックスした雰囲気。
これはこれで……悪くない、いや、むしろ——。
「アル、何ニヤニヤしてるのよ」
ルーナが疑いの目で見てくる。
「してない!」
「してたわよ。私見たもん」
「気のせいだ!」
俺は慌てて席に着いた。
リリアが朝食を運んできてくれる。
その時、リリアの髪が俺の頬に触れた。
柔らかくて、いい香りがする。
「アル様、昨夜は眠れましたか?」
リリアが心配そうに尋ねる。
近い。顔が近い。
「あ、ああ……まあ」
嘘をついた。
本当は、ほとんど眠れていない。
でも、こんな至近距離で見つめられると、別の意味でドキドキして何も考えられない。
「アル様、顔が赤いです。風邪でしょうか?」
リリアが額に手を当てようとする。
「大丈夫! 全然平気!」
俺は慌てて後ずさった。
その拍子に、椅子ごと倒れそうになる——。
「危ない!」
ミアが俺の肩を掴んで支えてくれた。
……が、ミアの豊かな胸が、俺の腕に当たっている。
柔らかい。
「アル様、大丈夫ですか?」
ミアが真顔で尋ねる。
距離感の概念がない。
「だ、大丈夫……」
「ミア! もうちょっと距離を考えなさいよ!」
ルーナが叫ぶ。
「? これくらいが普通では?」
ミアは本気で分かっていないようだ。
「普通じゃないわよ!」
「そうですよ、ミアさん。もう少し距離を……」
リリアまで説教モードに入る。
俺は、その光景を見ながら思った。
戦いは大変だけど……。
こういう日常も、悪くない。
むしろ——守りたいと思える。
でも、心配させたくない。
「それより、守護者は?」
俺が尋ねると、ミアが答えた。
「マリアさんが看病してくださっています」
「まだ、容態は回復していないようです」
「……そうか」
俺は、複雑な気持ちになる。
守護者が、あそこまで力を使い果たしたのは——。
俺たちを助けるためだ。
その責任を、感じずにはいられない。
「アル、考え込まないで」
ルーナが言った。
「私たち、みんなで戦ったんだよ。誰のせいでもない」
「……ああ」
俺は頷いた。
朝食を食べ終えると、マーカスが食堂に入ってきた。
「アル、魔王と陛下が呼んでいる」
「これからのことを、話し合うそうだ」
「分かった」
俺は立ち上がる。
リリア、ルーナ、ミアも一緒についてくる。
謁見の間では、すでに両王が待っていた。
マリアの姿もある。
「揃ったようだな」
魔王が言う。
「では、話し合いを始めよう」
「これから、俺たちは何をすべきか——」
長い、長い一日が、始まろうとしていた。
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