84杯目「不穏な予兆」
醸造所が完成してから三日が経った。
朝早く、俺は麹室に向かった。
温度は三十五度、湿度は八十パーセント。
麹菌が米に根を張り、白い菌糸が広がっている。順調だ。
「おはよう、アル」
扉が開き、リリアが入ってきた。
「おはよう、リリア。早いな」
「はい。麹の様子が気になって」
リリアは麹箱を覗き込む。
「綺麗に育っていますね」
そう言いながら、下から俺に笑顔を向けてくる。かわいい。
「ああ。このまま行けば、明日には切り返しができる」
「私も手伝います」
リリアが即座に言った。
「ありがとう。でも、麹は繊細だから……」
「大丈夫です。ちゃんと教わりましたから」
その時、扉が再び開いた。
「おはよう、アル!」
ルーナ姫が入ってきた。
「おはよう、ルーナ」
「私も手伝います」
ルーナがにっこりと微笑む。
「え、でも……」
「麹の管理は大切な作業でしょ! 私も役に立ちたいのよ」
リリアとルーナが同時に俺を見る。
二人の視線が、微妙に火花を散らしている。
「あ、ああ……じゃあ、二人とも頼むよ」
俺は苦笑した。
リリアが温度計を手に取り、ルーナが湿度計をチェックする。
「温度、三十五・二度です」
「湿度は八十一パーセントよ!」
二人が同時に報告する。
「よし。じゃあ、麹箱の位置を入れ替えよう」
俺が麹箱に手を伸ばすと、リリアとルーナが同時に動いた。
「私がやります!」
「いえ、私が」
二人の手が、麹箱の上でぶつかった。
「……」
「……」
気まずい沈黙が流れる。
「あの、二人とも。一緒にやってくれる?」
俺が仲介すると、二人は渋々頷いた。
扉の外から、リーサが微笑ましそうに覗いている。
「アル、頑張ってね」
リーサが小声で言った。
「ああ……」
俺は小さく頷いた。
麹の管理作業は、予想以上に緊張感のあるものになった。
*
夕方、作業を終えて外に出ると、空が茜色に染まっていた。
「今日も、お疲れ様」
リリアが言う。
「ああ。二人とも、ありがとう」
「明日も頑張りましょ!」
ルーナが元気に言う。
二人は宿舎に向かい、俺は醸造所の屋上に登った。
空を見上げると、まだ日が沈みきっていない。
二つの月が、薄く空に浮かんでいる。
「……」
何か、おかしい。
いつもより、月の光が強い気がする。
「アル?」
声がして、振り返るとリリアが立っていた。
「リリア。どうした?」
「アルが一人でここにいると思って……」
リリアが隣に立つ。
「月、綺麗ですね」
「ああ」
しばらく、二人で黙って月を眺めた。
「ねえ、アル」
「ん?」
「私、最初は酒造りなんてよく分からなかったけど……今は、とても楽しいんです」
リリアが微笑む。
「アルと一緒に、何かを作り上げていくのが」
「俺も、みんながいてくれて嬉しいよ」
俺が言うと、リリアの頬が少し赤くなった。
「これからも、ずっと……一緒にいてくださいね」
「ああ、もちろん」
その時だった。
突然、二つの月の光が強くなった。
「うわっ!」
目が眩むほどの光が、一瞬空を覆った。
視界が歪む。
頭に、鋭い痛みが走る。
「アル! 大丈夫ですか?」
リリアが俺の腕を掴む。
「ああ……大丈夫だ」
痛みは、すぐに引いた。
しかし、胸の奥に不安が残る。
「今の、何だったんでしょう……」
リリアが不安そうに月を見上げる。
月は、また普通の明るさに戻っていた。
「分からない……けど、嫌な予感がする」
俺は月を睨んだ。
*
翌朝、醸造所で作業をしていると、ブルグ長老が慌てた様子で入ってきた。
「アル! 緊急の知らせじゃ!」
長老の手には、封蝋で封じられた手紙が握られていた。
「これは……」
「ミズハ殿からじゃ。飛竜便で届いた。相当急ぎのようじゃぞ」
俺は手紙を受け取り、封を切った。
リリア、ルーナ、リーサも集まってくる。
手紙には、ミズハの几帳面な文字が並んでいた。
『アルへ
緊急の報告だ。魂の川に異変が起きている。
詳しいことはまだ分からないが、魂の流れが明らかに乱れている。二つの月の光が強まっているのも、その影響かもしれない。
ユリからも同じ報告を受けました。彼女は黄金の稲穂を守るため、その場を離れることができません。
近いうちに、大きな変化が訪れるかもしれない。
覚悟は決めておいた方がいいだろう
ミズハ』
「魂の川に、異変……」
俺は手紙を握りしめた。
「まさか……」
昨夜のことが、頭をよぎる。
「アル……」
リリアが不安そうに俺を見る。
「大丈夫。なんとかなるさ」
俺はリリアを安心させるため、何より自分にそう言い聞かせた。
「ええ……」
ルーナが力強く頷く。
「私たちがついてるわ! 何が起きても、一緒に立ち向かうんだから!」
「ルーナ……」
リーサも静かに微笑む。
「アル、私も……力になります」
みんなの言葉が、胸に沁みる。
ブルグ長老も、頼もしく頷いた。
「この醸造所は、わしらに任せておけ。アル、お前は自分のやるべきことをやるんじゃ」
「ありがとうございます、長老」
ルーナとリーサも、決意の表情で頷く。
外では、ドワーフたちが元気に働いている。
醸造所の煙突から、蒸気が上がっている。
日常は、まだ続いている。
しかし、確実に何かが動き始めている。
俺は、窓の外の空を見上げた。
二つの月が、昼間の空にうっすらと浮かんでいた。
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